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第1話

筒をくるりと回せば、

一番奥で冷たく、けれど澄み切った

蒼い光を放つガラス片がひとつ。


……聞き届けていただきましょう。

我が内に眠る最初の男、

王立天文台の老学者が語る、

あまりに儚く、哀しく、

それゆえに美しき恋の記憶を。


彼がまだ

「老学者」と呼ばれる前のことだ。


19世紀の終わり、

英国の古い港町を見下ろす丘の上に、

その王立天文台はひっそりと佇んでいた。


当時の彼は24歳。


人生のすべてを夜空の数学に捧げていた。


星々の軌道、光度の変化、視差の計算。


数式で満たされた彼の世界には、

悲しみも歓喜も、恋などという

不確かな感情が入る余地など

あろうはずがなかった。


人間というあやふやな存在よりも、

規則正しく巡る天体のほうが、

遥かに美しく

誠実であると信じて疑わなかったのだ。


あの夏、

天文台の図書室の整理係として

彼女がやってくるまでは。


名はエレノアといった。


細い首筋に、

夜のしじまを溶かし込んだような

漆黒の髪。


彼女は

生まれつき声を出すことができなかった。


言葉の代わりに、

彼女はいつも

小さなスケッチブックを持ち歩き、

そこに鉛筆で詩のような簡潔な言葉や、

日々の風景を描き留めていた。


最初の頃、彼は彼女を避けていた。


彼の聖域である図書室に

他人がいることが煩わしかったからだ。


しかし、

彼女は彼の邪魔を一度もしなかった。


ただ静かに古びた星図のホコリを払い、

窓辺で羊皮紙のページをめくっていた。


ある8月の夜、彼が

巨大な屈折望遠鏡でアンドロメダ銀河の

スケッチをとっていたときのことだ。


ふと気配を感じて振り返ると、

ドアの隙間からエレノアが

息をのんでこちらを見つめていた。


ドームの開口部から差し込む月光が、

彼女の顔を淡く照らしていた。


彼は黙って、彼女を

望遠鏡の接眼レンズの前に招き寄せた。


彼女がレンズを覗き込んだ瞬間のことを、

彼は死ぬまで忘れないだろう。


「……あ」とも声にならない吐息が、

夜の冷気に白く弾けた。


接眼レンズの向こうに広がる

数十万光年の彼方の渦巻銀河。


その無数の星の輝きが、

彼女の瞳の中に

そっくりそのまま投影されていた。


瞳を潤ませ、震える手で

胸を打つ彼女の姿を見たとき、

彼の胸の中で何かが崩れ去った。


宇宙の真理を追う彼という存在が、

たった一人の人間の瞳の中に

閉じ込められた宇宙に、

完全に魅了されてしまったのだ。


あの日から、彼らの無声の恋が始まった。


会話は必要なかった。


夜の天文台で、彼らは並んで星を見た。


彼女はスケッチブックに星々を描き、

彼は彼女の横顔を盗み見ながら、

心の計算ノートに

彼女の存在を刻み込んだ。


言葉を交わさずとも、

指先が触れ合うだけで、

彼らは銀河の果てまで

理解し合えている気がしていた。


彼女は彼にとって、

暗闇を照らす唯一の絶対等級の星だった。


だが、儚いものほど美しいというのは、

天文学の残酷な真理でもある。


秋が深まり、丘の上に冷たい木枯らしが

吹き荒れるようになった頃、

エレノアは咳き込むことが多くなった。


彼女の身体は、

まるでガラス細工のように脆(もろ)く、

病魔に侵されていたのだ。


白かった頬は日に日に青ざめ、

スケッチブックを握る手は

小さく震えていた。


「大丈夫だ、次の新月の夜には、

君が見たがっていた

ペルセウス座流星群が来る。

一緒に数えよう」


彼が紙にそう書いて渡すと、

彼女は悲しげに微笑み、

彼の手に自分の小さな手を重ねた。


それが、彼女の答えだった。


新月の夜。


彼は寒さから守るために

彼女を重い毛布で包み、

天文台のテラスへ連れ出した。


夜空は、

恐ろしいほどに澄み渡っていた。


漆黒のキャンバスを裂くように、

一筋、また一筋と、青白い光の尾が

流れ始めた。


幾千の星の欠片が、

大気圏に飛び込んで自らを焼き尽くし、

最後の一瞬だけ

圧倒的な輝きを放って消えていく。


「見なさい、エレノア。綺麗だね」


彼が横を向いたとき、

彼女は夜空を見ていなかった。


彼女は、じっと彼の顔を見つめていた。


その瞳には、彼の姿と、背景を流れる

幾十の流星が映り込んでいた。


彼女は

震える手でスケッチブックを開き、

膝の上で膝を台にして、

最後の力を振り絞るように

鉛筆を走らせた。


そして、

それを彼に手渡し、そっと目を閉じた。


彼の腕の中で、彼女の呼吸が静かに、

息を引き取るように止まった。


流星の雨が降り注ぐ下で、

彼女はただ眠るように

永遠の静寂へと旅立ってしまったのだ。


残されたスケッチブックのページには、

拙(つたな)い文字でこう書かれていた。


『私の世界は、

あなたという星を中心に回っていました。

短い時間を、ありがとう』


……それから五十年が過ぎた。


彼は髪も白くなり、

老学者と呼ばれるようになった。


今でも毎夜、

この天文台で望遠鏡を覗いている。


しかし、

どれほど性能の良い望遠鏡を使っても、

あの夜、彼女の瞳の中に見た

美しい宇宙を見つけることはできない。


人は彼を

「星に生涯を捧げた孤独な男」と呼ぶ。


だが、それは違うのだ。


彼は孤独などではない。


彼の胸の奥、観測不能な特異点には、

今もあの夜の流星群が降り続けている。


一瞬で燃え尽きたからこそ、

永遠に色あせることのない、

たった一つの星。


エレノアという名の光を抱いて、

彼は今日も夜空を見上げているのだから。

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