第二話 一年前の春
一年前の春、エレナはまだ十六歳だった。処刑台も黒竜も、自分が一年後に死ぬことも知らなかった。知っていたのは、前の晩から右の掌に淡い星形の印が浮かび、それを見た村の司祭が息を呑んだことだけだった。
翌朝には王都から使者が来た。聖女の印が確認されたこと、三日後に迎えの馬車が来ること、身支度を整えて待つこと。母は何度も手紙を読み返した。
「うちの娘が聖女だなんて」
そう言って笑ったが、その夜、母は台所で一人泣いていた。エレナは声を掛けられず、暗い廊下からその背中を見ていた。
それでも当時のエレナには、怖さと同じくらい期待もあった。自分にしかできないことがあるのなら、人の役に立ってみたかった。王都がどんな場所なのかも見てみたかった。三日後、母に見送られて馬車へ乗った時には、それが自分の人生を大きく変える旅になることだけは分かっていた。どのように終わる旅なのかは、もちろん知らなかった。
王都へ向かう馬車が村を離れるころ、雨は上がっていた。轍に溜まった水が鈍く空を映し、畑の向こうでは低い雲が山の肩に引っかかっていた。エレナは何度も振り返った。母は村の入口に立ったまま、馬車が曲がるまで手を振っていた。
都へ近づくにつれ、道は広くなり、人の数も増えた。石造りの家が並び、荷馬車が行き交い、遠くから鐘の音が聞こえた。絵本でしか知らなかった王都は思ったより灰色で、古く、そして大きかった。城壁の内側へ入った時、エレナは自分が戻れないところまで来てしまったような気がした。
大聖堂の廊下は、昼でも薄暗かった。磨かれた石床には高い窓の光が細長く落ち、歩くたびに靴音が響いた。大神官セヴランは五十に届くか届かないかという年頃で、灰金の髪をきちんと後ろへ撫でつけ、白い法衣を隙なく着ていた。痩せた顔立ちは厳しそうにも見えたが、淡い灰色の目の端には笑う時にだけ細い皺が寄った。彼はその廊下を急がず歩きながら、王都の決まりや神殿での生活を説明した。声は低く穏やかで、必要以上に聖女を持ち上げることもしなかった。
「分からないことがあれば、分からないと言って構いません」
その言葉に、エレナは少しだけ肩の力を抜いた。ところが、すぐ後ろを歩いていた神殿騎士ヴァルターは表情を変えなかった。四十前後に見える大柄な男で、短く刈った黒髪と、左の眉を横切る古い傷が目についた。濃紺の騎士服は飾り気がなく、廊下の薄暗さの中ではほとんど黒く見えた。立っているだけで、そこだけ通路が狭くなったようだった。
「ただし、聖女として必要なことを拒む自由はありません」
低く付け足された言葉に、ほどけかけた緊張がまた戻った。
セヴランは振り返り、わずかに眉を寄せた。
「初日に言うことではないでしょう」
「いずれ知ることです」
二人の間に短い沈黙が落ちた。エレナには、その時はただ、気難しい部下とそれをたしなめる上司のようにしか見えなかった。
護衛騎士として紹介されたアルベルト・クロイツは、二十歳をいくつか過ぎたばかりに見えた。銀灰色の髪は襟に触れない長さに整えられ、灰青の目は静かで、感情の置き場所を外からはほとんど読めない。背は高いが大柄というほどではなく、無駄のない体つきと真っ直ぐな立ち姿だけが、剣を扱う人間であることを示していた。顔立ちは整っていたが、エレナが最初に覚えたのは容貌より、その人の周囲だけ音が少ないような静けさだった。その日の夕方まで彼はほとんど口をきかず、神殿の階段を下りる時、長い裾を踏みそうになったエレナへ無言で手を差し出したくらいだった。
「ありがとうございます」
「仕事ですから」
愛想のない返事だった。けれど、手を離す時に彼はエレナの歩幅を一度見て、その後は半歩だけ速度を落とした。
神殿で用意された部屋は、村の家より広かった。寝台には薄い天蓋があり、壁際には衣装箱が二つ置かれている。窓からは大聖堂の中庭が見えたが、石壁に囲まれているせいか、空が四角く切り取られていた。
侍女たちは親切だった。髪を梳き、王都の礼儀を教え、食事の時間になれば何種類もの皿を並べた。ただ、誰もエレナの名前を呼ばなかった。朝も昼も「聖女様」だった。
故郷では、母が怒る時だけ「エレナ」と少し低い声で呼んだ。パン屋の老人は「エレナちゃん」と呼び、近所の子どもは呼び捨てだった。名前を呼ばれないだけで、自分が誰か別のものへ変わっていくようだった。
最初の夜、眠れずに廊下へ出ると、扉の外にアルベルトがいた。
「まだいるんですか」
「夜番ですから」
「朝まで?」
「交代します」
当然のことを聞くなという顔だった。
エレナは少し迷ってから、窓辺まで歩いた。中庭の泉は夜になると止められていて、昼間より静かだった。高い壁の向こうから、王都の人声だけが薄く聞こえる。
「王都って、夜も静かにならないんですね」
「人が多いですから」
「村だと、夜は蛙しか鳴いてません」
「それはそれでうるさそうですね」
思いがけない返事に、エレナは笑った。
アルベルトも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その夜が、二人が初めて仕事以外の話をした夜だった。
翌朝、セヴランが部屋を訪ねてきた。王宮での謁見について一通り説明し、帰り際、扉の前に立つアルベルトへ一度だけ目を向けた。
「昨日はよく眠れましたか」
尋ねられたのはエレナだった。
「はい」
「それはよかった」
ただそれだけだった。
*
その日の午後、エレナは神殿書庫へ連れていかれた。大聖堂の東翼は日当たりが悪く、昼を過ぎても石壁に朝の湿気が残っていた。細い窓から差す光の中を埃がゆっくり漂い、革表紙と乾いた紙の匂いが奥まで続いている。聖女として最低限知っておくべき祈祷文や王国史を選ぶよう言われたのだが、入口の机にいた若い女性は、エレナを見るなり本より先に規則を説明した。司書補佐のリゼット・アーベルと名乗った。エレナより三つほど年上で、小柄な身体を紺色の司書服にきっちり収め、淡い金髪を一筋も乱れないよう結っている。青灰色の目と細い眉のせいで少しきつい顔に見えるが、机の上の本は大きさまで揃えて並べられていた。
「聖女様でも貸出規則は同じです。書庫内での飲食は禁止。書き込みも、頁を折るのも禁止。返却期限は七日です」
「まだ、借りたいとは言っていません」
「借りそうな顔をしていたので」
あまりにも真顔で言うので、エレナは返事に困った。その時、奥の扉が勢いよく開き、若い神官が両腕いっぱいに本を抱えて入ってきた。二十代前半くらいで、柔らかな栗色の髪は片側だけ跳ね、法衣の襟も少し曲がっている。人懐こそうな茶色の目をしているのに、抱えている本の一冊は上下が逆だった。救護所を手伝っている助祭のフィン・ローデだと、あとで知った。
「リゼット、北方祭祀の目録って、これで合ってる?」
リゼットは一番上の表紙を見た。
「それは婚姻祝福の手引きです」
「表紙が似てたから」
「題名を読んでください」
本の山が傾き、フィンは慌てて顎で一冊を押さえた。落ちはしなかったが、リゼットの眉間には深い皺が寄った。エレナはとうとう笑いをこらえきれなかった。神殿へ来てから、誰かに笑わせられたのは初めてだった。
「……聖女様まで笑わないでください」
「すみません」
「謝る相手が違います」
リゼットに言われ、フィンは本の向こうから小さく肩を落とした。アルベルトとはまるで違う二人だったが、王都で初めて、役目ではなく人の気配がする場所を見つけたような気がした。
聖女の仕事は、エレナが想像していたよりも地味で、そして際限がなかった。朝の祈祷が終われば、病人への祝福が始まる。昼には慈善院へ行き、夕方には貴族からの面会が入った。誰もが自分の願いを持っていた。熱を下げてほしい者もいれば、子どもを授かりたい者もいる。商売の成功を願う者さえいた。
初めて人の腕に触れた時、エレナは奇妙な感覚を覚えた。皮膚の下に光が見えるわけではない。ただ、細い流れのようなものがあり、その一部だけが引っかかっていると分かる。指先でそこをなぞると、絡まった糸がほどけるように感覚がつながった。
老人の痛みは消えなかった。それでも、曲がらなかった指が少しだけ動いた。
「奇跡だ」
周囲の神官たちはそう言った。
セヴランだけが、老人ではなくエレナを見た。
「何をしたのですか」
「分かりません。ここが……切れているような気がして」
「切れている?」
その声が一瞬だけ鋭くなった気がした。だが、セヴランはすぐ微笑んだ。目尻に、初日に見たのと同じ細い皺が寄った。
「疲れたでしょう。今日はもう休みなさい」
数週間もすると、エレナは自分が疲れる前にやめることができなくなっていた。外には朝から人が並び、病人を抱いた家族が何時間も待っている。それを知っていて「今日は終わり」と言うことは難しかった。
祝福の間には、フィンもよく出入りしていた。普段は薬草の袋を別の棚へ戻してリゼットではなく年長の神官に叱られたり、患者の名前を書いた札を自分の袖に貼りつけたまま探したりしている。そのくせ、誰かが急に倒れると人が変わったように動いた。ある日、待合で老人が意識を失った時には、床へ膝をつくのと同時に周囲を下がらせ、呼吸を確かめ、窓を開ける者と医師を呼ぶ者を迷いなく指名した。声も手も震えていなかった。
後でエレナがそのことを言うと、フィンは不思議そうに首を傾げた。
「倒れた人がいる時に慌てても、倒れた人は起きませんから」
「普段もそのくらいしっかりしていたらいいのに」
通りがかったリゼットが言った。
「それは別の話です」
フィンは真面目に答えた。リゼットは何も言わず、書類の束で彼の肩を軽く叩いた。
ある日、立ち上がろうとした途端に視界が暗くなった。身体が傾くより先に、近くにいたフィンが椅子を蹴る音がした。
「窓を開けて。水はまだ飲ませないで。医師を呼んで」
いつもの間の抜けた声ではなかった。さっきまで跳ねていた髪が汗で額に張りつき、茶色の目からは普段の頼りなさが消えていた。その短い指示を最後に聞き、気がつくと自室の寝台で、扉の向こうから神官の声がしていた。
「まだ大勢がお待ちです」
「明日にしてください」
アルベルトの声だった。
「遠方から来ている者もおります。聖女様を待っているのですよ」
「聖女である前に、彼女は一人の人間です」
静かな声だった。怒鳴ってはいない。それでも神官は、それ以上何も言わなかった。
その夜は雷雨になった。窓が白く光るたび、エレナは本を読むふりをして肩を強張らせた。アルベルトはしばらく黙っていたが、やがて椅子を一つ動かし、窓と寝台の間へ座った。
「これなら少しマシですか」
「……子どもみたいですね」
「怖いものは、怖いでしょう」
翌朝、彼は厨房で余ったと言って焼き菓子を一つ持ってきた。形の崩れた小さな菓子だった。エレナは半分に割り、その片方を差し出した。
アルベルトは少し迷ってから受け取った。
大した出来事ではなかった。だからこそ、エレナはそれを忘れなかった。
*
そうして季節が巡った。夏には大聖堂の石壁まで熱を持ち、秋には中庭の樹々が黄ばんだ。冬になると王都の屋根に薄く雪が積もり、アルベルトは凍った階段を下りるたび、何も言わずエレナの半歩前を歩いた。リゼットとは何度も本を巡って言い合い、フィンは相変わらず何かを探しては自分の手に持っていた。王都での暮らしは、いつしか連れてこられた場所から、知っている顔のいる日常へ変わっていた。
そして、十七歳になる春が来た。雪解けの水が側溝を流れ始めた頃から、北から届く知らせの調子が変わり始めた。
広場にはまだ春祭りの色布が渡され、菓子屋の窓には砂糖菓子が並んでいた。その明るさの中へ、泥で汚れた伝令が一人ずつ入ってきた。
最初は家畜が死んだという報告だった。
次は井戸だった。
三日後には、鳥がいなくなった森の話が届いた。
王太子リオネルは二十二歳だった。濃い栗色の髪を短く整え、父王譲りらしい灰色の目をしている。華奢ではないが細身で、宮廷人らしい華やかさより、夜更けまで書類を読んでいる人間の白い顔色の方が目についた。彼は北から届いた報告を一枚ずつ確かめ、それらを大きな地図へ黒い印で示した。印は点々と南へ続いていた。数字や術式より、その並びの方がエレナには恐ろしかった。地図の上では指の幅しかない距離に、実際には村があり、家があり、人が暮らしている。
「前回も同じでした」
リオネルは三十五年前の記録を隣へ置いた。
「ほとんど同じ道を通ってきています」
「黒竜は、その道を選んでいるんですか」
「分かりません」
王太子は率直に答えた。
その日の夕方、エレナはセヴランにも同じことを尋ねた。
「なぜ聖女が必要なんですか」
彼は書類から顔を上げた。
「聖女の力だけが、黒竜の魔力と干渉できるからです」
「治すから?」
「そう教えられています」
妙な言い方だった。
「教えられている?」
「長い歴史の中で、意味を失った言葉は多いものです」
それ以上は話さなかった。
夜、アルベルトと大聖堂の回廊を歩いた。雨が降り始め、高窓に細い筋を作っていた。
「もし、聖女じゃなかったら」
エレナは言った。
「私は何をしていたと思います?」
「今も村にいたのでは」
「たぶん」
「それが嫌ですか」
「今は、分からないです」
選ばれたことを嬉しいと思った日も嘘ではない。人を助けられた時の喜びも嘘ではない。
けれど、誰かの役に立つことと、自分の人生が自分のものではなくなることは、同じではないはずだった。
その区別を、十七歳になったばかりのエレナは、まだうまく言葉にできなかった。
その数日後、リオネルに呼ばれて大聖堂地下の礼拝堂へ降りた。窓のない部屋には燭台が三つしかなく、石壁は昼間でも冷たく湿っていた。そこで王太子は、歴代の聖女が若くして死んだ本当の理由を告げた。黒竜を封じるには、祭壇と地脈をつなぎ、最後に聖女自身の命を触媒として差し出さなければならないのだという。
エレナはその夜、一睡もできなかった。母の家へ帰る道を思い浮かべ、アルベルトに一緒に逃げてほしいと言う自分まで想像した。それでも朝が近づくにつれて、北から届いた地図の黒い印が頭から離れなくなった。自分が逃げれば、その印の下にいる誰かが代わりに死ぬ。それを知ってしまったあとでは、何も知らなかった頃のようには逃げられなかった。
ところが、覚悟を決めたエレナを待っていたのは神殿の封印祭壇ではなかった。翌日、王太子暗殺未遂の罪を告げられ、部屋を出る間もなく拘束された。リオネルは青ざめた顔で、同じ言葉を繰り返すばかりだった。
「陛下のご決定です」
なぜ国のために死ぬ聖女を、罪人として人前で焼かなければならないのか。その問いには、最後まで誰も答えなかった。
三日後、夜半まで降った雨が上がった。エレナは広場の柱に縛られ、群衆の向こうで兵士を振りほどこうとする銀灰色の髪を見つけた。足元には白い螺旋が浮かび、名前を呼ぼうと口を開いた。
松明が薪へ触れた。油を含んだ藁が乾いた音を立てて燃え上がり、橙色の火が処刑台の縁から一気に広がった。熱気に息を詰めた次の瞬間、足元の螺旋が炎よりも白く輝いた。煙が風向きを変えて顔を覆い、咳き込んだ拍子に視界が滲む。火はまだ遠いと思ったのに、次には衣の裾近くまで熱が迫っていた。群衆のざわめきも、アルベルトの声も、次第に遠くなる。最後まで見えていたのは、炎の下を静かに巡る白い螺旋だった。
*
雨の音がしていた。
エレナは目を開いた。白く塗った天井。梁の端に残った小さな雨染み。洗っても色の抜けなかった薄緑の寝台幕。見覚えがあるどころではない。生まれ育った家の、自分の部屋だった。
身体を起こし、腕や胸元へ慌てて手を当てた。熱くない。火傷もない。喉にも煙の痛みは残っていなかった。窓の外には雨に濡れた畑が見えた。
廊下から足音が近づく。
「エレナ?」
その声を聞いた瞬間、身体が動かなくなった。
扉が開き、一年前と同じ母が顔を出した。後ろでひとつに束ねた栗色の髪は朝の仕事で少しほどけ、頬には粉がついていた。王都へ出てから会うたびに少しずつ小さく見えるようになった母が、ここではまだ、エレナの記憶より若かった。
「どうしたの、そんな顔して」
エレナは何も言えず、寝台を降りて母へ抱きついた。母は驚いて笑った。暖かかった。生きている。母も、自分も。
しばらくして、エレナは母の肩越しに机の上を見た。白い封筒が一通、置かれていた。まだ封は切られていない。
知っている。中に何が書かれているのか。
三日後、自分は王都へ向かう。聖女として。アルベルトに会う。そして一年後に死ぬ。
エレナは母から身体を離し、右の掌を見た。聖女の印である淡い星の中心に、昨日まではなかった白い線が浮かんでいる。
小さな螺旋だった。




