【 絶海の灯台守 】 第6話
夜が明けた頃、
嵐は嘘のように去っていた。
リゼットは一命を取り留めたものの、
右腕に深い凍傷を負い、
二度と絵筆を握ることは叶わなかった。
医者を呼ぶために
補給船が緊急で出されたが、
島に着くまでの数日間、
彼女の右腕は最悪の状態を辿った。
「……ごめんなさい、エイダン。
もう、
あなたの光を絵にすることはできない」
彼女はベッドの上で、力なく笑った。
包帯に包まれた右腕を見つめる
彼女の目には、
隠しきれない喪失の色が浮かんでいた。
彼はその手を、そっと握りしめた。
「馬鹿を言うな。
お前は、俺の光そのものを、
この島に留めてくれた。
それだけで、十分すぎるほどだ」
「エイダン……」
「リゼット、聞いてくれ」
彼は初めて、灯台守として以外の言葉を、
彼女に贈った。
「俺の光は、規則正しいだけの、
無機質なものだった。
お前が来るまでは。
……お前がいなければ、俺は今も、
誰のためでもなく、
ただ習慣として光を点していただけだ」
「……」
「お前がいたから、俺の光には、
初めて意味が生まれた。
一人でも多くの船を、
一人でも多くの命を守りたいと、
心から願うようになった」
リゼットの目から、静かに涙がこぼれた。
「絵は描けなくなったけど
……あなたのそばで、
あなたの光を見続けることはできる?」
「当たり前だ。
俺の光は、これからもずっと、
お前のためにも点り続ける」
医者が到着し、
リゼットの傷の手当てが
一通り終わった頃、船長が彼女に、
本土の病院で
本格的な治療を受けることを勧めた。
「リゼット嬢、あんたの腕は、
この島の設備じゃ
これ以上どうにもならん。
本土に戻った方がいい」
「……エイダン、私」
「行け。お前の腕のためだ」
「でも、あなたを一人残して」
彼は静かに首を振った。
「今度は、
必ず帰ってこいと言えるだけの余裕が、
俺にもできた。
……行って、しっかり治してこい。
俺はここで、
変わらず光を点し続けている」
リゼットは彼の胸に顔を埋め、
しばらくの間、声を殺して泣いた。
彼は彼女の背中を、
不器用な手つきでゆっくりと撫で続けた。
それから半年後、
リゼットは白鴉島へと戻ってきた。
右腕には後遺症が残り、
以前のように筆を握ることは
叶わなかったが、彼女の瞳には、
以前と変わらぬ輝きが宿っていた。
「ただいま、エイダン」
「……おかえり」
彼は珍しく、彼女を強く抱きしめた。
八年間、
誰にも触れたことのなかった彼が、
初めて自分から誰かに触れた瞬間だった。
それから二人は、白鴉島の灯台で、
静かな日々を共に歩んだ。
リゼットはもう
絵を描くことはなかったが、毎晩、
灯台の窓辺で彼が灯りを点す姿を、
変わらず見つめ続けた。
時には、左手だけで
簡単なスケッチを試みることもあったが、
彼女はそれを苦にする様子もなく、
むしろ楽しんでいるようだった。
「今夜も、綺麗な光ね」
「……ああ。
世界で一番強い光だ、これは」
彼は誇らしげに、そう呟いた。
「エイダン、覚えている?
私が最初にここへ来た夜のこと」
「忘れるわけがないだろう。
お前を浜辺で見つけたときのことは、
この目に焼き付いている」
「あの夜、
あなたが私を離さなかったから、
今の私たちがあるのね」
「これからも、離すつもりはない」
彼は彼女の左手を、
そっと自分の手で包んだ。
ある晩、彼はふと日誌を取り出し、
リゼットに見せた。
数えきれないページに渡って、
天候の記録に混じり、
彼女との日々が丁寧に書き綴られていた。
「エイダン、これ、全部……」
「お前が眠っている間に、
少しずつ書き足していたものだ。
恥ずかしい話だがな」
「恥ずかしくなんてないわ。
これ、
私が今までに見た、一番綺麗な絵よ」
「絵じゃない、ただの日誌だ」
「文字で描かれた絵よ。
あなたにしか描けない、
私たちの光の記録」
彼女はそう言うと、
左手で不器用に一行だけ、
日誌の余白に書き加えた。
『十月十九日追記
——世界で一番強い光を見つけた』
彼はその一文を、何度も指でなぞった。
翌年の春、
島には新しい灯台守見習いが
配属されることになり、
彼の仕事は少しだけ楽になった。
それでも彼は、点灯の作業だけは
決して他人に任せようとしなかった。
「その光だけは、俺が点す。
それが、俺とリゼットの約束だからな」
見習いの若者は、
その頑固さに苦笑いを浮かべながらも、
彼の背中に、どこか揺るぎない
誇りのようなものを見出していた。
季節が巡り、年月が過ぎても、
白鴉島の灯台の光は、変わらず
規則正しく暗い海を照らし続けた。
だがその光には、かつての
無機質な冷たさはもうどこにもなかった。
一度、
命がけで守り抜いた誓いの温もりが、
光の一つ一つの明滅に宿っているのだと、
島を訪れる誰もがそう語り継いだという。
その光は、嵐の夜に一度だけ
命がけで灯された誓いの証として、
二人が生きる限り、
絶海の孤島を照らし続けたという。
万華鏡の欠片は、そこで静かに、
深い群青の輝きを収めた。
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