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(第一篇)肖像

 コーヒーカップの横で六輔のスマホが震え着信を示した。ここ、オフィス街の一角にある喫茶店の隣りのビルに勤める生沢から「すこし遅れるからな」とメールが入った。

 店内の入り口そばのコーナーテーブルの上に、李朝かなにかの大ぶりの白磁の壺が置いてあった。その中には赤、紫、青などのカラフルなドライフラワーが束になって投げ入れてあった。そこから見る奥のベージュの布張りの壁には、アメリカの画家ワイエスの作品『編んだ髪』の複製が掛けられていた。六輔はその絵を以前美術雑誌で見たことがあった。絵は薄緑色のセーターを着て三つ編みのお下げ髪をした、ドイツ系移民の女性ヘルガの肖像画だった。チューリップの形をしたガラスの傘のランプが、スポットライトとして絵のすぐ上に取り付けてあった。

 六輔の席の正面、その絵の下の席には、OL風の若い女が一人いた。短髪の女は細身のタイトな白い半袖のブラウスを着ていた。女は両脇を緩くしぼりぎみにして、ちょっと前こごみに小ぶりのノートパソコンのキーボードを叩いていた。たぶん軽快にブラインド・タッチで。立てられた天板向こうの女の指先は見えなかった。額縁の中のヘルガとおなじように、女の頭部と天板に半分くらい隠された胸部だけが見えていた。

 女が顔だけを上げて、少し上目遣いに正面の入り口のほうを見た。その時女の二つの眼が、ちょうど天板の上縁の位置で、なにか塀越しに隣家の花壇を覗き見る、といったふうにも見えた。女はそのままでつかのま眼を閉じ、また開けるとふたたびディスプレイに引き戻されように顔を伏せた。


 六輔はまた額縁の絵を見た。そしてしばし物想いにふけった。ワイエスはその絵のモデル、ヘルガを十五年間描きつづけた。始まりのとき、画家は、確か──彼はスマホを手に取りグーグルの検索ページを開いた。

 そのとき画家は五十三歳、モデルは三十八歳だった。二人は夫婦でも近親者でもなく、近隣者同士に過ぎなかった。そして二人の関係と、生み出された二百四十点あまりの絵は、作品が雑誌に発表されるまで、互いの配偶者にさえ知られていなかった。が、ワイエスとヘルガはともに、画家とモデルを超える関係ではなかったと語っていた。真偽のほどはどうであれ、その二人の逢瀬を、「密会」とか、「秘儀」とすこぶるアート批評っぽい言葉使いで、申し合わせたように語るネット記述者が何人かいた。

「ワイエスの描いたヘルガ像のうち、かなりの点数がヌードである。それがまた濃密な関係をいろいろに憶測させるわけでもあるが、このヌードのヘルガが実にいい」と彼らの一人はそう語っていた。

「確かに……」と六輔は呟やき、スマホの画面をスクロールしながらいくつかの作品の画像を観ていった。そしてページの端まで流してスマホを閉じた。それから女を見た、というより正面の女の姿は彼の視界に入り続けていた。女がパソコンの脇のスマホを手にした。朱色のカバーのスマホがパソコンの天板の向こうにいったん隠れ、またすぐに姿を現してテーブルに置かれた。たぶん女はメールの確認でもしたのかも知れなかった。


 店の自動ドアが、ザーッという夜の街中の雑踏の音と夜気を招き入れるかのように開き、生沢が入ってきた。女がパソコンから顔をあげて生沢の方を見た。生沢が女に向かって軽く手をあげて近づき、大判の書類封筒を渡した。

「待たせたな」と生沢は席につくなり、

「どうだ、いい女だろ」と軽く顎で女を指して小声で六輔に言った。

「確かに……」と彼は応えて生沢の肩越しに女を見た。女はまたディスプレイに向かって、ひたすらにタイピングに没入していくかのようだった。ココロここにはあらずか、と六輔には女がそんなふうにも見えた。

「彼女には、女の直観というやつでずいぶん助けられたよ」と生沢も振り向き気味に女を見やりながら言った。


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