第3話:流星の雨、永遠の静寂
新月の夜、丘の上の空気は、
刺すような冷気を含んでいた。
雲ひとつない漆黒の天空には、
まるで濡れた黒布に
ダイヤモンドの粉を
撒き散らしたかのような星々が
瞬いていた。
絶好の観測日和だった。
しかし、
エリオットの胸を占めていたのは、
天文学者としての歓喜ではなく、
胸を締め付けるような焦燥感だった。
テラスに置いた長椅子の上で、
厚い毛布に包まれたエレノアが
静かに息を吐いていた。
その頬は月光を受けて青白く透き通り、
今にも夜の暗闇へ
溶けていってしまいそうだった。
彼女の手は氷のように冷たく、
エリオットが
どれほど強く握りしめても、
熱が伝わっていく気配はなかった。
「……もうすぐだ、エレノア。来るぞ」
エリオットが
祈るように呟いた、その時だった。
夜空の果て、ペルセウス座の領域から、
ひときわ眩い青白い光の線が走った。
それを
合図にするかのように、天空が裂けた。
一筋、また一筋。
幾百、幾千の流星が、
大気圏に飛び込んでは自らを焼き尽くし、
圧巻の光の尾を引いて流れていく。
夜空全体が、
まるで光の涙を流しているかのような、
壮絶で美しい光景だった。
「すごいな……見なさい、エレノア」
エリオットは隣を振り返った。
だが、
エレノアは流星群を見ていなかった。
彼女はただ、
じっとエリオットの顔を見つめていた。
その漆黒の瞳には、
目の前で光を散らす無数の流星と、
そして——青ざめた顔で
彼女を見つめるエリオットの姿が、
鮮明に映り込んでいた。
彼女は震える手で
膝の上のスケッチブックを開くと、
最後の力を振り絞るように、
鉛筆を走らせ始めた。
カサカサと羊皮紙を擦る小さな音だけが、
流星の降る夜に響く。
やがて鉛筆の手が止まり、
スケッチブックが
彼女の手から滑り落ちそうになった。
エリオットは慌ててそれを受け止め、
そして彼女の表情を見た。
エレノアは、満足そうに、
どこか誇らしげに微笑んでいた。
「エレノア……?」
その微笑みのまま、
彼女はゆっくりと瞳を閉じた。
握りしめていた指先から、
すっと力が抜けていく。
彼女の小さな胸の上下が止まり、
浅い呼吸の音が、
夜の冷気に溶けて消えた。
「エレノア……?
返事をしてくれ、エレノア……!」
エリオットの声が夜空に虚しく響く。
幾千の星が
頭上で輝かしく燃え尽きていく中で、
彼にとっての「絶対の星」が、今、
完全にその光を失ったのだ。
彼は彼女の冷たくなった体を抱きしめ、
流星の雨が降り注ぐテラスで、
声を殺して泣き続けた。
悲しみで視界が歪む中、
彼は膝元に落ちたスケッチブックを
拾い上げた。
最後のページには、弱々しくも、
力強い筆跡でこう記されていた。
『私の世界は、
あなたという星を中心に回っていました。
短い時間を、ありがとう』
——そして、時は流れた。
五十年後。
「おい見ろよ、
またあの老いぼれが望遠鏡を覗いてるぜ」
「アカデミーを追放された
頭の狂った天文学者だろ?
哀れなもんだな」
丘の下の街からは、
そんな噂話が聞こえてくる。
二十四歳だった青年は、いまや
白髪に覆われた「老学者」となっていた。
あの日から五十年間、エリオットは
一度もこの天文台を離れず、毎夜毎夜、
望遠鏡に向かい続けていた。
最新の技術で作られたレンズを買い足し、
星々の配置を計算し直し、空を捜索した。
だが、
どんなに高性能な望遠鏡を使っても、
あの日、
彼女の瞳の中に見た
あの美しく残酷な宇宙を見つけることは、
二度とできなかったのだ。
世界は彼を
「星に魅せられ、
現現実を捨てた孤独な男」と呼んだ。
(……違っているよ、不勉強な者たちめ)
老いたエリオットは、寂しげに、
しかし愛おしそうに目を細め、
胸ポケットにしまわれた
古びたスケッチブックをそっと撫でた。
彼の中に残っているのは、
孤独などではない。
あの日、一瞬で燃え尽きたからこそ、
永遠に色あせることのない
たった一つの光。
五十年経った今も、彼の胸の奥では、
あの夜の流星群が
降り続けているのだから。
「……そろそろだな、エレノア」
老学者が夜空を見上げたその瞬間、
世界の破滅を告げる「血の空」が、
ゆっくりと広がり始めていた。
本日 19:10 に投稿します。




