32、マスクを作ります。
季節は次第に、秋から冬へと変わって行っていた。
私が前世の記憶を思い出してから、すでに半年以上の時間が経っており、私が提案した疫病対策のうち、いくつかはすでに大分準備が進んでいた。
冬が近づくと気になるのが、インフルエンザの流行である。
この世界には、インフルエンザワクチンもないし、タミフルもない。
最近ようやく量を作れるようになったペニシリンも、インフルエンザには効かない。
薬が効かないのであれば、もはや予防に気を付けるしかない。
ありがたいことに、石鹸も安く品質の良いものがらかなりの数ができたので、一度国で一括で買い上げ、各家庭に少量ずつであるけれど、配れることになった。
同じく消毒用アルコールもかなりの量を作れるようになったので、こちらも同じように国で買い上げ、石鹸と同様に各家庭に少量ずつではあるが配った。
浄水場も、まだ計画段階ではあるけれど、濾過装置を作り、かなり大量の水をだいぶ綺麗にすることができるようになっていた。
今までは汚いままのセイネ川の水を、水売りが各家庭に売っていたのだけれど、その水を濾過後の水に変えるだけで、清潔度は格段に上がっていた。
うがい、手洗い、消毒。この3つをきちんとできるようになれば、かなりの予防効果が期待できる。
次に普及させたいのは、マスクだった。
マスクと言えば、過去に黒死病が流行った時に医師が装着した、鳥の嘴のような形をした奇妙なマスクならあったけれど、金属製の鎧や仮面のような見た目だった。
この世界で顔を隠す人と言えば、犯罪者が訳有りだと思われてしまうけれど、マスクが飛沫の飛散防止に一定の効果があるのは事実だった。
私は医療用のガーゼを手にいれ、記憶を便りに柔らかなカーブを付けて裁断して、縫い合わせた。
そして両端には、やや伸縮性のある紐を付ける。
立体マスクは、ほんの30分程度で出来上がった。
この程度の針仕事なら、簡単に誰でもできるのではないかと思う。
実際に、インフルエンザの予防という観点からだけで言うと、マスクの効果に疑問視する声があるのは知っていたけれど、お互いにマスクをしていれば、保菌者がいても、拡散し難くなるはずだった。
流行性感冒、インフルエンザは、この世界では、ラ・グリップ、と呼ばれていた。
まだウイルスなんていう概念は人々にはなく、なんだかよく分からないけど、急に流行る恐ろしく熱が出て感染する病気、という認識である。
そのため、大流行時には、毒を井戸に入れられたとか、魔女の仕業だとか噂になり、罪もない人が殺される事件も過去に起きている。
ここで、インフルエンザの流行を予知することは、後に私に掛かる魔女の嫌疑を、より強めることになるのかもしれないという不安はあった。
それでも、と思う。
それでも、私の知識を使って、一人でも多くの人が助かるのであれば、それが一番大切だと。
私は、これから来るであろう、ラ・グリップの流行に備えて、うがい、手洗い、消毒、マスク、の4点は非常に大切だと発表することにした。
同時に、睡眠、食事、清潔、この3点をきちんと行い、体を丈夫にしておくことが、病気に負けないために必要だと推奨する。
スローガンだけで、どれだけの人が実践してくれるかは分からなかったけれど、効果があると分かれば、行動してくれる人も増えると信じていた。
私は空き家になっていた屋敷を一軒買い取ると、そこをマスクの縫製工場にすることにした。
そこで、職を探していた女性達を雇い、マスクの縫製の仕事をして貰った。
素材は医療用のガーゼを使い、お針子の皆にも、まずマスクを付けさせて、こまめな手洗いと消毒を徹底させた。
2月までのデュール・ショコラ作製に向けたショコラ工場は、聖堂でシルヴィが責任者となり進めて貰えるようにお願いしてある。
そこでの従業員として雇う人にも、皆マスクと手洗いと消毒を徹底してもらうことにした。
ショコラ工場に関しては、私主催でオルレアンに作った方が良いか悩んだのだけれど、あと2年程度で死んでしまう私が何かを残しても、私の両親では管理しきれないだろうと思ったのだ。
国や聖堂のみに任せても、出た利益をきちんと庶民に還元して貰えるかは怪しい。
その点聖女シルヴィであれば、間違っても利益で私腹を肥やすことはないし、未来の王妃にもなるだろうから、安心して任せることができた。
石鹸、消毒液、マスクは、調理の現場や商店に優先的に付けて貰えれば良いと思う。
けれど、そもそもその習慣がない人達に、どうすれば習慣付けて貰えるのか。
どうすれば、街の人達に分かって貰えるだろうかと、私は街を歩きながら、しばらく考えていた。
フレーズ卿に守られながら、久しぶりにプリエの街を散策する。
清掃活動のおかげで、だいぶ綺麗になった所は多かったけれど、まだまだ足りない所もあった。
特に裏通りの貧民街は、まだ不潔な所が多く、改善の余地はまだまだ沢山あった。
ふと見ると、路地の向こうに、ボロボロの服を着た少年がうずくまっているのが見えた。
この少年が後に、私の運命を変える切欠になる人物になるなんて、その時の私にはわかるはずもないことだった。




