絶望女子とイケオジの贈り物
──「最悪だ」
あれは急に冷え込んだ、月末の夜だった。
私の住む粋逸市の駅前。
そこへ着くなり、紺のスーツ姿の私は絶望して、その場に座り込んだ。ハァハァと息が上がっていて苦しい。
肌寒い風が街路樹の葉を揺らし、オレンジ色の街灯が劇場のスポットライトみたく私を照らしている。はたから見たら、まるで悲劇のヒロインのようだろう。
どうしてこんな状態だと聞かれれば、実はたいした理由ではない。ただお気に入りのドーナツ屋さんが閉まっていただけの話である。
そう。駅前にある小さなドーナツ屋『プレジール』。そこには期間限定発売の『くまカスタードーナツ』があった。楽しみにしていたのに、あのパワハラ野郎……じゃなくて、部長に仕事を押し付けられ、閉店時間を過ぎてしまったのだ。
今日こそは、絶対、仕事帰りに買うんだって決めてたのに。販売期間、終わっちゃったじゃない。
脱力感に襲われて、立っていられなかった。きっと電車を降りてからここまで猛ダッシュしてきたせいもある。ヒールを履いてるから爪先も痛い。
行き交う人たちが私の近くをどんどんすり抜けていく。私だけが、その場から動けない。
もうやだ。疲れた。歩けない。何もしたくない。
頭に浮かぶのはそんな言葉ばかりだ。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
そんな中、うずくまる私の頭上から、低くて心地良い声がした。
お嬢さん呼ばわりに驚いた私が顔をあげると、そこにはダンディーなおじさんが心配そうに私を見下ろしていた。清潔感のある短い髪と整えられたひげがオシャレだ。お店のロゴの入ったエプロンをつけている。ここの店長さんだろうか?
「大丈夫です。ちょっと色々ショックで」
「何やらお疲れのご様子ですね」
「はい。この頃ずっと残業続きだったので」
「もしかしてドーナツを買いに来てくださったんですか?」
「ええ、そうなんです。間に合いませんでしたけど」
「やはりそうでしたか。少々お待ちくださいね」
おじさんは素早く店の奥に引っ込むと、紙袋を抱えて戻ってきた。食欲をそそる甘い匂いがふわりと香ってくる。おじさんは目尻を下げ、紙袋を私に差し出した。
「売れ残りですけど、良かったらどうぞ」
「え!? いいんですか?」
「はい。遠慮なくどうぞ」
私は慌ててお代を渡そうとする。けれどおじさんはどうせ処分するつもりでしたから、と受け取ってくれなかった。
「ありがとうございます。家でゆっくり食べます」
彼の優しさに触れ、少しだけ元気が出た、私。笑顔でお礼を言い、ペコリと頭を下げてから、温かい気持ちで歩きだした。袋から良い匂いが漂ってくる。
そこから数十メートル行ったところで、ぐうううう! と、不機嫌なお腹の虫が騒ぎ始めた。空腹にがまん出来なくなってくる。もう限界かも。
私は道沿いのベンチに座って、袋を開けた。家に着くまでに、もらったドーナツを全部食べようと思ったからだ。
「え。これって?」
中に入っているドーナツを見て驚く。そこにはくまの形のドーナツと、人気過ぎていつも売り切れてる、チョコクランチドーナツが入っていた。
おじさん、もしかして……?
私は来た道を慌てて引き返した。足が疲れているのも構わずに、走り続ける。
幸いおじさんの姿はまだあった。店の戸締まりを確認してるみたい。私は息を切らしたまま、声をかけた。
「あの、すみません!」
「はい。どうされましたか?」
「これ、もしかして、あなたのドーナツだったんじゃないですか?」
きょとんとするおじさんに私は紙袋を突き出した。
「だって、ここに入ってるドーナツ、いつも人気なのに売れ残るわけないです。自分で食べようと思って、取り置きしておいたんじゃないですか?」
おじさんは目をぱちくりさせてから、ほどなく爽やかに笑った。
「ははは。ばれてしまいましたか。何を隠そう、私はかなりの甘党でしてね。仕事帰りに食べるため、自分用に取っておいたのですよ」
「そんな仕事帰りのごほうびを、私がもらってしまっていいんですか?」
「いいんですよ。さっき、わざわざそれを買いに走って来てくださったんでしょう? 私はいつでも食べられますので、差し上げますよ」
ああ、髪振り乱してダッシュしているのを見られてたのね、と急に恥ずかしくなる。穴があったら埋めてほしい。
どんな顔をしていいか分からずうつむいていると、おじさんはエプロンを外して柔らかく告げた。
「こんなに遅くまでお疲れ様でしたね。それを食べて元気を出してください。あと、お仕事は大切ですけれど、頑張るのもホドホドに。またいつでもいらしてくださいね」
穏やかな声と労りに満ちた言葉が、疲れ果てた心にしみわたる。あんまりあったかくて、私はちょっと泣きそうになった。
「はい。また来ます。……今度はちゃんと、閉店前に」
「ええ。お嬢さんのご来店をお待ちしておりますよ」
おじさんは笑顔で手を振った。私は深く深く礼をして、家路を急いだ。
コツコツと鳴らす軽快な靴音。足は痛いけど、嬉しくて、頬がどうしようもなく緩んでいる。いつもとは違う胸の高鳴りを感じて、顔に熱が集まっていく。
「帰ってから、大事に食べよう」
自然とこぼれ落ちた独り言。きれいな月を見上げた私は、素敵なおじさんがくれたとびきりの贈り物を、潰れないよう優しく抱き締めたのだった。




