(第三篇)燈明
高い吹き抜けの天井近くから、サマーセールの水色の垂れ幕が何本か吊り下がっていた。ショッピング・センター三階フロアの休憩スペースの空き椅子に、六輔とシホは横並びに座っていた。二人の目前の透明なアクリル板の囲いを透かして、一階フロアの通路を、休日の買い物客たちがしげく流れ、行き交うのが見えていた。
「で、どうなの。その彼とはもう連絡取れないの」と六輔ががシホに訊いた。
「違います。取れないのじゃなくて、取らない、です」とシホは手短かに断定して応えた。
「そうか……」
だだっ広い吹き抜けを挟んだ向こう側の椅子にも三、四人の客がまばらにいて、皆一様にスマホを手に見入っていた。
「イヤな色ね、あのブラウス」とシホの指差す先の店頭に、それぞれ紫のブラウスと青のTシャツを着たマネキンが二体立っていた。一体のそばに中年の婦人が立ち、ブラウスの縫製の具合か、あるいは生地の質を確かめてでもいるのか、マネキンの肩や脇の辺りを指で摘んで伸ばしたり離したりしていた。シホは、六輔におかっぱ頭の後ろ髪を見せてしばらくそちらのほうを見ていた。が、また顔を目前の床に戻すと、前髪に手櫛をあてながら、別の追想にたあいなくお手手引かれて行く、といったふうだった。シホは、厚手の黒のTシャツを着て、下に、かるく色落ちした幅広気味のデニムを穿いていた。
「……だったらシホさん、このさいタイの寺へでも行ってみたら。知ってる寺があるから。派遣の仕事も辞めたってことなら」と彼が、うなだれ気味で伏目がちのシホの横顔に声をかけた。
「何ですか突然、タイの寺って。わたし、宗教とか瞑想とかにまったく興味ないですよ」とシホは顔を上げ彼を見つめて言った。
「いや、そういうんじゃなくて。いまあの辺は雨季でね……」
「…………」
六輔は、三年前、バンコクのツーリスト・インフォメーションのきさくな職員に、「行ってみなよ。そこは修行道場のような堅苦しい寺じゃない。リラックスできるから。紹介するよ」とその寺をすすめられて行き、四日間泊めてもらった。
寺は、彼らがイサーンと称ぶタイの東北部の山村にあった。礼拝堂の窓から、裏庭の一画に群生する五、六本の椰子の木が見えた。椰子の葉は木の先端から、前後左右、四方八方に伸びていて、一方向から見ると、葉の突端は円弧の輪郭を描いて、風車の羽根の形にそっくりだった。
この季節特有の、雷鳴を合図に始まるいっときの短いスコールの激しい風雨は、なぶるように彼らの葉叢を煽り揺るがせた。が、羽根の付け根に鈴生りのココナッツの実は、微動だにせずにその面をドシャ降りの雨に叩かせていた。
「いかにも南国らしい光景ですね。絵本みたいだ」とシホが言った。
「で、朝と晩に二度、お経の時間があって──」
彼が寺男とふたり、起居をともにした庫裡は丘の中腹にあった。早朝四時半に起き、懐中電灯の明かりをたよりに、礼拝堂への草叢の細道を下った。
朝の読経は、近所の村人十人くらいと、三人の僧侶を仏前にしてとり行われた。読経は、朝の陽光で闇を払った窓に、庭前の芭蕉の大葉がくっきりと立ち現れるまで続けられた。かわるがわる僧侶たちの唱える経文は、古代パーリ語で編まれている、ということだった。
「その時の堂内には十本以上の太いローソクに灯りが点っていてね。なかには一メートルぐらいの長さのもあったな。オレンジ色の胴体だった。で、その燈明が」
「それが、仏像を神々しく照らすんでしょう」とシホが六輔の長話を先読みするかのように言った。
「うん、たしかに燈明にライトアップされた金色の仏像は、なんか、ことさらにありがたみがありそで目を引くね。だけどきみと同じで根っから不信心な僕には、むしろ仏前で読経する坊さんたちのスキンヘッドや、目を瞑って経本もなしにお経を暗唱する村人たちの横顔が、堂内の薄闇にぼんやりと浮かぶのがムード満点に思えたな」
「つまりはローソクによるライティングが、ローカルでクラシカルなムードをかもしだすのね」
「そうそう、シホさん、さすがにうまいこと言う。夜明け前、仏壇まわりはローソクのあかしを集めてひときわ明るい。だけど、その灯り及ばぬ堂内の四隅は暗く、そこには濃い闇が停滞している。そんなふうな……」
「でも、その明暗のコントラストって、ちょっと作為的じゃないですか。その光と闇はテクニカルなもの、とでもいうのかな。いかにも宗教臭さを狙うみたいで、なんかあざとい演出を感じさせる」とシホが冷めた口調で言うのを聞いて、六輔は彼女から目を離して、小さく苦笑いした。
「おかしいですか」とシホが、彼の顔をまた引き戻すように、眉をひそめて問うた。
「いや、まあ……、よくよく考えてみれば、きみの言うとおりだ」
「…………」
「その光と闇は、しょせん、いっときの作り物の幻にすぎない、とも言える。だからこそいつまでもそのままじゃあいられない。夜明けとともに礼拝堂の大きめのガラス窓から、朝の自然光が堂内に差し入ってくれば、その両方ともにしだいに色薄くされて、ついには容赦なく、跡形もなく消去されてしまう」
「そうよね。とうぜんそうなるわよね⋯⋯」
「もちろん電気はあるよ。タイではどこの寺でもたいてい大ぶりのシャンデリアが、礼拝堂の天井から吊り下げられてある。でも誰の計らいなのか、あの寺では朝や夜のお勤めの間、うっすらともそれを点けなかった。ローソクの灯りだけだった」
夜明け間近まで続くお経のあと、どれほどかの黙想タイムがあり、それぞれ各自に目を閉じて夜明けを迎えた。
六輔の話を聞き終えてシホは、またうなだれるようにして床の足もとに目を落とした。そしてどこか幼児じみた仕草で、スニーカーの先端をハの字に開き、閉じし、さらには内側をかるく擦り合わせたりして、しばらく彼との話の間を取り計らうようにしていたが、そのうち顔を上げて彼を見て、
「面影って亡霊みたいだ、ってよく言いますよね」と今しがた頭の中をまさぐり手繰り寄せた一句です、そんな感じに言った。
「亡霊か……、追えども去らずの……」
「……行ってみようかな、わたし。亡霊退治にその寺へ。ホラー映画じゃないけれど」
「うん、そうしてみたら。亡霊と一緒に行って、彼をそこに置き去りにしてくればいい」
吹き抜けの壁のデジタル時計はもう六時を過ぎていた。
「よし、じゃあ、行き方なんかは今夜にでも詳しくメールするから。とりあえず餞別代りに夕飯でも」と六輔は話の区切りをつけるように畳み掛けて言って立ち上がり、シホをフードコートへと促した。




