夜行列車
ムソルグスキー『展覧会の絵』「カタコンベ - ローマ時代の墓」より
一人旅というものははどこかうら淋しいものを感じさせる。
旅は非日常との出会いであると同時に日常との別離でもあるからだろう。
それに旅においての出会いは一期一会、もう二度と会うことのない人との出会いと別れということもあるかもしれない。
たった一人で。同行する人もなく。
夜の闇の中を走る電車内の風景が描かれた絵を見ている。
『夜行列車』という題名のその絵には、すこしうつむき加減の初老の男性がたった一人で座席に座っている姿が描かれている。窓の外は、題名のとおり夜の闇だが、星なのか街の灯りなのかぽつりぽつりと色が落とされているようだ。
この電車はどこに向かっているのだろう。何故か、この絵の中の人物が二度と帰らぬ旅の途中のように感じられてならない。
真夜中、スマートフォンの着信音が鳴った。
【怪談奇談収集所:連絡所】
20XX年6月6日1:48 ヤクモ:
今、夜汽車にゆられているところです。私以外に乗客がいないので少し寂しいですね。〔写真:誰も乗っていない電車内の写真〕
随分と長いこと乗っているのですが、今まで一度も停車していません。つい先刻、窓の外を見ていたら鈴中という駅を通過しました。あまり聞いたことのない駅名です。
どうやら、これからトンネルに入るようです。少しつながりにくくなるかもしれません。
上東は一心不乱に絵筆を動かしているところだった。
あの晩、どこをどのようにして帰ってきたのか、気がつくと自宅の食卓の椅子に腰掛けていて窓からは早朝の薄蒼い光が差し込んできていた。
あの経験が本当にあったことなのか、悪夢にうなされただけのことだったのか。いずれにせよ、もう二度と夜の散歩には出かける気にはなれない。
【怪談奇談収集所:連絡所】
20XX年6月6日1:55 ヤクモ:
随分と長いトンネルでした。照明一つない真っ暗なトンネルを今通り抜けたところです。
駅のプラットホームの灯りで窓の外が少し明るくなりました。鞍池という駅のようです。やはり、聞いたことのない駅名ですが、この電車はやはり停車する様子はありません。
この時間だから仕方のないことかもしれませんが、窓の外はほとんど真っ暗です。駅のまわりくらい少しはにぎやかでもいいと思うのですが。どうやらよほどの田舎を電車は走っているようです。
しかも、あの後、警察から電話があった。調査を依頼していた私立探偵が殺人容疑、それも連続殺人の容疑、で逮捕されたという連絡だった。話を伺いたいと二人組の刑事が訪ねてきて、その応対も上東をひどく消耗させた。
「とすると、上東さんは城金にインターネット掲示板の関係者について調査を依頼されていた、というわけですか。確かに城金の事務所に残されていた契約書の写しとも合致はするのですが、その、何故、そのような依頼をされたのか伺ってもよろしいですか」
「単なる興味ですよ。気になったから、専門家に調査を依頼した、それだけです。それより、そんなことが捜査に何か関係するんですか」
「まだ、オープンにはしていないことなんですけどね、幾つか不審な死亡事件がありまして。それが、どうも城金に関係しているんじゃないか、という疑いがあるものですから」
「待ってください。まさか、私の調査依頼に関係している事件がある、とでも」
「いやいや、今のところ、まだ、そんなこと確認はされてません」
刑事たちは乾いた笑い声を上げたが、目は全く笑っていなかった。
「いや、すみません、本当にお忙しいところ。お疲れのようですし、私どもはこれで失礼をさせていただきます」
「ご協力ありがとうございます。あの、本当にお疲れのようなので、少し休まれた方がいいですよ」
こういう話を聞いて安らかに眠れるほど上東の神経は太くはなかった。
【怪談奇談収集所:連絡所】
20XX年6月6日2:01 ヤクモ:
やっぱりまだ電車はとまりません。
窓の外を見ていると、つい先刻、能菅という駅を通過しました。プラットホーム以外はあいかわらず真っ暗です。
この電車の灯りでぼんやりと線路のそばは明るくなるのですが、あまり見慣れない雑草の生い茂った荒れた風景が見えるだけです。手入れをされていない田んぼか畑なのでしょうか。それにしても民家か道路くらい見えてもいいのではないかと思います。
それにしても、こんな田舎がまだ日本に残っていたんですね。トンネルの中でもないのにどんどんまわりの暗闇が深くなっていくような気がします。このあたりには外灯さえ立っていないのでしょうか。
五十六枚のカラーイラスト。
上東が、今、懸命に取り組んでいるのは神尾龍磨の全集用に依頼された仕事だった。
依頼主の出版社からは、納期は納期として、一日でも早い出来上がりを要望されていた。
それほど神尾龍磨の病状は深刻なものになってきているということなのだろう、と上東も考えざるをえなかった。それ以上のことは考えたくなかったので、上東はとにかく手を動かし続けていた。
出版社側の窓口は依頼の席に立ち会っていた比較的若い編集部員だった。
初老の編集部員は編集局の次長で、この人物が神尾龍磨の怪奇・伝奇小説全集の全体指揮を執っているのだという。
「もう一人の方は」という上東の疑問に、窓口の編集部員は「誰のことでしょう」と戸惑った声で応えた。上東は、「すみません、こちらの勘違いだったようです」と返さざるをえなかった。あの三人目の編集者は実在しなかったのだろうか。
【怪談奇談収集所:連絡所】
20XX年6月6日2:13 ヤクモ:
もう三十分以上、電車はとまることなく走り続けています。
いくら何でもおかしいと思って運転席の方へ行ってみましたが、ブラインドのようなものが下りていて運転席の中は見えませんでした。これから車掌席の方にも行ってみようと思います。
〔写真:ブラインドシャッターのおりた窓の写真〕
〔写真:誰も乗っていない電車内の写真〕
前の方の車両にも乗客はいませんでした。もしかして、この電車、私以外に誰も乗っていないのでしょうか。
今、都谷駅という駅を通過しました。あいかわらず窓の外は真っ暗です。夜中なのだから当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、自動車のヘッドライトや外灯ひとつ見えないのはおかしいような気もします。
自宅の外が怖くて仕方がない。
人と会って話をするのも怖い。
出会って話をした人が本当に存在しているのか。もしかしたら存在しない人と話をしたつもりになっているのではないか。自分の不用意な発言のために生命を落としてしまった人がいるのかもしれない。話をした相手が本当の本人かどうかもどうやったら確認できるのか。自分が歩いているところは本当に自分がそう思っている場所と同じなのか。
つまるところ、自分はとうの昔におかしくなってしまっているのではないのか。
一日でも早い納品を迫られている大仕事を口実に上東は他の仕事をシャットアウトしていた。確かにそうでもしないと間に合わない状況だったのだが、実際には上東の精神状態が理由だった。
外出は昼間に必要最小限。睡眠は既に安らかさを欠いている。
残りの時間、上東はひたすらに絵筆を動かし続けた。おかげで依頼されたカラーイラストの半分は仕上がった。上東自身にとっても驚異的な速度だった。
残りはもう半分。
【怪談奇談収集所:連絡所】
20XX年6月6日2:18 ヤクモ:
電車はまだとまりません。
写真を見ていただければわかるように、この電車はごく普通の通勤なんかに使われるような車両です。特急電車でも観光用の旅客列車でもありません。
車掌席の方まで来ました。
〔写真:ブラインドシャッターのおりた窓の写真〕
〔写真:誰も乗っていない電車内の写真〕
後部車両にも私以外の乗客はいませんでした。どうやらこの電車の乗客は本当に私一人きりだったようです。
車掌席の窓にもブラインドが下りていて中は見えません。窓をどんどんと叩いて車掌を呼び出そうとしてみたのですが何の反応もありませんでした。もしかして、車掌が乗っていないのでしょうか。
電車がまた一つ駅を通過しました。黒部津という駅だったようです。
気のせいでしょうか。がたんがたんと電車の走る音に混じって別の音が聞こえてきたような気がします。それに窓の外に紅い光や蒼い光が見えてきました。外灯でしょうか。
〔写真:電車の窓から外を撮った写真〕
考えてみればおかしな話です。この電車はこんな時間に何故走っているのでしょうか。
深夜にスマートフォンの着信音が立て続けに鳴った。
連続してSNSへの書き込みが行われているからで、上東は筆を止めてスマートフォンを握りしめていた。
あの私立探偵の調査報告を信じるならば、ハンドル名ヤクモ氏は小説家の神尾龍磨氏のはずで、その神尾龍磨氏は入院中ということだった。どうやら不治の病で死期が迫っており、わざわざ自分の全集用のイラストレーターとして上東を起用するよう推薦までした、はずだ。だが、そのヤクモ氏は、今、電車に乗っているらしい。
この『怪談奇談収集所』の掲示板で「ヤクモさんはログインできません」と知らされた時のことを思い出すと上東の背中を冷たい汗が流れ落ちてゆくような心地になる。
ヤクモ氏は神尾龍磨氏ではないのかもしれない。
神尾龍磨氏が自分を推薦したのはたまたま他の仕事で気に入ってくれたからかもしれない。
ヤクモ氏がログインできなくなったのもログインしなくなったのも旅行に出ることにしたからかもしれない。
ヤクモ氏のこのSNSも悪ふざけなのかもしれない。
きっとそうだ。
【怪談奇談収集所:連絡所】
20XX年6月6日2:31 ヤクモ:
自分がどこからこの電車に乗ったのか、この電車がどこ行きなのか、全然思い出せないことに気がつきました。
電車はまだ走り続けています。
電車の走行音に混じって何だかよく分からないお経のような呪文のような音が聞こえてきます。
〔音声データ:電車の走行音とよくわからないうなり声〕
窓の外ではあちらこちらで火が燃えています。火事でしょうか。沿線がこれほどの火災ということになれば電車も緊急停車しそうなものですが。火事のせいか車内にも嫌な臭いが入り込んできたようです。これは硫黄の臭いでしょうか。
〔写真:電車の窓から外を撮った写真〕
今、花荘という駅を通過しました。電車は速度を落とすことなく走り続けています。
アプトンさん、いや、上東杭尾さん、あなたが才能ある画家であることを私は知っています。無理を言って申し訳ありませんが、私の全集のイラストをまかせられるのはあなたしかいません。よろしくお願いいたします。
また、お目にかかりましょう。
遠くで踏切の鳴る音と電車の走る音が響いてきて、上東は凍り付いた。午前二時半過ぎのこんな時間に電車を走らせる路線が近所にあるはずがなかったからだ。
スマートフォンの着信音が鳴った。メールの着信だった。
『to:kuiouetoh
from:taroedi
title:ご連絡
上東先生 いつもお世話になっております
まことに恐れ入りますが、進捗はいかがでしょうか
本日 六月六日午前一時四十五分に神尾龍磨先生がお亡くなりになりました
このため全集刊行の予定を前倒しする予定となっております
改めてご相談をさせていただきたく何卒よろしくお願い申し上げます
××社書籍部 江路太郎』
絵画というものは図録や画集で見るのと肉筆原画を見るのとでは受ける印象が全く異なるものだ。上東杭雄の作品もその例外ではない。
それでもよく見ることでわかることもある。
電車の座席に腰を下ろしている男性は、よく見ると、入院患者が着ているような甚平のような服を着ている風に描かれている。荷物を抱えてはいないし、座席にも網棚にも何も置かれていない。どうやら、全くの手ぶらのようだ。
それに、電車の窓の外に描かれている夜の闇は黒の一色で塗られているわけではない。
目を凝らして注意深く見れば、悲痛な表情を浮かべこちらに向かって手を伸ばす無数の人影が隠されていた。
まるで、救いを求める地獄の亡者たちのように。




