喜ぶ女子、逃げる
「連絡先を――」
私と店長さんの声と言葉が重なり、途切れた。
しんとなる店内。
同じことを言おうとしたと気づき、驚いた私は黙ったまま彼を見つめた。店長さんは大きく瞬きをしてから、目尻を下げて言った。
「私とRAIN交換をしてくれませんか? お嬢さんとたくさんお話がしたいです」
「私とですか?」
「はい。もちろん、無理にとは言いません。気が進まないなら、遠慮なく断ってくださって構いませんので」
「いえ! 私も店長さんともっとゆっくりお話がしたいと思ってました! ぜひとも交換してください!」
「そうなんですか。そう思っていただけて嬉しいです。ちょっとスマホを取って来ますね。少々お待ちください」
店長さんは会釈して、颯爽とカウンターの奥に消えていった。それを見届けた私は、一人でショーケースの前に立ち尽くしている。パニック寸前の頭を落ち着かせようと、深く深く息を吐いた。
良かった。私、ちゃんと言えた。これでプレジールに行けない時でも、店長さんとやり取りが出来る。
それにしても、店長さんも私と話したいと思ってくれてたなんて、ほんと信じられない。こんな嬉しいことってある?
動悸がなかなか収まらなくて、私の心臓、大丈夫だろうかと不安になる。ともかく三種類のチョコドーナツをトレーに載せ、レジ前で店長さんが戻ってくるのを、そわそわしながら待った。
「お待たせしました。先にドーナツのお会計をいたしますね」
店長さんは三つのドーナツを紙袋に入れ、レジカウンターの真ん中へそっと置いた。その後、エプロンのポケットからスマホを取り出し、操作してから画面を私に見せた。
「読み込みお願いします」
私もかばんからスマホを出して、店長さんのスマホのQRコードを読み取る。名前が表示され、私はそれを読み上げた。
「天見 幸太郎さん、ですね。登録しました」
「ありがとうございます。確認します」
店長さん――もとい幸太郎さんは、スマホの画面をスワイプして見ている。その間に私は自分のスマホをかばんに戻し、紙袋を抱えた。
「新道さん、ですね。下のお名前は何とお読みしますか?」
「千名月といいます」
「千の名月と書くのですね」
「はい。珍しい名前って良く言われます」
「綺麗なお名前ですね。あなたに合っていてとても素敵だと思います」
「っ! ありがとうございます」
そんなこと、初めて言われた。
「これからは下のお名前でお呼びしても?」
「はい! 喜んで!」
「ありがとうございます。では『千名月さん』。私もぜひ下の名前で呼んでください」
「じゃあ『幸太郎さん』とお呼びします」
「はい。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
二人で丁寧に礼をして、お互いの顔を見た。幸太郎さんの柔らかな笑顔が、私の心をわし掴みにする。ドキッとした瞬間、胸に抱えた紙袋を押し潰すところだった。良かったドーナツぺちゃんこ事件が起きなくて。
私が帰ろうとすると、幸太郎さんは当然のように、外まで見送りに来てくれた。紳士の見本のような方だ。
幸太郎さんと離れるのは名残惜しかったが、これ以上長居しては迷惑だと思い、笑顔を作った。
「今日もありがとうございました。チョコドーナツ食べて、明日も仕事、頑張ります」
「ええ。ですがくれぐれも頑張りすぎないように」
「はい。ホドホドにしておきます」
「ふふ。どうか気をつけてお帰りください。⋯⋯もし千名月さんがよろしければ、夜道も暗いので、ご自宅近くまで送っていきましょうか? 店はもう閉めますから」
幸太郎さんはそろりと私の隣に立ち、瞳を真っ直ぐ覗き込んできた。月明かりと街灯が、彼の憂い顔を照らしている。私をすごく心配してくれているのが分かる。
やかましく鳴る心音。今夜はとても寒いのに、私の体温は急激に上昇していく。
幸太郎さんと、このまま一緒に帰る? 夜道を二人で歩くの? 嬉しいけど、いったい何を話したらいい!?
「いえ、結構です! 私、走って帰りますのでご心配なく! それでは失礼します!」
勢いよく礼をして、私はその場から逃げるように走り去った。もうドキドキしすぎて限界だ。今日はヒールのない靴を履いていて助かった。これなら家にすぐ着きそうだ。
わあああ! すごいすごい! 連絡先も、名前も、聞けちゃった! やったああああ!!
暗い歩道を走りながら心の中で思い切り叫んで、万歳していた。興奮とニヤニヤ顔が止められない。期待に胸が膨らんで、抑えられない。
幸太郎さんに恋人が居ないと分かったこともそうだが、名前を褒めてもらったことも、めちゃくちゃ嬉しかった。
名付けてくれた両親には申し訳ないけど、『千名月』という名前は、昔からあまり好きじゃなかった。昔、同級生に「変わった名前」とイジられることもあったし、ずっと名前に私自身が負けてると感じてた。もっと地味で平凡な名前なら良かったのにって、何度考えたことか。
でも幸太郎さんに『綺麗』と言ってもらって、不思議と自分の名前が悪くないのかもって思えた。我ながら単純すぎるかもしれないけど。恋のパワーって凄まじい。
「帰ったらすぐ、RAINしよう!」
幸太郎さんとのやり取りに想いを馳せ、いつの間にか私は、小学生ぶりにスキップをしてしまうのだった。




