【 絶海の灯台守 】 第5話
個展の会期が終わる頃、
リゼットは約束通り、
白鴉島へと戻ってきた。
「エイダン! 戻ったわよ!」
補給船から飛び降りるように駆けてきた
彼女を、彼は少し離れた場所から、
しかし確かな足取りで迎えに行った。
「……随分早かったな。個展はどうだった」
「大成功よ! でも、都会の喧騒よりも、
この島の静けさの方が、
私にはずっと恋しかった」
「絵は、たくさん売れたのか?」
「ええ、おかげさまで。
でも、売れなかった絵があるの」
「どれだ」
「あなたの光を描いた絵。
……あれだけは、
誰にも譲る気になれなかったから」
彼は言葉を失った。
彼女の荷物の中から取り出された
キャンバスには、
吹雪の中でも消えない、
力強い灯台の光が描かれていた。
「……綺麗だ」
「あなたの光だもの」
その日の夜、二人は静かに、
けれど
確かな幸福の中で再会を喜び合った。
リゼットは崖の上の画室に戻り、
彼は変わらず夜ごと灯りを点し続けた。
だが、その日々の中に流れる空気は、
以前よりも遥かに温かいものへと
変わっていた。
「エイダン、これからは、もう離れないわ」
「……勝手にしろ」
そう言いながらも、彼の口元には
隠しきれない笑みが浮かんでいた。
しかし、冬の海はそう易々と、
人の幸福を許しはしなかった。
その日の夜、いつもと違う異変が起きた。
分厚い雲が空を覆い、
季節外れの猛吹雪が島を襲ったのだ。
「エイダン、レンズの調子が……!」
「くそ、氷が張って光が弱くなってる!
今夜は特に、船が多い日なんだ!」
彼は必死に
レンズの氷を削ぎ落とそうとしたが、
強風に煽られ、足場が大きく揺れた。
灯台の外周を巡る狭い足場には、
容赦なく
雪と氷の粒が叩きつけていた。
「危ない……!」
リゼットの叫び声と同時に、
彼の体が大きく傾いだ。
とっさに彼女が彼の腕を掴み、
代わりに自分の体が
手すりの外へと投げ出された。
「リゼット!!」
彼は彼女の手を、渾身の力で握り返した。
凍える強風の中、
彼女は宙吊りになりながらも、
彼の目をまっすぐに見ていた。
眼下には、黒々とした波が
牙を剥くように渦巻いている。
「エイダン……お願い、光を消さないで」
「馬鹿を言うな、今はお前が先だ!」
「駄目。あなたが手を離せば、
私たちは二人とも助からない。
……でも、光さえ点いていれば、
今夜遭難する誰かは、助かるかもしれない」
彼女はうっすらと微笑んだ。
雪が睫毛に積もり、
まるで凍りついた涙のように見えた。
「私の最後の絵は……これでいい。
あなたの光の下で、終わるなら」
「そんなことを言うな……!
絶対に離さない!」
彼は歯を食いしばり、
渾身の力で彼女を引き上げた。
冷たい手が、かじかんだ指が、
それでも決して離れることはなかった。
腕の筋肉が悲鳴を上げ、
視界が白く霞んでいく中、
彼はただ一心に、彼女の名を呼び続けた。
「リゼット、絶対に離すな!
死んでも離すな!」
「……エイダン」
最後の力を振り絞り、彼は
彼女の体を足場の上へと引き上げた。
二人は雪の積もった床に
崩れ落ちるように倒れ込み、
しばらくの間、
荒い息だけが吹雪の音に混じっていた。
「……エイダン、腕は」
「大丈夫だ、それより、お前の右手が」
見れば、リゼットの右腕が
不自然な角度に曲がっていた。
手すりの外に投げ出された際、
岩の突起に強く打ちつけたらしい。
指先はすでに白く変色し始めていた。
「感覚が、あまりないの」
「くそ……!!
すぐに部屋に運ぶ、しっかりしろ!」
彼は彼女を抱え上げ、
吹雪の中を灯台の中へと運び込んだ。
だが、
それでもレンズの氷は放置できない。
この光が消えれば、
今夜この海を渡る何隻もの船が、
行き先を見失ってしまう。
「リゼット、少しだけ待っていてくれ。
俺は、光を守らなきゃならない」
「……行って。私は大丈夫だから」
彼は後ろ髪を引かれる思いで、
再び吹雪の中へと飛び出した。
凍りついた指先で
必死にレンズの氷を削ぎ落とし、
炎が再び力強く燃え上がるのを
確認すると、
彼は転がるように部屋へと戻った。
彼女の右腕は、
すでに紫色に腫れ上がっていた。
彼は震える手で包帯を巻きながら、
心の中で何度も自分を責め続けた。
「……俺のせいだ。
俺が、もっと早く気づいていれば」
「違うわ、エイダン。私が、
勝手にあなたを助けようとしただけ」
「馬鹿を言うな。
俺のこの光のせいで、お前がこんな目に」
彼女は震える左手で、彼の頬に触れた。
「この光のおかげで、
私はあなたに出会えたのよ。
後悔なんて、これっぽっちもしていないわ」
彼はその手を、
そっと自分の頬に押し当てたまま、
しばらく動くことができなかった。
窓の外では、灯台の光が、
何事もなかったかのように規則正しく、
暗い海を照らし続けていた。
明朝 7:10 に投稿します。




