【 絶海の灯台守 】 第2話
女が目を覚ましたのは、
翌朝のことだった。
「あ……あなたが、助けてくれたの?」
「ああ。船は残念だったが、
命が助かっただけましだ」
「……ありがとう、本当に。
私、リゼットっていうの」
「エイダンだ。
この灯台の管理人をしている」
リゼットは絵描きだった。
北の島々を巡りながら、
荒々しい自然を絵に描いて
生計を立てているのだと言った。
彼女のトランクの中身は、
ほとんどが画材と絵の具で、
着替えは
わずかしか入っていなかったという。
「それで、
こんな嵐の夜に船を出したのか。
無茶をする」
「ごめんなさい。でも、
あの雲の形がどうしても見たくて。……
あなたには、わからないでしょうけど」
「わからないな。
俺は、
必要のない危険を冒す人間の
気が知れない」
彼は素っ気なく答えたが、
リゼットはくすりと笑った。
「あなたみたいな人が灯台守なのって、
なんだか納得できる。
規則正しくて、危険を冒さない光」
「悪いか」
「ううん、羨ましいくらい。
……でも、少しだけ退屈そうね」
その一言が、彼の胸にちくりと刺さった。
誰にも指摘されたことのない痛みだった。
船の修理には時間がかかり、
リゼットは島に留まることになった。
彼女は日中、崖の上でスケッチをし、
夕方になると灯台に戻ってきては、
彼が灯りを点す様子を
じっと見つめていた。
「毎日同じ時間に、同じ手順で。
飽きないの?」
「飽きるとか、そういう問題じゃない。
一つの光が、
何十隻もの船の命を預かっているんだ。
感情で揺らいでいいものじゃない」
「……それ、恰好いいと思う。柄にもなく」
彼は思わず彼女を見た。
からかわれているのかと思ったが、
リゼットの瞳は真剣だった。
「私の絵も、本当はそう。
一瞬を切り取るために、
何時間でも同じ場所で待ち続ける。
傍から見たら退屈でしょうけど」
「……そうか。似ているのかもな」
初めて、彼は自分の生活を
誰かと分かち合えた気がした。
「明日も、灯りを点すところを見ていい?」
「……好きにしろ」
素っ気なく答えながらも、彼はその夜、
いつもより少しだけ丁寧に
レンズを磨いていた。
自分でもなぜそうしているのか、
うまく説明できなかった。
数日が経つと、リゼットは
灯台守の仕事を手伝うようになった。
石油の残量を確かめたり、
レンズについた煤を拭き取ったりと、
簡単な作業を任せると、
彼女は驚くほど丁寧にこなした。
「絵を描くのと似ているわ。
細部を大事にしないと、
全体が崩れてしまうから」
「お前、意外と職人気質だな」
「意外と、は余計よ」
軽口を叩き合うことが増えるにつれ、
彼の中で何かが少しずつ溶けていくのを、
彼自身が一番戸惑いながら感じていた。
ある晩、二人で夕食を共にしていると、
リゼットがふと真顔になった。
「エイダン、
あなたはどうしてこの島に来たの?
こんな辺鄙な場所に、たった一人で」
「……昔、大きな船の航海士をしていた。
だが、
俺の判断ミスで、仲間を一人失った」
「……」
「それからだ。誰の命も、
俺の感情で左右させたくないと
思うようになったのは」
彼は自分でも驚くほど素直に、
過去を打ち明けていた。
誰にも語ったことのない話だった。
「そう……だから、規則正しい光を、
誰よりも大切にしているのね」
「感傷的な理由じゃない。ただの贖罪だ」
「贖罪でも、優しさでも、
私にはどちらも同じに見えるけど」
彼は何も言い返せなかった。
彼女の言葉が、彼の凍りついた心の奥に、
静かに触れていくのを感じていたからだ。
その夜、彼はいつものように
点灯の作業に向かおうとしたが、
階段の途中でふと足を止めた。
振り返ると、リゼットが窓辺に腰掛け、
スケッチブックを膝に置いたまま、
彼を見つめていた。
「どうした、まだ寝ないのか?」
「あなたが光を点すところを、
もう一度ちゃんと見ておきたくて」
「毎晩見ているだろう」
「毎晩違うのよ。
風の強さで炎の揺れ方が違うし、
雲の厚さで光の届き方も違う。
……同じ光なんて、一度もないの」
彼はその言葉に、思わず立ち止まった。
八年間、彼は自分の仕事を
「変わらないもの」だと思い込んでいた。
だが彼女の目には、
毎晩違う顔を見せる生き物のように
映っているらしかった。
「変な奴だな、お前は」
「よく言われるわ」
彼はふっと口元を緩めると、
レンズの前に立ち、
慣れた手つきで芯に火を灯した。
橙色の光が徐々に強まり、
やがて規則正しい回転とともに、
暗い海原へと放たれていく。
「……綺麗」
リゼットが小さく呟いた声を、
彼は背中で聞いていた。
振り返らなくても、
彼女がどんな顔をしているか、
なぜか分かるような気がした。
「明日も見ていていいか、と聞いたな」
「ええ」
「いつまでいたって構わない。
……別に、お前のためじゃない。
ただ、光を見てくれる人間がいるのは、
悪くないというだけだ」
素っ気ない言い方だったが、
リゼットは静かに微笑んだ。
「その言い方、
素直じゃないところも含めて、
あなたらしいわね」
彼は答えず、
ただ黙々とレンズを磨き続けた。
だがその横顔には、
これまでの八年間には決してなかった、
かすかな柔らかさが宿り始めていた。
本日 19:10 に投稿します。




