第五話 用心棒は、甲斐犬黒丸と木曽馬のアオ
「いけねえっ、止せっ」
「うわっ、なんて事を」
と辰吉と藤次郎の顔色が変わった。二人は瞬間にお市の事では無く、男の事を心配したのだ。
しかし、もう遅い。
アオは老馬とは思えない動きで、短刀を握った男の腕に噛みつくと、そのまま力任せに放り投げた。
放物線を描きながら飛んでいく男を追って、鬼ですら噛み殺しそうな表情をした黒丸が、飛燕の様に地を縫う影の矢となって追いかける。
黒丸の視線の先は男の喉笛にある。確実に仕留める動きであった。
~本文より
お市はそれを見るたび、この辰吉と言う重厚で思慮深い男の半生を、想像せずにはいられないのだった。
祖母の若い時からの、知り合いという処までは聞いたことがあるのだが、一切を語らず、また聴ける雰囲気でもなく、今に至るのだ。
「馬鹿にしやがってぇっ」
男は辰吉の言葉を聴いて余計に逆上したが、辰吉相手は最初から敵わないと踏んでおり、相手をすると見せかけて、お市の方へ実にすばしっこく駆け寄った。
女の餓鬼は隙だらけだ。餓鬼の喉元に白刃でも当ててやりゃあ、直ぐに泣き入れるに決まってる。この手の奴等は皆そうだ。
肚の中で毟り取った後の懐具合を算用しつつ、男は懐から短刀を抜いた。
「いけねえっ、止せっ」
「うわっ、なんて事を」
と辰吉と藤次郎の顔色が変わった。二人は瞬間にお市の事では無く、男の事を心配したのだ。
しかし、もう遅い。
アオは老馬とは思えない動きで、短刀を握った男の腕に噛みつくと、そのまま力任せに放り投げた。
放物線を描きながら飛んでいく男を追って、鬼ですら噛み殺しそうな表情をした黒丸が、飛燕の様に地を縫う影の矢となって追いかける。
黒丸の視線の先は男の喉笛にある。確実に仕留める動きであった。
「駄目よっ。黒丸っ」
厳しいお市の声がした。
宙を舞う男の喉笛を、嚙み裂く寸前だった黒丸は、がちんと牙を鳴らして納めると、身を捻って着地した。
男は大きな音を立てて、近くの立木に身体を打ち付けた。
倒れた男に駆け寄って、更に踏みつけようとするアオを、お市が必死に抑える。
「蹄をかけては駄目ッ。アオっ、抑えて。黒丸っ、牙を収めてっ」
「ぐるるるる」
お市の言いつけを守って、黒丸は動きを止めたが、怒りはそのまま、低く唸っている。
おかしい動きを見せたら噛み殺してやるとばかりの勢いであった。
「黒は任せてっ」
藤次郎はすぐさま、黒丸の首を抑えにかかった。
「辰じい、その男の人をお願いっ」
「おうっ。任された」
辰吉は男の許へ駆け寄ると、あれこれ様子を見ていたが、お市と藤次郎へ振り返ると言った。
「大丈夫。気を失っているだけで、命にまでは及んでない。おいっ、そっちの兄さん方。腕が折れているようだから、すぐさま医者に連れて行け。あて木はしといてやる」
辰吉は手際よく、手拭と木の枝で男の腕を縛った。そうしながら、近付いてきた別の馬借達に、
「この一件、騒ぎ立てる様であれば、代官所に関所のお役人の方々、あんたらの安兵衛親分にも色々と筋を通さなきゃなんねえが、どうだ」
と尋ねた。男たちは眼を見合わせ乍ら、倒れた男を拾いあげ、活を入れ叩き起こして、
「此奴が勝手に転んじまって、おつかわし屋の皆様にはご迷惑をお掛けして、申し訳も無ぇこって。また折れた腕の手当までご親切頂戴しやした。有難いこってす。あっしらはこれで失礼しますが、皆様の恙ない旅の無事を祈っておりやす」
と深々と頭を下げると、腕を折った男を抱え乍ら歩いていく。
藤次郎は去っていく男達を見ながら辰吉へ言った。
「辰吉さん。あれで大丈夫でしょうか」
「藤坊。いい処をつくな。ありゃあこのままじゃあ、済まねえ、な」
お市は、えっそうなのという顔をして、辰吉に訊いた。
「だって、あの人たち恙ない旅の無事をお祈りするって言ってたのに。ねえ、辰じい、何が駄目なの」
「お嬢、問題はあの二人では無く、腕が折れた奴だ。頭も下げねえ。痛ぇとも泣いたり喚いたり叫んだりもしねえ。一言も口を利かずに行っちまった。だから拙い。要は、何にもないってのが味噌だ。腕が折れる程、アオに放り投げられ、彼方此方痛くてしょうがないのに、泣き言も恨みつらみも、何にも無い。痛いのに喚き声一つ無しの無い無い尽くし。これは肚に一物据えた野郎のする事。この恨み晴らさでおくべきかってところだな」
と笑顔で両手を幽霊の様にぶら下げて言った。
お市は「成程」と感心し、藤次郎は凄い事をさらっと云うお人だと、尊敬の念をもって辰吉を見上げた
次回宿場町へと足を延ばす、お市と藤次郎、辰吉たち。安兵衛親分に会いに向かいます。
ここまで読んでいただきありがとうござます。




