第九話 不倫
静かな音楽が流れる室内。
大きな窓は綺麗に拭き上げられ、室内の客たちを映し出している。
ところどころに置かれた観葉植物。
誰もが小さな声で会話を楽しんでいる。
真央の前でワイングラスを傾けるその男も、楽しそうにくつろいでいるように見えた。
近藤謙一。妻も子もいる男だ。
単なる職場の上司と部下が、男女の関係になって5年が経っている。
入社した当初は、優しくて素敵な人だと思うだけで、まさか男女の関係になろうなどとは思ってもいなかった。
それがいつの間にか、二人きりで食事をするようになり、アルコールが入り、気がつけばお決まりのように肌を合わせていた。
若かった真央を虜にするのは至って簡単なことだった。
愛していると囁き、真央の美しさを褒め称えるのだ。
どんなに知的で有能な女性でも、ツボというものがある。
近藤は見事に真央のツボをとらえたのだった。
しかし、付き合いだして一年が過ぎ二年が過ぎれば、このままではいけないという危険信号が鳴り響き真央を脅かした。
いつだったか、真央が別れを切り出したときだ、近藤はしんみりとこう言ったのだ。
「僕は妻と別れようと思っているんだ。そして、君と結婚したい」
近藤の瞳の中に真央が映っていた。
「だって、奥さんは……」
付き合い始めた頃、近藤は妻を褒め、事あるごとにプレゼントを贈っていると話していた。子ども達も可愛い盛りで、目の中に入れても痛くないほどだと。
そんな家庭的な近藤に惹かれていたような気がする。
「妻には男がいるのさ。それが分かった今、考えられるのは離婚しかないんだ」
「奥さんが浮気?」
よくよく考えてみればお互い様なのだ。
今ならそう思う事も、愛する男が目の前で俯いて告白すれば、若い真央には助けてあげたいという思いが湧いてくる。
「もう、帰ったところで言葉すらないよ」
「お子さん達は?」
「二人とも妻に丸め込まれているよ。父親なんてつまらないね」
「可哀想に……」
「だから、僕は離婚を申し出ようと思っているんだ。
離婚したら、君と結婚する。だから、別れるなんて言わないでくれ」
結局その後も離婚などせずに、ずるずると続いているのだが。
しかし、さすがに五年だ。しかも、真央には敦がいる。
敦と付き合いだして三年。
天秤にかけてきた訳でも、二股してきたつもりも無いが、結果同じことだ。
敦からプロポーズされ、どれほど嬉しかったことだろう。
直ぐにでも結婚したかった。
別に仕事に生きるつもりも無ければ、今の仕事が楽しいわけでもないのだ。
まして、周囲の女性社員はどんどん寿退社で辞めていくのだ。
残される身がどれほど惨めな事か。
しかし、どうしても近藤との別れ話が決まらない。
敦は結婚を迫ってきている。
敦のプロポーズを断ることは簡単だが、それだけはしたくない。
では、敦を愛しているのかと聞かれれば分からないというのが本音だ。
だが、一緒にいて楽しいし、楽なのだ。
結婚相手は楽な人が一番だと思っている。
それゆえ、結婚話を進めるためには近藤としっかりと別れておきたいのだ。
だからこそ、今まで何度も別れを切り出してきたのだ。
「だから、あの仕事は俺の業績なんだよ」
口角に泡を飛ばさんばかりの勢いで近藤が力説しているのは、今回のプランを上司に横取りされたことへの恨み辛みだ。
こんな姿にも嫌気が差している。
最近では、果たして妻との話も本当だろうかと疑いが浮かんできているのだ。
「気乗りしない顔してるね。じゃぁ、二人っきりになれるところへ行こう」
近藤が嬉しそうに伝票を持って席を立った。
二人きりになれる場所。
それがどういう意味か分かりすぎるほど分かっている。
(ダメよ。もう、はっきりと別れなくちゃ)
そうは思っても言葉が出てこない。
結局、流されるように一緒に店を出るしかないのだ。
こんな時につくづく思う、自分は何て愚かなのだろうと。
店から出ると、まるで逃げられないようにと思ってでもいるのか、真央の肩をしっかりと抱き寄せ歩き出した。
いつもの事とは思うが、不快な感情が頭をもたげる。
(私は、この人が好きなのかしら?)
自問自答を繰り返す。
(好きだから、こうして歩いているの?)
(でも、敦が……。彼はどうなるの?)
(はっきりさせなくちゃ)
黙ったまま俯いて歩く真央に反して、機嫌よく面白くも無い話を繰り広げては、大笑いをしている近藤。
真央の不愉快な気分も、落ち込んだ気持ちも、何一つ気がつくことがない。
ホテルに入れば、いつもと同じ様に自分から風呂のお湯を張り、服を脱ぎだす。
それは、ここまでくれば逃げられることなど無いというおかしな自信なのだろう。
真央はソファーに座り込み、じっと近藤の行動を見つめていた。
そしてポツリと「別れよう」と呟いたのだ。
近藤はおどけたように笑って真央に近づくと、真央の体を抱きしめた。
(どうしてはっきり言えないのかしら。もう、あなたを愛していないって……)
結局、いつもと同じ夜が始まっただけ。
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