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ある私立探偵の肖像

ムソルグスキー『展覧会の絵』「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」より

 この男は誰なのだろう。


 特に二枚目というわけでもない。量販店で買ったような紺の背広に濃赤のネクタイ、短く刈られた髪には少し白髪が交じり、銀縁の眼鏡の奥の瞳はこちらをじっと見据えている。口元にはうっすらと笑みを浮かべているこの中年男性には特筆するべきような特徴らしい特徴はなく、目を離すとすぐに忘れてしまいそうな人物ではある。ビジネス街の雑踏の中に混じってしまえば、多分、見つけ出すのは困難だろう。


 この六枚目の絵の題名は『ある私立探偵の肖像』。


 上東杭雄とこの私立探偵の男との間にはどんな関係があったのか。


 何故、上東杭雄はこの男性の肖像画を描いたのか。


 何より、何故、この肖像画は不穏な気配を漂わせているのだろうか。




 おれの前には一人の男が座っている。まだ若い。あまり背広の似合わない風貌をしている。平日の昼間におれのオフィスを訪ねて来られるぐらいなのだから時間に自由のきく職業なのだろう。男はイラストレーターの上東杭雄と名乗った。この上東が今回の依頼人だ。


 おれは私立探偵をしている。前は警察官だったが色々あって辞めた。現在の仕事の方がまあおれの性には合っていると思う。


 私立探偵というのはサーヴィス業だ。だから、顧客である依頼人を満足させることが何よりも優先されなくてはならない。


 当たり前だ。私立探偵というサーヴィスは必要不可欠なものではないし、対価も安いものではないのだから。個人事業主であるおれへの依頼は商売繁盛と言えるほど多いわけがなく、だからこそ顧客満足度が重要だ。金をつぎ込んでの広告宣伝よりも口コミの方が顧客獲得には効率的だということもある。信用なくして依頼はなく、信用は顧客の満足からしか得られない。


 現にこの上東も以前の顧客からの紹介だった。おれはのんびりと本を読むような趣味はないから知らなかったが、この依頼人はそこそこ有名なイラストレーターであるらしい。支払いに不安はない、ということだろう。良いことだ。


「ご依頼内容の確認をさせていただきます。まず、ネット掲示板【怪談奇談収集所】の参加者である『トーネ』『コレット』『ヤクモ』さんの安否確認ですね」


「そうです」


「ハンドル名しかわかりませんので時間はかかると思いますし、相手の方のプライバシーを侵害してしまうことにもなると思われますので、調査の方法についてはあまり公開できないやり方になりますが、その点はご了解いただけますか」


「かまいません」


 上東は自信あり気にうなずいているものの、顔色は悪いし机の上に置かれた右手と左手は神経質にねじりあわされている。表面上の自信とはうらはらに内実は神経質な小心者だ。


「次に、S県の疋馬島とK県の月夜見村、それぞれの調査ですね。『トーネ』さんと『コレット』さんがそちらに行かれた後、様子がおかしくなられたから、ですか。その一件の事件性の有無とその場所でかつて何かなかったかとのことですが、どの程度まで遡りましょうか。とりあえず五十年くらいを目処でかまいませんかね」


「個別の調査と言うことではそれでかまいません。ただ、五十年より昔のことでも特に有名な事件があったようなら、それは報告に入れてください」


「なるほど。承りました」


「疋馬島、月夜見村のいずれも行ったことがあります。場所については先ほど申し上げたとおりですので、参考にしてください」


「助かります。では調査全体の日程としては最長で四週間、一週間ごとに定期報告、無論、それより進捗が早いようであればそのように報告し調査を終了させていただきます。調査期間中の日当とそれとは別に必要経費を請求させていただきます。ただし、一部の経費については内容の詳細をご報告できないこともありますが、よろしいですか」


「はい。調査報告は文書でいただけますか」


「承りました。ただ、報告が出先からになることもあるかと思いますので、その場合はメールに添付という形式になりますがご了承ください」


 それにしても酔狂な依頼だ。いったい、ネット掲示板上だけの知人なんてものが上東自身に何の関係があるというのだろう。そんな連中のことなんて放っておけばよいものを。まあ、これなら気楽な調査で稼がせてもらえるということだ。


 依頼人を見送って、おれは基本方針を考えた。上東は既に調査場所を訪れたことがあると言っていた。であれば簡単にはそれらの場所について調べていたとしてもおかしくはない。面倒だが、現地である程度までは深掘りしての調査が必要だろう。


 いずれにしても、三人の人間の身元を確認することが優先だ。


 蛇の道は蛇。世の中、どんなことにも専門家という人材は存在する。依頼人にはハンドル名しかわからないので身元確認に時間がかかると言ったが、専門家にかかればそれほど手間なく調査が終わる話だ。餅は餅屋と言うとおり、まず専門家に頼ることにしよう。




──あんなちょろそうな奴をだまして少しは罪悪感とか感じないか。




『to:noname

 from:goldburg

 title:調査依頼

 先生 いつもお世話になっております

 ネット掲示板【怪談奇談研究所】の雑談ログ(https:www.xyzzyx/abcddcba/talk)に参加しているハンドル名『トーネ』『コレット』『ヤクモ』の身元を特定していただけないでしょうか 『アプトン』は依頼人のハンドル名なので調査不要です

 特定可能であれば折り返し返信をお願いいたします

 謝礼についてはいつもの口座でよろしいでしょうか

                                城金典史』



『to:goldburg

 from:noname

 title:re:調査依頼

 トーネ:戸根真理夫  C県D市夢生野台一丁目二番三号コーポ野霧一○四

 コレット:知母上若菜 S県R市土路尾町四丁目五番六号カーサ布留戸四○七

 ヤクモ:原苫克利 S県O市羽軽間谷七丁目八番九号

 プロバイダ契約の名義と住所は以上

 調査完了 所定の口座に所定の金額を振り込むこと            』




──で、こいつらをどうする気なんだ、お前は。




 おれはメールを受信すると即座に礼金を振り込んだ。電子情報のプロフェッショナルは怖い。さすがに依頼のメールを送信してたった一晩で結果が返ってくるとは思わなかった。とはいえ、調査が早く進んで悪いことはない。


 そこから戸根真理夫、知母上若菜、原苫克利の安否確認には五日間ほどが必要だった。


 誰だって探偵に身辺調査をされて愉快な思いはしないだろう。痛い腹なら当然、痛くもない腹だって探られれば不愉快に決まっている。正面から話を聞きに行くことはできない。


 利根真理夫が大学の三年生で就職活動の最中であることはアパートの郵便受けの中身から分かった。だから企業から大学へ派遣された調査員の演技でおれは戸根の現状を聞き込んだ。利根真理夫は探検部という名前のアウトドアサークルに所属し中心メンバーの一人だったが、活動中の事故で一人が意識不明の重体に陥ったという不始末でサークルは解散、彼も人が変わったように落ち込んでいるのだという。そこに知母上若菜の事案が追い打ちをかけたようだ。大学には来てはいるものの誰とも話をしようともしないらしい。


 知母上若菜も戸根と同じ大学の二年生だ。【怪談奇談研究所】の雑談ログからも戸根と知母上の二人が知り合いであることは推測がついていたが、同じアウトドアサークルのメンバー同士だったらしい。知母上は旅行先で交通事故を起こしたようだ。乗っていた自動車が崖下で炎上していたが、彼女の遺体はまだ見つかっていないという噂だった。


 原苫克利は小説家だった。筆名は神尾龍磨。おれでも名前を聞いたことのある著名作家だ。ホラーやミステリで映画やTVドラマにもなっている。近所で聞き込みをしていて驚いた。依頼人はイラストレーターだが、自分が出入りしていたサイトの主催者が著名作家であることを知らなかったのだろうか。ここ数年の間、神尾龍磨は新しい本を出していないから気づいていなかったとしてもおかしくはないかもしれない。原苫克利は体調を崩している。彼の妻を尾行して分かったことだが、彼はガンで入院していた。あちこちに転移しているらしく長くはなさそうだ。病院に出入りしている編集者たちの噂話から判断するとそういうことになる。


 さて、どうしたものやら。依頼人の血の気の薄そうな顔色と落ち着かない様子で指や手をこねくりまわしていた感じからすると、あまり不穏な報告を上げるべきではなさそうだ。依頼人は安心したがっている。であれば、その要望に応えるべきだろう。




──本当のところは違うだろう、むしろ不安を感じさせてやりたいんじゃないのか。




 高校と大学でおれは演劇に熱中した。主役が回ってくることはなかったにしても、それでも演じることは楽しかったし、脇役としての評価は低くはなかったと今でも思っている。ただ、大学も卒業が近づくにつれ将来について考えざるをえなくなった。まあ親のことも兄弟のことも無視はできない。演劇で食べていければ良かったが、それが難しいことも明らかだったからだ。


 そういうわけで、おれは地方公務員になることにした。どうせ好きなことで食えないのなら、食える職業につくことを優先しようと思った末の結論だった。その結果、合格したのは警察官採用試験だけだったが。今でも警察官の経験は役に立っている。警察官として十年働いたが、自分には何より大切な正義感が不足していることに気がついて、不祥事を起こす前に辞職することにした。その後は大手の探偵事務所で色々と経験を積んだ。


 独立して探偵事務所を開いた最初の顧客でおれはまあ失敗をした。夫の浮気調査を妻が依頼してきたのだ。簡単な調査だった。夫は職場の若い女性と不倫関係にあることがすぐに判明したからおれは証拠となる写真もつけて依頼人に報告した。そうしたら、数日後、依頼人だった女性が夫を刺殺して自殺する無理心中事件が起こった。依頼人の本当の希望は「夫の浮気の証拠は見つからなかった」という報告だったのだろう、とそうなってから気づいたわけだ。後知恵は何の役にも立たない。おれは安心したがっている依頼人の不安を見過ごしてしまったことになる。


 依頼人を不幸にするような私立探偵に誰が仕事を依頼するだろう。


 事実だからといって、それが誰にでも受け入れられるわけではない、ということを学ぶのには十分すぎるほどの経験だった。




──あの人たちを殺したのはお前だ。ああなることは、お前にはわかっていただろうが。




「ご足労いただきましてありがとうございます。詳細は報告書の方に記載させていただきましたが、口頭でも簡単にご報告させていただきます」


 おれは依頼主ににっこりと愛想良く微笑んだ。余裕を感じさせる微笑は不安を感じている顧客には効果的だ。費用はゼロなのだから有効活用すべきだろう。


「ご依頼の『トーネ』さん『コレット』さん『ヤクモ』さんお三方の身元はなんとか特定できました。入手できた写真も報告書に貼付させていただいております」


 苦労した、ということを言外にアピールしておくことも大切だ。かけた費用に見合うと思ってもらわなくてはならない。


「『トーネ』さんは戸根真理夫、二十一歳の大学生です。所属していたアウトドアサークルでの事故があったことから少し落ち込み気味ということですが、普通に大学に通っておられますね。今は就職活動でお忙しいようです」


 手にした報告書の写しに視線を落とすふりをしながら、おれは依頼主の表情を窺った。余計なことを言う必要はない。まったくの嘘は論外だが、多少の省略や情報のつぎはぎ、脚色程度なら方便の内だ。


「『コレット』さんは知母上若菜、二十歳の大学生ですね。旅行がご趣味で、今もご旅行中だそうですよ。知母上さんについてはまだ調査を続けるつもりです」


 旅行先の交通事故の話をどう伝えるべきか、おれは内心首をかしげた。遺体も見つかっていないのだ、失踪という方向で話をまとめた方がいいかもしれない。そうしよう。


「『ヤクモ』さんは原苫克利、六十二歳の男性で小説家です。筆名は神尾龍磨、ご存じでしたか、ああ、ご存じではありませんでしたか。どうも体調を崩されたらしくてご入院中ということです。ご病気の内容についてはまだ何とも」


 申し上げることはできません、こちらの方針が定まっていないので、と頭の中で呟く。


「原苫克利さんのご病気についてもまだ調査を続けます。当然のことですが、この調査において、私立探偵が調査をしていることと依頼主があなたであることは一切まだ調査対象には知られておりませんし、気づかれないように進めております。ご安心ください。ただ、一方で手間や時間がかかることもご了解いただければ、と思います」


 依頼人がうなずくのを見て、おれは手にした報告書の写しをテーブルに置いた。


「次のご報告は来週のこの時間にさせていただければ。ご予定は大丈夫でしょうか。ありがとうございます。次は『コレット』さんと『ヤクモ』さんの状況についての残りのご報告とご指定の場所についての調査報告に入りたいと考えております。報告書を読んでいただいてご質問ご要望があればご連絡ください。本日は本当にご足労いただきありがとうございました」




──お前は相も変わらず嘘つきだ。いつだって嘘ばかりついている。




 この調査を始めてからというもの、ずっと何者かにつきまとわれているような感じがする。この感覚には覚えがある。警察学校での訓練の一環で教官による模範演技として尾行を受けた時のことだろうか。確かに今回の仕事は風変わりな調査内容だとは思うが、尾行をされるような依頼とも思えない。とすると、タイミングはたまたまで別件だろうか。


 このような職業で他人様の事情を調査することも多いのだから、恨み逆恨みを色々と買っていてもおかしくはない。とは言え、私立探偵としてのおれの調査のほとんどは個人に対する素行調査だ。恨みに思われたとしても長々とつきまといを受けるほどのものとも考えにくい。とすれば、私立探偵を開業する前の件だろうか。


 警察を辞めるきっかけになった事件は、刃物を使った連続通り魔事件だった。


 被害者は五人。四十代の男性、二十代の女性、五十代の女性、八十代の男性、五十代の男性とばらばらで一貫性を見いだすことはできなかった。


 犯人は巧妙にか悪運に恵まれてか防犯カメラを避けて移動しカメラの死角で犯行に及んでいた。決まって雨の日に犯行が行われるせいもあって目撃者らしい目撃者もおらず現場に証拠らしい証拠も残されていなかった。被害者の傷口から判断する限り、凶器と目された刃物は量販店で売られている家庭用包丁で、購入者の線からたどるのも難しい。


 不眠不休で追い立てられる捜査陣への有形無形の圧力は尋常なものではなく何としても一時間でも早い事件解決が求められているような状況だった。


 文字通り死に物狂いの捜査の末、一人の容疑者が浮かび上がってきた。


 防犯カメラ設置を請け負っている警備会社勤務の若い独身男性。不起訴になりはしたものの未成年の頃に刃物を持ち出すような騒動を起こした事実があった。通り魔事件のあった日には全て休暇をとっており、自炊が趣味だということで量販店で色々購入した記録もあった。


 状況だけから見れば心証は真っ黒だが、決め手となる証拠がない。何回かの任意での事情聴取の後、現行犯で押さえるべく交代で警察官が張り付いたが、途端に通り魔事件が収束した。


 捜査協力のためにおれが出席していた会議でも「もうあいつが犯人ってことで良いだろ」「良いわけあるか、証拠を持ってこい証拠を」「とりあえず犯行の予防措置にはなっているわけだよな」「だからと言って、いつまでも今の体制を維持できるわけじゃないぞ」「別件ででも逮捕できないか」「それでどうするんだ、自白の強要か。また冤罪だ何だと問題になるぞ」と同じような話が堂々巡りする状況だった。


 一刻も早い犯人検挙をという圧力と捜査員たちの過労とでおれの目にも限界は近そうに見えた。


 だから、おれはおれの独断で動くことにした。


 それでどうなったのか。事件の記録ではこうなっている。


「容疑者である染入外史が旅行鞄を持って駅に向かっているところを、当日非番中であった巡査部長城金倎司が見とがめ職務質問を実施した。染入容疑者は遠出の自粛を所轄警察署から要請されており、染入容疑者を尾行しているはずの捜査員の姿も見えないことから、城金巡査部長は容疑者の様子に不審を抱いた、と後に証言している。職務質問の際に、城金巡査部長が染入容疑者本人の許可を得て旅行鞄内を調べたところ血のようなもので汚れた文化包丁を発見、その直後に染入容疑者がその文化包丁を振り回して暴れ始めた。染入容疑者と城金巡査部長とはもみあいになり、城金巡査部長も三週間の負傷を負ったが、染入容疑者は自分の振り回した包丁で自傷し死亡した。染入容疑者の自宅付近を調べたところ、尾行任務についていた鈴木英二巡査部長および佐藤蜂夫巡査長が刺殺されていたことが判明した。当該事件は容疑者死亡のまま送検された」


 容疑者死亡による書類送検というのは、結局、警察側の敗北だ。しかし、染入外史死亡後、通り魔事件は再発しておらず、周辺住民も捜査陣も不安と重圧から解放されたことには違いはない。


 問題の職務質問からの一連の動きは防犯カメラにすべて記録されていて染入外史を死なせてしまった件についても正当防衛が証明されたが、それでも被疑者死亡の責任を誰かがとらなくてはならなかった。対外的には負傷を理由に、内部的には容疑者を死なせた責任を当事者がとるという形式で、警察を辞職した。この辞職で助かった警察上層部の人間は少なくなかったし、警察官二名殺しの仇を討ったという経緯もあって、今でも警察関係者には顔が利くことが多い。


 染入外史に遺族か友人がいればおれを恨むということもあるかもしれない。


 だが、残念ながら、染入外史の両親は早くに亡くなっており兄弟もいなかった。そこまで親しい友人知人もなかったはずだ。それに、あの事件から既に数年が過ぎている。事件直後ならまだしも、今更、恨みを晴らしにくるとは考えにくい。


 誰が、何故、おれを尾行しているのか、どう考えても分からなかった。




──自覚がないとは本当にお幸せな奴だ。自分の罪をごまかしきれると思っているのか。




 次の週からおれは現地調査を始めた。必要なもの足りないものを量販店で買い込んで数日間の旅だ。


 まずは簡単に役所にあたってみたところ、S県の疋馬島は、およそ五十年ほど前に最後の住人が立ち去ってしまって以来、無人島のままということだった。元の住人たちは島から出て散り散りになったので今となっては土地の権利関係もわからなくなっていることから行政もほとんど放置気味であるらしい。本当は島に残された住居跡も危険なので解体撤去すべきなのだが、その費用を負担する相手も請求する先も全くの不明となっているせいでそのままになっている、ということだった。疋馬島には寺はなく豊漁を祈願するための神社だけがあったようだ。葬式など仏事は里桜町の寺に頼んでいたという。


「普通、神社ではですね」


 里桜神社の神主が眉間にしわを寄せた。


「お札やお守りは受け取り焚き上げをします。しかし、玩具や人形の類いを受け取ることはありません。疋馬島の神社跡の人形はいささか変ですね」


「その疋馬島にあった神社について詳しいことをご存じの方はおられませんか。言ってしまえばご近所ですよね、例えばこの神社と何らかの交流があったりとかは」


「いや、なかったですね。そもそも、疋馬島の神社、正式な神職の方がおられたのかな」


 正式な神職というのは資格職だ。ただし、必ずしも守られているわけではない、と神主は言った。


「資格を取るのも簡単ではありませんからね。まして、小さな島の小さな神社でしょう。あの島の住人たち共同で神社を守っていたんじゃないですか」


 T大学の学生たちの事件を捜査していた刑事と話をする機会もあった。


「ああ、あんたがあの。お噂はかねがね。話に聞いてたより若く見えるな。で、あの事件のことかい。最初、通報を受けた時には何て馬鹿なことを、と思ったよ。何せ若い男四人だろ。喧嘩か何かで一人怪我をさせたに違いない、ってな。被害者以外の三人は興奮してたし怯えてもいた。こいつら、やらかしたんじゃないか、やらかしたんだろう、そう確信もしたさ。だけどな、被害者にはどこにも何の外傷もなかった。クスリでもやってたんじゃないか、とも考えたが、こちらも何の反応もなしだ。わけがわからねえ」


「クスリ、ですか。一体、また何故」


「連中が言うにはものすごい笑い声が響いたんだそうだ。連中の張ってたテントが震えたり、雑木林の木が揺れそうなくらいの笑い声がな。だけど、町のこっち側じゃ誰もそんなもの聞いた奴はいない。あの島とこっちじゃそう離れてるわけじゃないし、まして真夜中のことだ、そんな笑い声がしたってんならこっちでも聞こえないはずはないんだがな。幻聴を疑って当然だろう。それにな、連中の一人がスマホを出してきて、笑い声を録音したって言うんだが、何も入ってなかったのさ。連中も面食らってたみたいだったな」


「それはそうと。あの島には色々と良くない噂もあるようですが、以前にも何かあったんですか」


「警察が出張るような事件は何もなかったさ、あれ以前にはな」


 刑事が片頬をゆがめるようにして笑った。嫌な笑い方だった。


「何せ無人島だからな。時々あの島に出入りする船があるのは分かってた。里桜町からも遠くはないからな。ただ、そこで何が起きたかまでは知らん。月に一度くらいは里桜町の派出所からもパトロールに出ているんだがな、特に事件が起きたらしい痕跡もないそうだ。だが、実は派出所の連中もあの島に行くのを嫌がってる。別に何があったというわけでもないんだろうが、な」


 刑事と話した次の日、おれは一日かけて図書館で新聞の縮刷版をめくり、刑事の発言が正しかったことを確認した。表向きでも特に事件らしい事件がなかった、というのは依頼人に報告する上で良い話だった。謎の笑い声や神社には普通奉納されない人形の話、警察官がパトロールを嫌がる件などは何の根拠も残されていないことなので報告上省略してもいいだろう。その方が依頼人も安心するはずだ。


 最後の仕上げとして、おれは漁港にいた若い漁師に頼み込んで疋馬島へと渡った。砂浜と居住地跡、神社跡の写真を撮って引き上げる。依頼人にきちんと調査しましたよと報告するためだった。




『路上で四十五歳男性死亡、殺人事件とみてS県警が捜査

 ○月×日午前零時頃、里桜町の路地裏で一人の男性が血を流して倒れているとの一一○番通報があり、県警里桜署の職員が駆けつけたところ、里桜署捜査一課所属の田中椎吉巡査部長(四十五歳)が心臓を一突きにされて死亡していることが確認された。現場には争った形跡はなく、不意を打っての一撃であったか顔見知りによる犯行とみて警察は捜査を始めている』




──何もなかったですませるのか、嘘つきめ。




 依頼人への二回目の報告を前に、報告内容をどうするか、しばし考え込んだ。あまり、何もありませんでしたよ、というだけでは依頼人も不審に思うだろう。依頼した甲斐があったと感じてもらわなくてもならない。さじ加減に工夫が必要だ。


「本日もご足労いただきましてありがとうございます。二回目の報告をさせていただきます。詳細は報告書をご覧ください。まず、前回の積み残しの件として、『コレット』さんこと知母上若菜さんですが、どうやら旅行先で失踪されたようです」


 こわばった表情になった依頼人におれは微笑みかけた。


「知母上さんの失踪に事件性があるかどうかはまだ分かりません」


ということにしておこう、その辺りの情報は依頼人次第で開示するかどうかを判断することにしたい。


「近々、月夜見村に行ってきますので、そこで詳細については調査してきたいと考えています。あと『ヤクモ』さんこと原苫克利さん、小説家の神尾龍磨さんですね。ご病気の内容について判明いたしました。どうやらガンでのご入院のようです」


 こちらは隠してもあまり意味はない。依頼人はイラストレーターで出版業界に関わる人間なのだから、その気になれば、小説家神尾龍磨の病気の件など簡単に耳に入るだろう。


「本当に残念ですが、どうも体のあちらこちらに転移しているらしく病状は決して楽観はできないようです。残念なご報告となってしまい申し訳ありません」


 深々と頭を下げる。頭などいくら下げたところで痛くも痒くもない、こういう態度もサーヴィス業の一環だ。頭を下げられて不快になる日本人は少ないのだから。


「S県の疋馬島の調査を始めさせていただいております。確かに、いささか雰囲気のある島ですね。居住地跡とか神社とか。ただ、あの神社ですが、正式に神社本庁に登録されたものではなく、正規の神職がおられたわけでもなかったようです。あの島に住んでおられた方たちで守ってこられた神社だったようですね。ですから記録らしい記録が残されておりません。あと図書館の新聞縮刷版や所轄警察の記録などにもあたってみましたが、具体的な事件記録は、ついこの間のT大の学生たちの事案以外にはなかったようです。結局、この件についても事件性は立件できなかったようで、一種の事故として警察でも処理されたようですね。ですから、疋馬島での事件らしい事件は何もなかった、ということになります。疋馬島の元住人の方々は散り散りになっていて、S県の方でも追跡できていないとのことでした。この方たちから話を聞ければ確実だったんですが、力不足で申し訳ないと思っています」


 もう一度、深々と頭を下げる。依頼人の表情に不満や憤りの様子が見られなかったので、おれは話を続けた。


「ご質問やご要望はございませんか。そうですか、次の報告を一応最後ということにさせていただきたいと考えております。来週のこの時間で大丈夫でしょうか。ありがとうございます。次はK県の月夜見村についてと『コレット』さんの件についての調査報告をさせていただきたいと思っております。報告書を読んでいただいてご質問ご要望があればご連絡ください。本日は本当にご足労いただきありがとうございました」




──これで、おしまいにする気なのか。勿体ないとは思わないか。




『to:goldburg

 from:noname

 title:警告

 君はいったい自分に何を調べさせたのだ。

 あのサイトの調査以降、ハーンという名前のマルウェアの侵入の他、不審な事態が続いて大変迷惑している。

 自分としては君からの情報開示が不十分であったがゆえのトラブルであると判断し、今後のことを鑑みて君に相応のペナルティを負ってもらうことになるだろう      』




 間違いなく誰かがおれを尾行しているようだ。


 何者かにつきまとわれている感じは日々強くなっている。疋馬島の件で里桜町を歩いていた時には背後からつけてくる足音まで聞こえたほどだ。気配を感じさせたり足音を響かせたり、つまり、それほど尾行が上手というわけでもないのだろう。だが、その尾行者の姿をとらえることができない。その辺がどうもちぐはぐで気持ちが悪かった。次の調査地であるK県の月夜見村へと自動車を走らせながら、おれは尾行者の意図を考えていた。


 月夜見村への陸路からの入口である月夜見坂のある香具椎山の千曳峠はきわめて交通の便が悪いところだった。休火山とはいえ香具椎山は火山らしく峻険で海に迫っており、そのせいで千曳峠の道も狭くカーブの多い難路となっているようだ。知母上若菜が自動車事故を起こしたのもそれが理由だろう。


 まずは役所で月夜見坂と月夜見村についてあたってみたが、これといった話は聞けなかった。あまりに閉鎖的な僻村であるらしく行政もあまり関心がないようだ。まだ住人が残っているという違いはあるものの、S県の疋馬島と雰囲気が似ているような感じがする。


 役所の人間の紹介で和多津見町に住んでいる郷土史家の先生を訪ねることもできた。


「月夜見村かね」


 元は高校の歴史の教師だったという老人が分厚い眼鏡越しにおれを見た。おれの愛想笑いに失望したようなため息をもらす。確かに知的な見かけとは言えないだろうが失礼な話だ。


「この界隈にはここ和多津見町と穂出里村、あと月夜見村があるが、この中で一番古くからあるのが月夜見村だ。風土記に月読郷と記録されているのが一番古い史料ということになる」


「風土記、ですか。とすると、それは相当昔ですね」


「そういうことになるな。ただ、この地方の風土記は結局ほとんどが失われてしまっておって、ほんの一部が他の資料に転載される形で残っているだけだから、どれほど信憑性があるかは保証できないが。ただ、まあ、この界隈では一番古い、ということで間違いはなかろう」


 風土記を記述したのは朝廷から派遣されてきた国司などの律令官たちだが、当時の朝廷界隈には百済や新羅、唐などから来た人間も多い国際都市だったというのに、その彼らにも分からない言葉を月読郷の住人は話していたらしい。郷土史家の先生が言うには、黒潮の流れに乗ってきた東南アジア系の人々か、太平洋の向こうからやって来たミクロネシア系の人々だったのではないか、ということだった。


「月読郷の人々は、当然、記紀神話系の神々とは異なる信仰体系も持っていたようだが、それがどんなものかはまったく分かっていない。K県からS県にまたがるこの尾上湾一帯に散らばった後、周囲の人々との間に溶け込んでしまったようだから」


 尾上湾一帯。考えてみれば疋馬島も尾上湾のS県側だ。陸路では距離があるように感じるが海路でならそうでもないのかもしれない。


 その後、郷土史家の先生は、よそから移ってきた水軍衆が和多津見郷や穂出里村を拓き月夜見郷の人たちとごたごたがあった話などをしてくれたが、まあその辺は戦国時代などではよくある話という感じだった。依頼人への報告にはあまり役に立ちそうにない。


 K県警の和多津見署へも行ってみた。知母上若菜の交通事故についての詳しいところを調べておく必要があったからだ。


 事故の記録では知母上若菜の単独自損事故となっていた。暗い山道でスピードを出しすぎガードレールを突き破った、ということらしい。記録の通りであれば、ブレーキ痕もなく、自動車の部品も崖下にバラバラに飛び散っていたそうだ。


 事故というより自殺なのでは、という気さえする。


 依頼人には何と話したものか、頭が痛い。和多津見書では今でも知母上若菜の遺体を探してはいるそうだが、まだ見つかっていないという。遺体が見つかっていないのに交通事故とは妙な気もするが、崖の下からすぐが尾上湾なので波にさらわれてしまうとなかなか見つからないものなのだそうだ。


 和多津見漁港の漁師にも頼んで月夜見村へと船を出してもらった。山道を延々上り下りするような趣味はない。船でならすぐだし楽だ。


 月夜見村は日本中どこにでもありそうな高齢化の進んだ僻村だった。月夜見の港にいた老婦人たちに話をしてみたところ知母上若菜のことをおぼえていた。


「ああ、あの娘ねえ。夕方遅くまでここにいたんですよ」


「もう暗くなるからねえ、山道は危ないから泊まっていったら、と言ったんですけどねえ、どうしても今夜中に帰らなきゃいけないからって」


「そうそう、時間に気がついて大慌てで帰って行きましたよ」


 三人の老婦人に礼を言って、おれは山の方を見た。切り立った崖に延々と石段が並んでいる。あれを登って千曳峠まで戻るとなると相当大変だろうし時間もかかるだろう。疲労と焦りからくる事故だったことにした和多津見署の判断も理解できなくはない。


 さて、依頼人にはどう報告したものか首をひねりながら、おれは図書館で新聞の縮刷版にあたってみることにした。


 和多津見署の交通課にも交通事故への注意書きが掲示されていたとおり、やはり千曳峠のあたりは事故多発地域であるようだ。なかには交通マナーの悪い運転者も相当数いるらしい。大概は自損事故で負傷するくらいですんでいるようだが、中には死者が出るような重大事故も起きていることもわかった。

 ごくまれに、知母上若菜の事案のように遺体が見つからないことも起きている。K県警としても交通事故多発に対する取り締まりを強化しているもののなかなか成果にはつながっていないようだ。


 郷土史家の先生を訪ねた時にも、和多津見署に赴いた時にも、今の図書館の中でさえ、おれを尾行している気配を感じる。誰かがおれをじっと見ているのだ。だが、いったい何のために。尾行者の気配は近づいてくる一方だというのに、おれは今もってそれがどういう奴なのかさえ分からずにいる。




『高齢男性が死亡 自宅庭で 殺人事件とみて捜査

 ○月○日午後九時頃、K県和多津見町の出居日南さん(七十二歳)宅で、帰宅したら祖父が死んでいた、と二十代の会社員の孫から一一○番通報があった。和多津見署の職員が駆けつけたところ、出居さんが刃物による刺し傷を負って出血しており、その場で死亡が確認された。現場には荒らされたような様子はなく、警察は出居さんが何らかのトラブルに巻き込まれたものとみて捜査している。出居日南さんは元県立高校の社会科教師』




──おれが誰なのか本当に知りたいのか。知らないふりをしていたいんじゃないのか。




 K県千曳峠から帰ったおれが最後の報告書をまとめようと事務所のドアを開けた時、室内に誰かがいることに気がついた。本来、おれの席である所長の椅子に何者かが座っているのだ。窓の方を向いておれに背を向けたそいつが口を開いた。


「よう遅かったじゃないか。随分とのんびりした重役出勤だな。サーヴィス業は勤勉が一番だぞ」


 どこかで聞き覚えのあるような声だ。誰だろう。


「不法侵入者に勤勉を説かれるいわれはない。誰だ。どうやって入った」


「くだらない質問だな。どうやって入ったも何も、今お前が入ってきたドアの鍵をあけて入ってきただけだ。それに、おれに会いたがったのはお前の方だろう」


「何を言っているんだ。おれが、あんたに、会いたがった、っていうのはどういうことだ」


「誰がお前をつけていたか、知りたかったんじゃないのか。おれだよ。お前をつけていたのはおれだ」


「なんだと」


 予想外の事態に頭が空白になった。所長席に腰をおろしたそいつに向かって一歩踏み出した。背後で事務所のドアが音を立てて閉まった。その音に頭が冷える。今、この室内にはおれとそいつの二人きりだ。


「こそこそおれをつけ回していたやつがなんだってこんなところに出てきたんだ。おれに何か用か」


「不法侵入者とかこそこそとか心外な言い分だな。それにさっきも言ったが、おれに用があるのはお前の方だろう。お前が会いたがったから出てきたまでだ。まあ、お前に最後の挨拶をしておかなきゃな、と思ったということもあるけどな」


 くすくすと嫌な笑いをもらしながら、そいつが椅子をくるりと回しておれの方に顔を向けた。おれは思わず息を呑んだ。


 そいつは、おれだった。


「わかるだろう。不法侵入もこそこそもしちゃいないんだよ。何せおれはお前だからな。この席だっておれの椅子だ」


「ばかな。お前がおれだと。そんなばかなことがあるものか。何者だ。何だっておれのふりをする」


「まあな、まあ、そう言うよな。でも、わざわざ手間暇かけてお前のふりをして何になる。何の得もないだろう。それに、こんなことになった理由はおれにだって分からん。ただ、まあ、多分、この状況もそう長いこともないだろうしな」


「黙れ。この偽物野郎」


 おれの怒鳴り声にそいつは嫌みったらしく肩をすくめてみせた。


「やれやれ、哀しいね。だけどな、偽物はお前も同じだろう」


「なんだと」


「お前だって城金倎司じゃないだろう、って言ってるんだよ」


 そいつの言葉におれの腹の中が冷たくなった。ずしりと重たいものが落ちてくる。


「なあ、人を殺すのは楽しいよな。人を殺せる自分は特別だって気分になるものな。人の生殺与奪を握るのって最高の気分だろう」


 所長席から立ち上がったそいつはゆっくりとおれの方に近づいてきた。


「わかるぜ、おれはお前だからな。お前がやってきたことも全部知ってる。五人殺しの通り魔も警官二人殺しもお前がやったんだよな。そいつを全部染入外史にかぶせて、兄貴の倎司を使って染入を上手く始末させたわけだ。ありゃあ、本当に上手くいったよな。ただ、後になって倎司兄貴が妙なことに気づきさえしなきゃ良かったのに」


 なあ、とそいつは嫌な笑みを浮かべた。そいつはおれを嘲笑していた。


「だから、兄貴まで殺さなきゃいけなくなってしまったんだよな。で、兄貴を殺した後で気づいたわけだ。兄貴は県警の英雄だった、だったらそれを利用しない手はないよな」


 兄が警察官になったので、おれも警察に就職することにした。演劇では食っていけないと思ったからだ。兄はまじめな正義漢だったがおれは違う。だから、警察官の職務はおれにはストレスだった。


「それで、お前は城金倎司のふりをすることにしたわけだ。まあ、今までうまくごまかせていたんだから上手くいった方なんだろうよ」


 おれと兄の外見はよく似ていた。子供の頃は双子と間違われることもたびたびだった。


「だけどな、今度の殺しは余計だったな。S県の刑事殺しとK県の老人殺し」


「なんだと、ばかな、おれは」


「そうだな。お前はやってない。でも、おれがやった。お前、イラストレーターだの成功した小説家だの学生だのを相手にしなきゃいけなくてイライラしていたものな。ああいう世間のしんどさを知らなさそうな連中に鬱憤がたまっていただろう。お前を疑いの目で見た刑事だのお前をばかにした元教師だの、死んですっきりしたんじゃないのか」


 そいつはおれの目の前でにんまりと笑った。


「おれはお前だからな。おれがやったこともお前がやったことになるさ」


「ふ、ふざけるな」


「なあ、他人に罪を着せられるのってどんな感じだ。まあ、おれはお前だからな。他人に罪をかぶせられるってわけじゃないけどな」


「何を言っているんだ、おれはやってない」


「染入だってそう言っただろうよ」


「黙れ」


 気がつくとおれは右手に包丁を握りしめていた。疋馬島に出かける前に量販店で何故か購入してしまった包丁だった。真新しいはずなのに何故かおれの手にしっくりとなじんだ。目の前のそいつの腹が赤く染まっていることにぞっとなった。


「言ったろう。最後の挨拶に来たってな。だけどな、お前ももう長くはないぜ。あの先生がお前の情報を警察に売った。電子情報の専門家を怒らせたのはまずかったな。まあ、お前だけのせいじゃないけどな。お前が偽物だってことになれば、警察だって倎司兄貴を探すだろうし、そうなりゃ倎司兄貴の死体が見つかるのもそう遠くはないだろうよ」


 そいつはにやりと笑うと、あばよ、と呟いて、姿を消した。影が消えるように跡形もなく。事務所の中は、おれただ一人きりだった。


 おれの右手から包丁が音を立てて床に落ちた。


 その時、事務所のドアがノックされた。そのノックがおれの耳には絞首刑の台が落ちる時の音のように響いた。




 この絵に描かれた人物に何故不穏な気配を感じるのだろう、とじっと眺めているうちに気がついたことがある。


 この人物の目だ。こちらをじっと見つめる瞳がやや上目遣いで描かれているせいで、何とも値踏みをされているような落ち着かない気持ちにさせられる。


 さらによく見れば、かけている銀縁の眼鏡には度が入っていないようだ。伊達眼鏡、いや変装の小道具の一つ、ということなのだろうか。


 何より、この人物の背後にのびる黒々とした影だ。


 光の加減のせいなのだろうか、どうも不自然に感じられるほど大きく後ろの壁に影が落ちている。


 まるで、影がこの人物を背中から丸ごと呑み込もうとしていると感じられるくらいに。

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