自画像
ムソルグスキー『展覧会の絵』「鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤガー」より
多くの画家が自画像を残している。
モデル代を節約するために描かれたこともあれば、肖像画を描くための構図の研究用や練習用に描かれた作品もある。写真代わりに使われたこともあっただろう。
特徴的なのはフィンセント・ファン・ゴッホの『包帯をしてパイプをくわえた自画像』ではないだろうか。モデル代の節約という職人的側面と画家自身の精神や心理まで描こうという作家的側面の至高の結実だからだ。
いずれにせよ、自画像という作品は、画家が画家自身をどのようにとらえ、どのように描こうとしたのかを問われる題材であることは間違いない。
上東杭雄のこの『自画像』という作品もまたその問いに対する一つの回答だと思う。
人生の最期にあたって上東杭雄は一体何を残そうとしたのだろうか。
ドアホンが鳴った。誰かが来たようだ。
もう言い訳はできなくなった。
上東杭雄は食卓の椅子に腰をおろしたままうつむいていた。
食卓の上には牛乳をかけられたシリアルがほぼ手つかずのままぬるくなり始めている。
つい先頃、上東は神尾龍磨の怪奇・伝奇小説全集の仕事を終えたところだった。
依頼された納期より一ヶ月以上前倒しで五十六枚のカラーイラストを描き上げ、自宅まで訪ねてきた出版社の人間に引き渡したのだ。
編集部側は恐縮しながらも感謝の言葉を口にした。あまりにも早すぎる仕事ぶりにイラストの出来を懸念したようだったが、渡した作品を見て絶賛してみせたほどだった。
上東自身からしても確かに出来は悪くなかったと思う。限られた納期の中で相当の無理をしたが、その苦労に見合うだけの勢いがイラストに宿っているように感じられるからだ。
言い訳ができないのはこれからのことだ。これからどうするのか。
この全集のイラストの仕事で上東は燃え尽きてしまったような疲労感に蝕まれていた。
いや、この仕事のせいにしてはいけない。
まず、外出が怖くなった。夜の外出は論外だが、昼の明るい時間であってもどうしようもない不安に苛まれる。
次に、人に会うのが怖くなった。目の前にいる人間を信用していいのか、あるいは本当に実在する人間なのか、際限のない猜疑心に炙られるような心地がする。
最後に電話や電子メールが怖くなった。不吉な連絡や凶報が飛び込んでくるのでは、という恐怖がこみあげてくるからだ。
不安と恐怖から目をそらすためにひたすら手を動かし続けた結果が納期を大幅に前倒しにできたイラストの仕事だった。それも終わってしまった今、何も仕事は残っていない。
今や、上東はほぼ自宅に引きこもっている状態だった。
このような状態で新しい仕事を受注しにいけるはずがない。何より、安眠することもできず、気分転換もできず、食事も楽しめなくなっている精神状態が、上東を病人のような容貌にしていた。
顔見知りの編集部や出版社などに顔を出せばすぐさま病院へ運び込まれてもおかしくない。しかし、入院などしている心の余裕はなかった。
描かねば。
指一本動かしたくないという倦怠と疲労のなかで、足踏みをしたくなるほどの焦燥感だけが上東を動かしていた。
いずれ病院に行かなくてはならないだろう。
しかし、それは今ではない。
全集の仕事でまとまった収入が入る見通しになっている。であれば、他のイラスト仕事を急いで探さなくとも何とかなるだろう。
だからこそ、今は絵を描かなくてはならない。今のこの状態でこそ描ける絵があるはずだ。ならば描かなくてはならない。
上東は恐怖に震えながら既に『駅前の夜景』『夜行列車』の二つの作品を仕上げていた。あと、描くとすれば今のこの自分の姿だろう。思い出してみれば美大での課題として以外に自画像は描いたことがなかった。
今のこのガタガタの自分の姿をこそ客観的に見つめ直さなくてはならない。
見ることができるものなら描ける。
描きさえすれば、きっと、この状況を乗り越えられるに違いない。
言い訳ができなくなっても、結局、言い訳をしてしまうのが人間というものなのかもしれなかった。
上東は味も感じられないシリアルを呑み込んでしまうべくスプーンを取り上げた。
ドアホンが鳴った。誰かが来たようだ。
日が高い。寝起きの目をこすりながら上東は玄関の方を見た。
一体誰だろう、できるなら会いたくはない、セールスなら居留守を使おう、と思いながら、上東は足音を忍ばせて玄関へと歩いた。
この家は古すぎてインターホンやモニターなどはついていない。つけようと思えばつけられたのだろうが、上東自身に関心がなかったせいで、設備はこの家が建てられた昔のままだった。
ドアスコープから外をうかがうと、見覚えのある二人組の刑事が立っていた。自分に、今更、何の用があるのだろう、とはいえ居留守を使うのもためらわれる相手だった。
「すみません、上東さん、お疲れのところを」
「城金の関係者で不審死が続いているものですから、ちょっとご確認をと思いまして」
「ですが、刑事さん、あの人は逮捕されたんですよね、だとしたら新しい不審死は無関係なんじゃありませんか。まさか、獄中にいながら人を殺せるはずもないですよね」
早く帰ってほしい、という気持ちが言葉の節々に出てしまうのを抑えることができなかった。
あの私立探偵の話にしても気持ちの良い話題ではない。
「そうなんですがね。城金の逮捕は匿名の情報提供が出発点だったんですよ。この情報提供者が城金ともつきあいのあった、まあ一種の職業コンピュータ犯罪者でしてね、色々な裏社会関係者ともつながっていた男なんですが、この男が先月轢死体で発見されました。××線の線路上です。ところが、この被害者をひいた列車が見つからんのですよ。正直、困り果てていましてね」
そんな話を何故自分にする、と困惑しながら上東は刑事たちの話を聞いていた。
「ひいた列車が見つからない、ってそんなことがありえるんですか。××線ですよね、走っている車両なんて限られているでしょう」
「そうなんですよ。ですから、我々も頭が痛いんです。まず、この被害者の死亡推定時刻が深夜過ぎて本来なら車両が運行されていない時間帯でしてね。無論、鉄道会社にも運行記録はありません。いくら何でもね、誰かが勝手に電車を走らせる、なんてことはできるはずもありませんし、念のために調べて見たんですがどの車両にもそんな痕跡もなかったんです」
「まあ、どうやったかは別として、城金の情報を警察に売ったことで、どこかの誰かからの制裁を受けた、という可能性を視野に入れて捜査を進めています。上東さんも、一応、城金の関係者ですからね、万が一ということもあるかもしれません、十分に気をつけてください」
はあ、と生返事をした上東が次の質問をしたのはただの成り行きだった。
「その、情報提供者の方が亡くなったのはいつのことなんですか」
「死亡推定時刻は六月五日から六日にかけての真夜中のことだそうです」
それは小説家の神尾龍磨の死亡日時とほぼ同じだった。
ただの偶然かもしれないが。
この刑事たちの訪問を皮切りに、その日は、次々と訪問者があって上東をひどく疲れさせた。食欲はないとはいっても、食卓につく余裕もないほどだった。
電気会社やガス会社の安全点検、ネットスーパーで買った食材などの配達、上東の作品のファンという大学生、新聞の集金と勧誘、神尾龍磨全集の出版社の人間、通信販売で申し込んだ画材の配達、宗教の勧誘、近所の交番の巡回の警察官、リフォームを奨める営業など、どういうわけかこの日に限ってひっきりなしにドアホンが鳴った。
夕方、日が落ちてくる頃になって、ようやく、上東は腰をおろし一息をつくことができたほどだ。これでは、到底、人が怖いなどと言っていられるような状況ではないな、と苦笑がもれた。
ひどく疲れはしたが、少しだけ上東の気分が良いのは出版社の人間が持ってきた話のおかげだった。
神尾龍磨の全集を出す出版社は、他に、美術全集の出版の企画も進めているらしいのだが、その監修担当の一人が上東のイラストに目をとめて
「うん、これは素晴らしい。ただの風景画のように見えて作者の魂まで描き込まれているようだ。奇をてらうことなく、こういう詩情というか説得力のある絵を描ける人間が日本にいるとは」
と言った、というのだ。
その監修担当は上東の美大時代の恩師の一人だった。
「見たものを描くだけなら写真機の方が簡単に良い仕事をする。何をどのように描くのか、何故描くのか、そういう思想や哲学がないならば写真機にその場をゆずれ」と上東の作品をさんざん酷評してきた。その人物からとうとう「素晴らしい」の一言を引きずり出したのだ。
ざまを見ろ。
自分は間違っていない、と上東は右手を握りしめた。
家の外は怖い、人間が怖い、メールもネットも電話も怖い。
それでも、その状況で描いたイラストは、かつて達し得なかった境地に辿り着いている。
このままでは、いずれ、生活もままならなくなるだろう。そうなる前には病院に行かなくてはならない、と思う。
だが、まだだ、まだだめだ。
人間として不幸であったとしても、画家としての幸福を上東は望んでいた。
上東杭雄のその望みは一部かなえられることになる。
ドアホンが鳴った。誰かが来たようだ。
上東は息を呑んで描きかけの絵筆を止めた。時刻は夜の九時を少し回ったところだった。人が訪ねてくるには常識と非常識のぎりぎり境界線上といえるような時間だ。
一体、誰だろう。
また、ドアホンが鳴った。
恐る恐る上東は玄関まで行くとドアスコープから来訪者を覗いた。
門のところにまだ大学生くらいの青年が一人うつむき加減で立っていた。どこかで見たような顔だ、と上東は考え、すぐにあの私立探偵の調査資料に掲載されていたことを思い出した。ハンドル名トーネ、戸根真理夫という大学生だ。
「こんな時間にすみません。アプトンさん、ですよね、上東先生」
「その、どこからそれを。君は」
「管理人のヤクモさん、神尾龍磨先生から連絡があってそれで教えてもらいました。ああ、ぼくはトーネです。本名は戸根といいます」
そのまんまですね、あまりネーミングセンスとかなくて、と青年は薄く笑った。
上東は彼を応接間へと通した。
「随分と久しぶりだね。元気だったかい」
と言いながら、上東は妙な気分になった。
久しぶりも何も顔を合わせるのはこれが初めてのはずだ。
「そうですね、本当にお久しぶりです。一時期は毎晩のようにあの掲示板で話をしてましたのにね。あれから色々とあって、元気とも言えない時期もありましたが、今は何とか」
「そう。今は元気なようなら何よりだ」
青年の笑顔につられるように上東は相づちを打った。
「アプトンさん、上東先生もご活躍のようで何よりです。驚きましたよ、まさかアプトンさんが上東杭雄だなんて。ぼくは、あのK先生の小説以来、ファンなんですよ。あの作品がヒットしたのもあのイラストの効果じゃないですか」
「ありがとう。でも、あれはやっぱり小説の力だよ。あの小説がすごかったからイラストにも力が入ったというところはあるから。それにしても、面と向かって褒められるのは、ちょっと恥ずかしい感じもするなあ」
「神尾先生からの連絡にも、上東先生はどんどん成長しているところだ、羨ましいって、書いてありました。ファンとしては楽しみです」
「いや、そう言われると。さすがにちょっと褒めすぎじゃないかな」
上東はキャンバスに向かって一心不乱に絵筆を動かし続けていた。
イーゼルに置かれた鏡にちらりと視線を向ける。鏡の中では、脂の浮いた不健康な顔色の男が目を血走らせてこちらを見ていた。我ながらひどい顔だと思う。半死人、良くて病人の顔だ。その病んだ男の顔がキャンバスに写し取られていく。
制作は順調だった。来客が相次いで集中を乱されることが多かったとはいえ、描くべきものが明確に定まっていた分、作業に迷いがない。
ともかく、この自画像を描き上げることだ、と上東は考えていた。
これを仕上げたら病院に行こう。あるいは、気分を変えるためにしばらく絵から離れてみても良いのかもしれない。あまり好きでもなかったが何か立体作品に取り組んでみるとか。いっそ、仕事も休んで長い旅行に出てみるとか。まあ、医者の診断次第だろうが。
『変だとは思わないんですか。ぼくらを除いて、あのサイトに関わった人間は、多分、全員死んでしまっているんですよ』
どこからか声が聞こえたような気がして、上東の絵筆が止まった。
『ぼくは、もう、アウトドアサークルをやめました。というか、解散させました。道具も行ったところの記録や写真なんかも全部処分しました。とにかく完全に縁を切ることにしたんです。上東さん、あなたもそうすべきなんです。自分でわからないんですか、ひどい顔色ですよ』
その声は上東の頭の中から聞こえてくるようだった。誰の声だろう。病院や医者のことを思い浮かべたタイミングで聞こえ始めてきたような気がする。
『ぼくは、もう、夜はできるだけ出歩かないようにしています。就職活動にも差し支えは出ていますが、しばらくの我慢だと思っています。何というか、ほとぼりがさめるまでの』
ああ、と気がついた。これは昼間に訪ねてきた大学生の声だった。
『さわらぬカミにたたりなし、とでも言うのか、とにかく、願いや欲につられるように妙なことが起き続けるんです。神尾さんは「嘘偽りのない本物の怪奇現象が知りたい」と願ってあのサイトを立ち上げた、自分の怪奇小説や伝奇小説の嘘くささに気づいてしまったからだ、と言ってました。願いはかなったけれど、代償は高くついた、と最後のメールで神尾さんは後悔していました。多分、あのサイトには何かが取り憑いたんです。参加者の全員で本物の怪奇現象の情報を書き込んだんですから』
そう言えば、さっき訪ねてきた大学生をドアスコープから覗いただけで利根真理夫だと気づいたのは、同じ顔を昼間に見たからだったのだ。出版社から来た編集部の人間を見送るために玄関まで出たところに彼が訪ねてきた。そうでなければ、多分、居留守を使っただろう。
そこまで、ぼんやりと考えて、上東の体がこわばった。
では、夜の九時頃にやってきた青年を自分は何故仕事の手を止めてまで応接間に通してしまったのか。
昼間に戸根が訪ねてきたことを何故今の今まで思い出せなかったのか。
昼間に訪ねてきた戸根は「夜には出歩かない」と言っていた。ならば、さきほどの青年は本当に戸根だったのか。
ひゅっと上東ののどが鳴った。口の中が粘つくように乾いている。
駄目だ、考えてはいけない。
上東は絵を描き進めようと絵筆を動かし始めた。イーゼルに置かれた鏡に視線を向けて、背後のドアが少し隙間をあけて開いていることに気がつく。ドアの向こうは応接間だ。
そういえば、あの青年は帰っていったのだろうか。来たことは覚えているが、見送った記憶がない。
まさか、まだそこにいるのだろうか。
あれは誰だ、あまり内容のない褒め言葉を並べ立てていたのは。
『上東さん、このままなら、あなたも神尾さんと同じことになってしまいます。あのサイトに関わる一切合切全てを捨ててしまうべきなんです。そうでなければ、待っているのは破滅だけなんですよ』
昼間の戸根の言葉に自分は「それはできない」と応えたはずだ。「ようやく自分は自分の限界を超えつつあるのだから」と。
しかし、その結果がこれだ。
とうとう家の中にまで入り込んできた。よりにもよって自分で迎え入れてしまったのだ。
あの青年が戸根真理夫であるはずがない。だとすれば、応接間に座っているあれは何だ。
上東はもう鏡を見ることさえできなかった。
もはやキャンバスをにらみながら手を動かし続けることしか彼にできることは残されていなかった。
唐突に上東の背後から声が聞こえた。
「そうですよ、先生。素晴らしい作品じゃありませんか。我々も応援したかいがあったというものですよ。今更やめるなんて言わないでくださいね」
隣近所の寝ている人間を飛び起きさせるほどの叫び声を聞きつけてドアホンが鳴った。だが、もう家の中はしんと静まりかえっていた。
『イラストレーター・上東杭雄さんが死去 三十二歳
アニメ化もされた『火星GP』『大河の残照』などのイラストで知られる上東杭雄さんが七月九日未明、自宅兼アトリエで急性心不全のため亡くなった。三十二歳。
上東さんが仕事をした各出版社のサイトで訃報が伝えられている。いずれのサイトでも「上東杭雄先生の画業に最大の感謝と敬意とを表しますとともに心よりご冥福をお祈り申し上げます」「なお告別式はご親族にて執り行われました」と追悼の文字が並んだ。
上東さんの最後の仕事となった『神尾龍磨 怪奇・伝奇小説全集』のS社のサイトでは編集部の名義で「上東杭雄先生の訃報に接し編集部一同心よりの哀悼の意を表したいと思います。上東先生よりいただいたイラストはいずれも素晴らしい作品であり、このような優れた才能の持ち主がこの若さで世を去られたことに悲しみと世の理不尽とを感じざるを得ません。上東先生のイラスト作品のうち数点を弊社刊行予定の『最新現代美術集成』に収録をさせていただく予定としております」とのコメントが掲載されている。
なお、上東杭雄さんの未発表の作品を中心とした追悼展覧会が、上東さんの美大時代の友人たちによって計画されている』
自画像には「モデル代の節約」「写真代わり」「構図の研究用」など色々な目的がある。
だが、最大の目的、動機は「この自分を見よ」ということなのではないだろうか。
恐怖というものは捉え難いものだ。一つ間違えば生理的嫌悪感と区別がつかなくなりかねない。実際、異形の怪物や醜い怨霊などに対する反応は恐怖というより生理的嫌悪感による反応なのではないかとも思われる。
この『自画像』は未完成でありながら恐怖にとらわれた人の姿をまざまざと写し取っていることがわかる。これを生理的嫌悪感を感じている人物の姿と誤解する人間はいないだろう。
上東は恐怖にとらわれた自分の姿をもって恐怖とは何かを遺したのではないだろうか。その証拠に自画像内の上東の瞳には「何か」が描き込まれようとしていた痕跡が残されている。
上東杭雄は何を見たのだろうか。




