第一話 処刑の日
エレナが初めて死んだのは、十七歳の春だった。
夜半まで降っていた雨は、明け方には上がっていた。広場を敷き詰めた灰色の石にはまだ水が残り、ところどころに薄い空を映している。大聖堂の北壁は雨を含んで黒ずみ、軒から落ちる雫が、一定の間隔で石段を叩いていた。
空だけが、腹が立つほど青かった。
王都でも公開処刑は珍しい。それも、処刑されるのが聖女となればなおさらだった。日の出前から場所を取った者もいるらしく、広場の端には露店まで出ていた。炭の煙、焼いた肉、蜜で煮た胡桃の匂いが、濡れた石の匂いに混じっている。
甘い匂いを嗅いで、エレナは昨夜の夕食を思い出した。豆のスープだった。食欲がなくて半分ほど残した。今になって、もう少し食べておけばよかったと思う。
「聖女エレナ・フィオール」
役人の声が響くと、広場のざわめきがわずかに静まった。背中で縛られた手首に縄が食い込んでいる。長いあいだ同じ姿勢で立たされていたせいか、指先はもう冷たかった。
処刑台の正面には大聖堂がある。一年前、エレナは白い衣を着せられ、鐘の音と花びらの中をあの正門から入った。見知らぬ人々が手を伸ばし、聖女様、と呼んだ。その同じ広場で、今日は火に焼かれて死ぬ。
「汝は神より授かりし力を私欲のために用い、王太子殿下の御命を害そうとし、聖女の誓いを穢した。その罪、王国法ならびに神殿法に照らし、火刑に処す――」
王太子を殺そうとしたことなどない。毒など持ったこともない。それでもエレナは何も言わなかった。もう罪が本当かどうかは、大した問題ではなかった。
自分は今日、死ぬ。
三日前、大聖堂地下の礼拝堂で、王太子リオネルから真実を聞かされた。北の山脈で起きている異変と、やがて現れる黒竜。そして、歴代の聖女がその封印のために命を失ってきたこと。自分も同じ役目を求められていること。
逃げようと思った。母のところへ帰る道も考えた。王都の南門から馬車に乗れば三日で故郷へ着く。家の裏には小さな畑があり、春には母が豆を植える。雨が続けば屋根の北側から水が漏れ、桶を置かなければならない。窓辺には、去年自分が置いてきた鉢植えもあるはずだった。
帰りたかった。けれど、自分が逃げたあとに北の町から順に消えていくと聞かされてしまった。顔を知らないからといって、その人たちがいないことにはならない。
だから、ここにいる。
ただ、一つだけ分からなかった。なぜ、自分だけが神殿の祭壇ではなく、この公開刑場で死ぬのか。なぜ王太子暗殺未遂などという、ありもしない罪まで必要だったのか。
「最後に、申し述べることはあるか」
エレナは広場を見渡した。母はいない。処刑の知らせを故郷へ送らないように頼んだ。代わりに知らない人間が大勢いる。父親の肩に乗った子供がこちらを見ている。買い物籠を腕にかけた女が隣の男と何か話している。露店では、さっきと同じように胡桃菓子が売られていた。
今日、自分が死んでも、この人たちは明日を生きる。朝になればパンが焼かれ、洗濯物が窓から吊るされ、子供が泣き、誰かが誰かと喧嘩をする。そのために死ぬのだと言われれば、ほんの少しだけ納得できるような気もした。
「ありません」
思ったより、声は震えなかった。
役人が羊皮紙を巻いて一歩下がると、左右に控えていた兵士の一人が処刑台の中央を示した。そこには、人の背丈より高い黒ずんだ柱が一本立っていた。根元を囲むように薪と藁束が積まれているが、柱のすぐ周囲だけは古い石が露出している。何度も火を受けてきたのか、石の表面には煤が薄く染みついていた。
「進め」
エレナは柱の前まで歩いた。兵士が背後へ回り、後ろ手を縛っていた縄を解くと、今度は両手首を柱の左右に取り付けられた鉄環へ固定した。背中に冷たい硬さが触れる。足元には雨を吸った石が見え、その少し向こうから乾いた薪が取り囲んでいる。執行人は処刑台の端で長い松明を受け取った。先端の布には油が染み込み、風に煽られるたび赤い火の粉が散った。
あれが薪に触れれば、自分は焼かれて死ぬのだ、とエレナは思った。不思議なほど現実味がなかった。
その時、広場の後ろで小さな騒ぎが起きた。兵士の怒鳴り声に続いて人垣がわずかに割れ、その向こうに銀灰色の髪が見えた。アルベルトだった。兵士に腕をつかまれながら、こちらへ来ようとしている。何かを叫び、押さえられ、それでも腰の剣に手を掛けた。遠すぎて声は聞こえない。それでも、自分の名前を呼ばれたような気がした。
エレナは笑おうとした。大丈夫だと伝えたかった。けれど、それは嘘だった。死にたくなかった。もう一度、彼が厨房から持ってきた焼き菓子を食べたかった。雷が鳴ったら、窓との間に立つ彼の背中を見たかった。母の家へ帰りたかった。春の道を歩きたかった。
執行人が松明を持って近づいてくる気配がした。その時、足元から低い音が響いた。遠い雷に似ていたが、空には雲一つない。もう一度、今度ははっきりと地面の下から聞こえた。古い石のさらに下を、何か大きなものがゆっくりと通り抜けていくような音だった。
エレナは視線を落とした。柱の根元、雨に濡れた石の継ぎ目から、細い白い光が滲んでいる。一本の線が靴先をかすめて緩やかな弧を描き、薪の隙間を縫うようにその内側をさらに巡って、少しずつ中心へ近づいてくる。幾重にも重なった光は、エレナの立つ場所を中心に螺旋を描いていた。
こんなものが、この処刑台の下にある。役人も兵士も反応しない。見えていないのか、それとも知っていて黙っているのか。これが、自分だけが神殿の祭壇ではなく、この場所で殺される理由なのだろうか。
顔を上げると、アルベルトがまた兵士を振りほどいていた。今度は腰の剣へ手を掛け、周囲の兵士が一斉に彼を押さえる。その顔を見て、エレナはどうしても名前を呼びたくなった。それは、これが自分の最後だと思ったからだ。
「アル――」




