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第5プロムナード

 五枚目六枚目の絵も見終わった。


 それにしたって人が少なすぎる。さっきの展示室など地味な感じの男性が二人いただけだ。あまりにも不自然すぎて、ドッキリか何かを仕掛けられているんじゃないか、という不安を感じる。だけど、ぼくを相手にそんなものを仕掛けても何の意味もないだろう。


 上東杭雄は評価されていた。


出版社へ打合せのために出かけていく途中の電車の中で高校生らしい学生二人が本を片手に彼の話をしているのを小耳にはさんだこともある。


「小説のイラストって、最近、漫画家とかそういう感じの人のが多いけどさ、この上東って人の絵は違うんだよな。重たいっていうか迫力があるっていうか」


「わかる。なんていうかさ、美術の教科書にのってるって感じの絵なんだよね。もう、もろに『絵』って感じ。これが『絵』だぞって」


「そうなんだよな。これぞ本物、これぞ本格派、っていう有無を言わさない説得力っていうか。そう言われたら、こっちは頭を下げるしかないよ。やっぱ、本物って格好良いからさ」


 このあたりまで聞いたところで降りる駅に電車が止まってしまったので、その後、どういう会話が交わされたのかは知らない。ただ、それくらい上東は認められていたしファンも多かったはずだ。


なのに、この展覧会の閑散とした様子は何だろう。




 上東杭雄の五枚目の絵『掲示板』。


 あの絵の危険さは知っている人間にしか分からないだろう。


 あの絵に描かれたPC内に表示されている『怪談奇談収集所』というサイトは「今は故人となっているとある著名作家が主催する、でたらめな創作話の混じらない本物の怪談奇談が集まる場所であり、そのサイトの利用者は一人残らず呪われて怪談話に出てくる犠牲者のようなことになるらしい」と都市伝説として囁かれるいわくあるものなのだ。


 噂をすれば影がさす、という。


 怪を語れば怪が現れる、という。


 江戸の昔にはよく百物語の会が開かれたとのことだが、百の怪談を語れば怪異が起こるとされていた。なので怪談を百話まで語りきらないなどの作法が生まれたのだが、それでも幾度も怪異の発生が確認されている。


 怪異は自分たちについて語られることにきわめて敏感なのだ。しかも伝染病がうつるように怪異もまたうつりひろがってゆく。


 誰かが幽霊を見た場所では他の人間も幽霊を見るようになり心霊スポットと呼ばれるようになる。


 超能力者が一人脚光を浴びると、同じように超能力に目覚めた子供たちが次々と現れる。


 悪魔憑きもそうだ。中世の女子修道院で一人の修道女が「悪魔に憑かれた」と申告し悪魔祓いが行われた。それでその修道女は回復したのだが、この悪魔憑きは他の修道女たちにも飛び火したのだという伝承が残されている。


 怪異は自らについて語られる場所に現れる。


 怪異について敏感な状態にあれば、現れた怪異に気づくことも多くなる。


 なので、知らぬが仏、というように知ることにはそれなりの危険がつきまとうのだ。


 哲学者のニーチェも箴言で『君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む』と言ったように、怪談を知るものは怪談からも知られるということなのだ。


 『怪談奇談収集所』の都市伝説は「知ることの怖さ」の話ということなのだろう。


 六枚目の絵『ある私立探偵の肖像』だが、これも危険な絵だ。


 こちらも知っている人間は多くないのかもしれないが、この絵に描かれている人物は連続大量殺人犯として起訴されている男なのだから。多分、上東はそんなつもりで描いたわけではないのだろう。だが、背後から正面の人物に覆い被さるように描かれた黒々とした影は、明らかに何かの暗示と言うより他はない。


 古来、影というのは、自分に属するものでありながら自分には制御できないもう一人の自分、とされることが多い。それに呑み込まれそうになっているということは、自分で自分をコントロールできなくなりつつある、もう一人の自分にのっとられそうになっている、ということだ。自分が自分ではなくなる、というのは怖いことだと思う。


 かの殺人犯も影に呑み込まれるようにして罪を犯したのだろうか。もしそうであれば、自分が犯した罪を自分の行ったこととして受け入れることができただろうか。


 自分の見たことが信じられなくなるような経験なら私もしたことがある。


 長い仕事明けのある日、友人と街に出た。


 随分と久しぶりのことだった。特に目的地があるわけでもなく散歩のようにぶらぶらとあちらこちらをのぞいてみようという街歩きだ。その友人と話をするのも久しぶりで結構会話がはずんだ。


 街はにぎやかでかなりの人数が行き交っていた。


 今日は平日だというのに人手が多いなと思って、「今日は人出が多いねえ、何かあるんだったっけ」と隣を歩く友人に言うと、友人は急に真顔になって「え、どこがだい」と私の方を覗き込んできた。


 その瞬間、それまでざわざわと音が聞こえていたはずの周囲が急にしんと静まりかえった。


 あれ、と友人から目を離してまわりを見回すと先ほどまでいた人たちが誰もいない。


「いや、ちょっと待って。何があったんだろう」


とあわてて言っても今度は何の返事もない。隣にいたはずの友人の姿もなく、私はたった一人で往来の真ん中にぽつんと立っているだけだった。


 今まであれほど震えたことはない。自分の見たもの聞いたもの経験したことの全てが、もし、こんな風に消え失せてしまうものだったとしたら。


 今でもあれが何だったのかはわからない。


 怖さに震えながら、その友人に電話をかけてみたところ、ついさっきまで私と話をしていたはずなのにいつの間に帰ったのか、何も言わずに帰るとはひどいではないか、と逆に質問される始末だった。


 自分が見たと思ったことが必ずしも現実のそれではないことがある。


 幽霊の正体見たり枯れ尾花、と言うが、逆に枯れ尾花と思ったものが幽霊だった、ということもあるのかもしれない。




 以前、上東杭雄と頻繁に顔をあわせていた頃、よく「宇摩屋先生、仕事しろよ、仕事」「もっと書けよ、書かなきゃ売れるも売れないもないだろう」と発破をかけられたものだった。


 書いたところで売れるわけでもない、評価されるでもない、そういうぼくの鬱屈を上東は多分理解していなかっただろう。


 あんまり「書け」「書け」と上東がいうものだから、ぼくもつい、


「そうだな、じゃあ、ぼくの次の作品には上東先生のイラストをお願いできませんか」


と口にしてしまった。ぼくの作品の力では本が売れなくとも上東の絵の力で何とかなるかもしれない、そういう浅ましい魂胆がなかったとは言えない。いや、あっただろう。


 上東は、一瞬、虚をつかれたような表情になり、それから真顔になってぼくに頭を下げた。


「申し訳ないが、先生、断らせてくれ。あんたの作品に俺の絵では釣り合いがとれないんだ」


「いや。いや、いいよ、そりゃあ、そうだよな」


 多分、ぼくの表情はこわばっていただろう。


 すぐにうつむいてしまったから、ぼくのその表情を上東には見られずにすんだかもしれない。上東は確かに率直な男だが、こうまではっきりと駄目出しをされるとは思わなかった。何より、ぼくの他力本願な目論見を見透かされたような気がして恥ずかしかった。


 それ以降、上東と会う機会は少なくなった。ぼくも彼と顔をあわせるのを避けるようになったし、上東も多分そうだったのだろう。


 上東が命を落とすまでの半年以上の間はとうとう全く会うことはなくなっていた。


 上東とぼくは本当に親しい間柄といえる関係だったのだろうか。こうして追悼展覧会に足を運んでいても何となく納得できない部分はまだ残っている。

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