70、今までのことを振り返ります。
「聖女シルヴィの列聖の宣言の折り、あなたが参列しているのを知り、ワシはあなたの記憶の蓋を少しばかり開きました。」
「記憶の蓋、ですか?」
テオドール大司教は、淡々と、起きたことを話してくれていた。
そしてそれはどれも、身に覚えのある内容だった。
「そうです。人は転生する時前世の記憶には全て蓋をしています。あなたの蓋は、少しばかり柔らかかった。だからワシでも、少し力を加えただけで開けることができたのです。」
テオドール大司教は、まるでビンの蓋を開けるかのような手つきをした。
約三年前、シルヴィの列聖の宣言の時、サン・ソーヴル大聖堂で、突然頭に流れ込んできた前世の記憶。
まさかそのきっかけが、テオドール大司教の力だったなんて、思いもよらなかった。
「けれど、あなたがまさかここまで疫病対策に乗り出してくださるとは、予想していなかった。身を捨てて、全てを国民のために捧げてくれた。あなたこそ、誠の意味でワシらにとっての聖女であるかもしれん…。」
テオドール大司教の瞳には、微かに涙が浮かんでいた。
「そんな、私などまだまだです、まだ至らないところだらけですので…。」
「あなたのおかげで、たくさんの人が死から救われるだろうと思う、けれど、ワシもカミーユ殿も、神の意に反した行いをしていることに変わりはない、それが、今後どう動くかは、ワシにも分からないのです……。」
「神の、意……。」
神とは、人間の力の及ばないもの。この世界の創造主。
もしも創造主を神とするなら、神とはこの小説の作者なのだろうかと思う。
だとしたら、今の状態は、キャラクターが暴走して、作者の手から離れている状態なのか、それともオリジナルの小説を元にした、まったく違う物語の世界なのか。
それとも、物語ではなく、パラレルワールドの中で流動的に変わっていく現実の話なのか。
神はいるのか、その意はあるのか、それが私達にどう影響を及ぼすのか。
全ては分からないことだらけだった。
小説の中で、カミーユが火炙りになり死ぬまで、残り1ヶ月あまり。
その間に、得体の知れない神とやらの意思で、私の命は小説通りに摘み取られてしまう可能性もあった。
そしてそれこそが、私がずっと恐れていたことでもあった。
「神様は、いらっしゃるのでしょうか…?」
「もしも神が存在していなかったら、ワシは大司教にはなっていなかったでしょう。」
大司教のその答えに、私は暗澹たる気持ちになった。
「けれどもしも、たくさんの人々が死ぬことのみをよしとする者が神であるというのなら、私はその者を我が主とは呼びたくはないと思っております。」
「私も、そう思います…。」
私はテオドール大司教と再会を約束し、初めての謁見を終えた。
もしも神の意思が働き、私があと1ヶ月で、小説通りに死ぬのだとしたら、大司教との再会は叶わないかもしれない。
そしてまた、大司教が先に神の元へと召される可能性もある。
その時、神の意に反したテオドール大司教は、神とどんな対話をするだろうかと思う。
神の意とは何だろう?1ヶ月後の、小説内では私が火炙りになって死ぬ日に、何かが起こってしまうのだろうか?それとも、何も起こらずに過ぎていくのか。
あと1ヶ月後に迫ったXデーを前に、私はひとまず、1ヶ月後に死ぬと仮定して、残りの時間を全て疫病対策のために、できることを全て引き継げるように、最後の確認に費やすことにした。
私はプリエの街を歩いて、これまでの三年間を振り返ることにした。
サン・ソーヴル大聖堂で前世の記憶が戻った私が、一番最初にしようと思ったのは、街の清掃作業だった。
あの時のプリエの街は、実に酷い有り様で、今考えると、とても住める環境ではなかった。
あの時と比べると、街は見違えるように綺麗に整っている。
清掃員が毎日掃除をして、人々の排泄物は堆肥としてオルレアンに運ぶのが当たり前になっているので、そこら辺に放置されることもない。
道端は綺麗に掃除され、人々は部屋のバルコニーで、好きなハーブを育てている。
プリエの人からの堆肥のおかげで、オルレアンの作物は今年も豊作だった。
去年は気候も良く、小麦もきちんと収穫できている。
ただ、フランセイズ王国以外の周辺国はコレラの影響で人口も収穫量も減っているので、沢山取れた分は、援助物資として周辺国に送っていた。
周辺国で猛威を奮っていたコレラは、現在収束に向かっていた。
沢山の人が罹患し、集団免疫ができたのと、汚染された水を飲まないように指導をしたこと、また、石鹸や消毒液、浄化した水をコレラが流行している周辺国に配り、手洗い、うがい、消毒を推奨したことが効果を上げてくれたようだった。
けれど、コレラでダメージを受けた周辺国が、次にペストに襲われたら、今度こそ壊滅的な被害を受ける。
私はフランセイズ王国だけではなく、その周りの国もなんとか救わなくてはいけないと、改めて決意を新たにしていたのだった。




