【 絶海の灯台守 】 第4話
冬が近づき、船の修理は
ほとんど終わっていた。
それでもリゼットは、
島を発つ日を口にしなかった。
「なあ、船はもう直ったんだろう」
「……そうね」
「なのに、なぜ出ていかない」
「エイダン。私、正直に言うわ。
もうこの島から離れたくないの」
彼の胸が、大きく跳ねた。
「馬鹿を言うな。お前には旅がある。
世界中の景色を描くはずだったんだろう」
「あなたを見つけてから、
私が本当に描きたいものは、
この島の光なんだって気づいたの」
「……俺は、
灯台から一歩も動けない人間だぞ。
この光を守るためだけに、
一生をここで終える」
「知ってる。
だから、私もここに残りたいの」
彼は激しく首を振った。
「駄目だ!
お前の才能を、こんな島に
閉じ込めるわけにはいかない!
誰にも見られない絵なんて、
意味がないだろう!」
彼にしては珍しい、大きな声だった。
リゼットは驚いたように彼を見つめた。
「エイダン……」
「俺は……お前が、
俺のせいで人生を狭めるのを、
見たくないんだ」
沈黙が落ちた。
波の音だけが、二人の間を埋めていく。
冷たい風が、
灯台の窓をかすかに鳴らしていた。
「エイダン、聞いて。灯台の光は、
誰も見ていないように思えて、
実は多くの船乗りの命を照らしている。
誰も見ていない場所にこそ、
一番大切なものがあるって、
あなたが教えてくれたのよ」
彼女は彼の手を、そっと握った。
「私はもう、決めたの。
あなたのそばで絵を描く。
それが私の、一番描きたい景色だから」
彼はその手を、
振りほどくことができなかった。
「……本当に、後悔しないんだな」
「ええ。だって、
こんなに強い光を見つけられる人生、
二度とないもの」
その夜、灯台の光がいつもより力強く、
暗い海を照らしているように、
彼には思えた。
だが翌朝、
事態は思わぬ方向へと転がった。
補給船が島に到着し、船長が
リゼットの家族からの手紙を
持ってきたのだ。
「リゼット嬢、あんたの両親が
随分心配しているようだぞ。
本土の画廊が、あんたの個展を
開きたいと言ってきているそうだ」
「……個展?」
「ああ。あんたの絵が、都会で
ちょっとした評判になっているらしい。
この機会を逃す手はないと思うがな」
リゼットは手紙を握りしめたまま、
しばらく言葉を失っていた。
エイダンは、
その様子を黙って見つめていた。
「……行くべきだ、リゼット」
「エイダン、でも」
「お前の絵を、
多くの人間に見てもらう機会だ。
俺の光なんかより、
ずっと大切なことだろう」
「あなたの光は、私にとって、
何よりも大切なものよ」
「それでも、だ。俺はここで、
これまで通り光を点し続ける。
それだけで十分だ」
彼は無理に笑みを作りながら、
そう言った。
だがその声は、わずかに震えていた。
「……分かったわ。
個展だけ、行ってくる。
でも、必ず戻ってくるから」
「約束はしなくていい。
お前の人生だ、お前が決めろ」
「約束するの。エイダン、待っていて」
彼女はそう言うと、
彼の手を強く握り返した。
彼は何も答えられなかったが、
その手を離すことも、また出来なかった。
補給船が水平線の彼方へ消えるまで、
彼は浜辺に立ち尽くしていた。
八年間、何百回と見送ってきたはずの
船出だったが、
これほど胸が締め付けられたのは
初めてのことだった。
その日から、彼の生活には
かつての静けさが戻った。
だが、その静けさは
以前とはまるで違う質のものだった。
かつては当たり前だった孤独が、
今では耐え難いほど重く感じられた。
「……たった二週間だ。
何を苦しんでいるんだ、俺は」
彼は
自分に言い聞かせるように呟きながら、
いつも通りレンズを磨いた。
だが、手を動かしながらも、視線は
何度も彼女の画室のあった崖の上へと
向いてしまう。
夜、灯りを点す作業の最中、
彼はふと日誌を開いた。
そこには、この二週間の記録が、
いつもより饒舌な筆致で綴られていた。
『十月十二日。曇り。波高め。
リゼットが
崖でひまわりの絵を描いていた。
潮風で紙が飛ばされそうになり、
俺が押さえてやった』
『十月十九日。晴れ。波静か。
リゼットが灯台の光を見て
「綺麗」と呟いた。
その声が、しばらく耳から離れなかった』
自分でも気づかぬうちに、
日誌は単なる気象記録ではなく、
彼女との日々の記憶帳になっていた。
それに気づいた瞬間、
彼は思わず苦笑いを漏らした。
「……随分と、
柄にもないことをしているな」
彼はそう呟きながらも、
ページを閉じることはしなかった。
むしろ、そのページを何度も指でなぞり、
そこに刻まれた記憶を確かめるように、
じっと見つめ続けた。
窓の外では、灯台の光が
変わらぬ規則正しさで、
暗い海を照らし続けていた。
しかしその光は、
以前とは違う何かを宿しているように、
彼自身には感じられてならなかった。
本日 19:10 に投稿します。




