第三話 二度目の春
二度目の春に戻ったあと、エレナは数日のあいだ眠れなかった。目を閉じれば処刑台を囲んだ炎が見え、眠りに落ちれば喉の奥に煙の味が戻った。母は理由を聞かず、夜中に起きている娘へ温めた乳を置いていった。
逃亡を決めた時も、母は長い説明を求めなかった。荷物は少なかった。衣類を数枚、乾いたパン、母が大切にしていた銀貨を布袋へ入れた。家を出る朝、母は戸口に一度手を置いたが、振り返らなかった。
南へ行くほど春は早かった。街道沿いには白い花が咲き、畑では農夫が土を起こしていた。二人は旅人のふりをし、宿では姓を名乗らなかった。
初めのうち、エレナは自分が自由になったように感じた。朝起きても鐘は鳴らない。祝福を待つ列もない。母と同じ卓で食事をして、安宿の固い寝台に並んで眠った。
けれど、その自由は長く続かなかった。
北から来る人が増えた。荷車には家具だけではなく、鶏籠や畑道具まで積まれていた。着の身着のまま歩く者もいた。ある村では、宿の裏庭に十数人が毛布を敷いて眠っていた。
「聖女がいなくなったらしい」
食堂で誰かが言った。
「逃げたって話だ」
「ほんとかね」
「本当でも嘘でも、竜が来るなら同じだろ」
エレナは匙を置いた。
母は何も言わなかった。
その夜、窓の外で赤子が泣いていた。泣き声はしばらく続き、やがて疲れたように細くなった。
自分一人が生きたいと思ったことを、エレナは間違いだとは思えなかった。けれど、自分がいなくなった場所で誰が代わりに死ぬのかを、もう見ないふりもできなかった。
王都陥落の知らせが届いたのは、その三日後だった。エレナは真っ先にアルベルトのことを考えた。彼なら城壁を離れないだろう。それが分かるから、名前を口にすることさえできなかった。
二度目の逃亡生活で、エレナは母のことを以前よりよく見るようになった。
母は強い人だと思っていた。父を早くに亡くし、一人で店の手伝いと畑仕事をしてエレナを育てた。多少のことでは泣かない。
けれど、宿を移るたび、母は必ず窓と扉の位置を確かめた。夜中に物音がすると目を覚ました。王都から追手が来るのではないかと、エレナ以上に恐れていたのかもしれない。
「ごめんね」
ある夜、エレナは言った。
「何が?」
「連れてきたこと」
母は針仕事の手を止めた。
「置いていかれる方が嫌だったわ」
「でも、危ない」
「家にいたって危ないんでしょう」
返す言葉がなかった。
数日後、街道脇の礼拝所で負傷した男を見た。北から逃げてきた農夫で、脚に深い裂傷があった。同行していた妻が、聖女とは知らずエレナへ布を貸してほしいと頼んだ。
エレナは傷へ触れた。
あの感覚が戻った。
途切れている。
無意識にそこをつなぐと、血が少しずつ止まった。
「ありがとう」
妻は何度も頭を下げた。
その場を離れてから、母が言った。
「それでも、逃げたい?」
「……うん」
「そう」
母は責めなかった。
エレナは、人を助けられる力を持っていることと、そのために死ななければならないことがどうして同じ話になるのか分からなくなった。
逃げるほど、その疑問は大きくなった。
そして北の空が黒くなった日、母はエレナの手を握った。
「あなたが戻れば止まるなら、戻りたいと思ってる?」
「分からない」
「分からないなら、今決めなくていいわ」
それが二度目の人生で母から聞いた最後の言葉の一つになった。
黒い雲は、その夜のうちに南の町まで広がった。風が止み、窓の外から鳥の声が消えた。宿の廊下では誰かが祈り続けていたが、夜半を過ぎる頃には、その声も咳に変わった。
エレナも息を吸うたびに胸の奥が焼けた。母は寝台の脇に座り、最後まで手を離さなかった。逃げれば助かると思っていた。少なくとも、逃げる時間くらいはあると思っていた。けれど黒竜から流れ出した黒い霧は、国の端まで追ってきた。
視界が暗くなった時、右の掌が急に熱を持った。星の印の内側に残っていた白い螺旋が、一筋ずつ光を帯びていく。炎ではない白い光が指の間からこぼれた。
次に聞こえたのは、雨の音だった。
三度目の春だった。




