第2話:錆びついたレンズの向こう側
丘の上の古い天文台には、いつも
潮風と古書の匂いが満ちていた。
エリオットが
その場所に足を踏み入れたのは、
二十四の夏だった。
当時の彼は、
王立アカデミーの歴史上で
最も若くして
「解読不能」の烙印を押された
異端の天文学者であり、同時に、
人間関係のすべてを捨て去った
孤独な男だった。
彼にとって、世界は
数式と星の軌道だけで完結していた。
不確かな感情や、
気まぐれな言葉を交わす人間など、
彼の緻密な計算を乱す
ノイズでしかなかったのだ。
だが、
その完璧だったはずの数学的な世界に、
ひとりの少女が迷い込んでくる。
「……今日から図書室の整理を担当する、
エレノアです」
そう書かれた紙を差出し、
深く頭を下げた少女には、声がなかった。
漆黒の髪に、華奢な首筋。
彼女はいつも
小さなスケッチブックを抱え、
文字や拙い絵でしか
意思を伝えることができなかった。
最初、エリオットは
あからさまに彼女を無視した。
図書室の窓辺で羊皮紙をめくる羽音すら、
自分の集中を妨げるものとして忌み嫌った。
しかし、
エレノアは風のように静かだった。
彼女はエリオットの領域を侵すことなく、
ただ没頭する彼の背中を、
遠くから静かに見守っていた。
変化が訪れたのは、
八月のある静寂な夜だった。
ドーム状の観測室で、エリオットは
巨大な屈折望遠鏡に向かっていた。
数十万光年の彼方に浮かぶ、
アンドロメダの渦巻銀河。
その淡い光の束を
羊皮紙に書き留めていたとき、
背後で小さな足音がした。
振り返ると、ドアの隙間から
エレノアが覗き込んでいた。
その瞳は、暗闇の中で
見たこともないほど大きく見開かれていた。
エリオットは溜息をつき、
無言で彼女に手招きをした。
追い払うことすら
面倒だったのかもしれず、
あるいは
単なる気まぐれだったのかもしれない。
彼は接眼レンズの位置を合わせ、
彼女に譲った。
エレノアがレンズに目を近づけた、
次の瞬間だった。
「……あ」
言葉にはならない、
可憐な吐息が夜の冷気に弾けた。
接眼レンズ越しに広がる無数の星の輝き。
その光の束が、
そのまま彼女の瞳の中に吸い込まれ、
乱反射していた。
瞳を潤ませ、感動に震える手で
小さく胸を打つ彼女の姿を、
エリオットは息をのんで見つめていた。
(美しい……)
それは、数十万光年の彼方にある
銀河のことではなかった。
宇宙の真理を追っていたはずの青年が、
たった一人の人間の瞳の中に存在する
「小宇宙」に、
完全に心を奪われた瞬間だった。
その夜を境に、
二人の静寂な世界は塗り替えられた。
言葉を持たないエレノアと、
言葉を捨てていたエリオット。
ふたりは会話を必要としなかった。
夜の天文台で肩を並べ、
彼女は夜空をスケッチブックに描き、
彼は彼女の横顔を視界の隅に
捉えながら星の軌道を計算した。
指先がほんの少し触れ合うだけで、
胸の奥が灼けるように熱くなった。
エリオットにとって、エレノアは
暗闇を照らす
唯一の絶対等級の星となっていたのだ。
しかし、
夜空の流星がそうであるように、
あまりに眩い光ほど、去り行く時は早い。
秋の木枯らしが丘を吹き抜ける頃、
エレノアの肌は日に日に透明感を増し、
小さな手は小さく震えるようになった。
彼女の体を蝕んでいた病魔は、
冷酷なまでにその刻限を迫っていた。
「大丈夫だ。次の新月の夜、
ペルセウス座の流星群が来る。
一緒に数えよう」
エリオットが紙にそう書いて手渡すと、
エレノアはどこか切ない微笑みを浮かべ、
彼の手に自分の冷たい手を重ねた。
それが、彼女の残された時間の短さを
物語っていることに、
エリオットは気づかないふりをした。
ただ、星の計算だけが
正しいと信じたかったのだ。
明朝 7:10 に投稿します。




