(第二篇)曼珠沙華
ななとの用事の話は済んだ。彼女はテーブルの上にスマホを置いて、六輔の先輩でもある父親にメールを打っていた。彼はマクドナルドの店頭の夜灯に浮かぶ黄色いmを、店内からウインドウ越しに見ていた。「アズミノです」とさっき、ななは彼女の祖母の故郷を言った。彼はその地名ぐらいは知っていた。アズミノ──たしかそれは、「安曇野」と漢字で書くんだったな。曇はドンとも読むが。ああ、優曇華の花、なんてのがあった──と彼の連想は流れた。
「例えばこんなシーン、昭和の映画によくあるやつで……」と六輔が、メールを終えたななに話を振った。
「……昭和の映画に、ですか」となながちょっと目を細めて彼に訊いた。
「うん、児童向けに潤色たっぷりな、母と子の物語のワンシーンって感じの」
「何ですか、もったいぶらないで」
「いや、そんなたいそうなことじゃなくてね」彼は、おぼろげな亡き母親との一日の思い出を、脳裏に手繰り寄せてななに語った。
──季節は秋、六輔は小学一年か二年だった。彼はその日の朝、どうしても外出する母親といっしょにバスに乗りたくてしかたがなかった。母親は意に沿わぬ所用らしく朝っぱらからことさらに不機嫌だった。が、彼は、家でおとなしく待っていなさい、とさとす母親にダダをこねて首肯かなかった。で、しぶしぶながらの母親と連れ立って、彼は隣町のさらに隣町ぐらいに遠出した。
昼過ぎ二人は、実家近くのバス停に帰り着いた。帰り途、六輔は田んぼの畦道の所々に群れて咲く花を見て、「花が赤いなあ」と何気なく母親に言った。すると母親は歩みを止め、彼の言う花の方にしばらく目をやり、それから腰を折って彼の顔をしげしげと見つめ、あなたはあの花がそんなふうにだけしか見えませんか、兄さんならもっとましな言い方をします、と言ったのだった。──
「ふーん、じゃあ、お兄さまならどんなふうに」とななが言った。
「さーあ、どうだろう。少なくとも僕よりは彼女を喜ばせるようなことを言うだろうけど」彼はつかのま兄の言いそうなことに思いを巡らせてみたが、見当もつかなかった。
「その赤い花って、その季節なら曼珠沙華のことでしょう。紅色の」
「そうそう。きみ、都会育ちなのによく知ってるね。彼岸花とも呼ぶね。当時は赤い花としか知らなかった」
「お母さま、ちょっと謎かけみたいなおっしゃりかたですよね」
「いや、彼女はストレートに、我が子の美的色彩感覚のあまりの乏しさを、どこにもやり場のない哀しみとともに、切なく悲劇として受け止めたんじゃないのかな」
「ふっふ、いえ笑っちゃいけないけど……」とななは言って、ちょっと小首を傾げて、冷めたコーヒーがまだ半分ほども残る、テーブルの上の紙コップの口に、右の掌を被せたまま目を伏せた。戯れに答えは何かなと想ってみる、そんな風情だった。
夜が店のウインドウを鏡にしていた。六輔の向かいの四人掛けの席に、横向きに一人座る高校生ぐらいの少女が、テーブルにうつむいて読み書きに没頭していた。目を凝らすと、鏡面に映る少女の左側頭の耳元に、白い髪留めが認められた。そこには臙脂色のフリースを着たななの背中も、姿見に映す感じに映っていた。
「たぶん、お母さまは、『色のない花はないんだよ』ってロクさんに教えたかったんじゃないのかな」とななが言った。
「色のない花はない……、なにそれ」
「いえ、ふとそう思ったのはね。この間のわたしの誕生会のとき、父さん、めずらしくワインに酔っちゃって、『女は物の色や形を理論立てて、男に教えることはできないんだ。またその必要もない。なぜなら、女自身が刻々に変貌する色であり形なんだからな。見りゃあわかる』とか、戯曲の台詞を言うみたいにお芝居じみた口調で、わけわかんないこと言ってたでしょう」
「ああ、言ってたな。『だから画家の先輩として母親のヴァラドンが、息子のユトリロに教えたパリの色と形は、母親そのものだったんだ』とも」
「うん」ななは頷いて小さく笑った。
「それにしてもきみたち父娘は、ほんとにパリが好きだね。というより〈エコール・ド・パリ〉が、かな。きみのななって名前も、モンパルナスの『キキ』の呼び名の感じが好きで、そこから取った、といつかきみの父さんが得意げに話してくれたことがあった」
「ふふっ、わたしも彼女のように、画家たちのモデルになれるような女の子に生まれたかったなあ」
「いや、なれるよ、きみなら。なれるさ」
「あはっ、なれませんって。なれない、なれない。わたしなんか」とななは照れたように笑った。
店員が不粋にも窓にブラインドを下ろしていた。ここのマクドナルドは分かっていない。宵の客は、夜の闇が道具立てする店のウインドウの鏡に投影して偲ぶ人や物の俤を、たいがい一つや二つは胸に秘めているものだ。だからブラインドは下ろすべきじゃない、と六輔が言うと、ななは、ロクさんと父さんってほんとに、ほんとに二人とも揃いも揃って役者なんだから、と言って笑った。
「ところで、フランスにも曼珠沙華ってあるの」と彼がことさらに訊いた。
「さあ、どうかな。知らないなあ。ちょっと待って」とななは言ってスマホを手にして検索した。そして、
「あるのね。『レッド・カーペットのようだ』なんて言ってる人がいる……」とスマホの画面に向かってひとりごちた。




