第四話 竜になる前
三度目の人生では、エレナは王都に着くとすぐ北方の記録を集めた。大聖堂の書庫には、過去の黒竜出現時に各地から届いた報告書が束ねられていた。家畜が原因不明で死んだ村、井戸水が黒く濁った町、鳥が一斉に姿を消した森。年も場所も違うのに、その順序だけはほとんど同じだった。
書庫へ入った時、リゼットは当然のようにエレナを覚えていなかった。入口の机で顔を上げると、一度目とほとんど同じ調子で口を開いた。
「聖女様でも貸出規則は――」
「飲食禁止。書き込みと頁折り禁止。返却は七日以内、ですよね」
リゼットの口が途中で止まった。
「……以前、来ました?」
「たぶん、初めてです」
「たぶん?」
その時、奥からフィンが顔を出した。
「北方報告書の保管箱の鍵、見ませんでした?」
リゼットは無言で彼の腰を指差した。鍵束が法衣の帯から揺れていた。フィンは下を見て、しばらく黙った。
「ありました」
同じ人は、同じところで困るらしい。エレナは笑いながら、なぜか少し泣きそうになった。自分だけが、彼らと一度会ったことを覚えている。
地図へ印を付けていくと、異変は北の谷から少しずつ南へ動いている。
エレナはそこへ向かった。
王都を出て数日は、街道の両側に春の色があった。ところが北へ進むにつれて、景色から色が抜けた。芽をつけていない木が増え、畑の土は湿っているのに何も植えられていない。川を渡った時、橋の欄干に白い羽がいくつも貼りついていた。
「鳥です」
案内人はそれだけ言って、橋の向こうへ視線を戻した。さらに進むと、道端にも鳥の死骸が見えるようになった。一羽、二羽と間を置いて落ちている。身体に傷はなく、目を閉じたまま雨を含んだ土の上に横たわっていた。
エレナは馬を止め、林を見た。風はある。枝も動いている。それなのに鳥の声がしない。先ほど渡った川にも魚はいなかった。
そのことに気づいてから、ここまでの道がひどく静かだったことを知った。
北の谷へ入る前夜、エレナたちは小さな砦に泊まった。もとは国境警備に使われていた建物で、石壁には古い煤が残り、窓には厚い木戸がついていた。
兵士たちは夕食の席でもほとんど話さなかった。谷に近づくほど、動物がいなくなる。それを誰も口にしないだけだった。
深夜、エレナは目を覚ました。
静かすぎた。
砦なら夜番の足音がある。馬が鼻を鳴らす。薪が爆ぜる。ところが何も聞こえない。
廊下へ出ると、アルベルトが窓の外を見ていた。この人生でも彼は護衛としてついてきていたが、まだ一度目ほど親しくはなっていない。
「眠れないんですか」
「あなたもでしょう」
外には月が出ていた。林の輪郭が白く見える。
「変ですね」
アルベルトが言った。
「何がですか?」
「虫がいません」
言われて初めて気づいた。
春の夜なのに、灯りへ寄る羽虫が一匹もいない。
翌朝、砦の馬が一頭死んでいた。傷はなかった。
谷へ向かう兵士のうち二人が引き返した。誰も責めなかった。
エレナは、黒竜が復活するという言葉の意味を初めて実感した。何か巨大な生き物が眠っていて目覚めるのではない。世界の方が少しずつ異常になり、その異常に人間が「黒竜」という名前をつけている。
谷の入口では、馬が進むのを拒んだ。地面に触れたエレナは、自分の掌の下に、人の身体とは比較にならないほど大きな流れを感じた。土地そのものの奥を何かが通っている。だが、その流れは途中でせき止められ、行き場を失ったものが周囲へ滲み出していた。
黒竜はまだいない。
それなのに、黒竜になるものはすでにそこにあった。
エレナは途切れた場所へ意識を向けた。傷ついた人間へするようにつなごうとした瞬間、掌から腕へ焼けるような痛みが走った。規模が違いすぎた。人ひとりの身体なら指で触れられる糸が、ここでは山より太い綱のようだった。
黒い霧が谷底から上がってきた。
案内人が咳き込み、馬が倒れた。エレナも喉の奥に鉄の味を感じた。
黒霧が足元まで這い上がった時、聖女の印が痛んだ。
人の傷に触れた時とは逆だった。つなぎたいのに、どこへつなげればいいのか分からない。流れの先が意図的に断たれているようだった。
誰かが、かつてこの土地の流れを変えた。
その考えが浮かんだ直後、黒霧を吸い込んだ肺がひどく痙攣した。喉の奥に鉄の味が広がり、膝から力が抜ける。同行した兵士が腕をつかんだが、もう声が出なかった。
地面へ倒れたエレナの右掌で、白い螺旋が光った。谷を満たす黒とは正反対の色だった。
雨音が戻った時、エレナは自分の部屋の寝台にいた。胸にはまだ、黒霧を吸い込んだ痛みの記憶だけが残っていた。
四度目の春だった。




