第四十五話 私の想い
今回の目的地であるノルドグラムは、グランベル王国の北部に位置する街である。
この街の大きな特徴の一つが、蚕の養殖だった。
良質な蚕から作られる上等な絹は、王国内でも高い評価を受けている。
その絹から作られる「ノルドシルク」は、王国を代表する高級品の一つ。
貴族たちの間でも非常に人気が高く、
「奥方や子供の機嫌を取りたいのなら、ノルドシルクを贈ればいい」
などと言われるほどの名品として知られていた。
そんなノルドシルクを扱う商人の一人が、マーガレットだった。
彼女自身も、この地で作られたノルドシルクのドレスを好んで身に着けている。
上質な絹が生み出す滑らかな光沢。
そのドレスを着こなすマーガレットの姿は、北部の商人らしい気品に満ちていた。
整った美貌。
優雅な立ち振る舞い。
そして、花が綻ぶような柔らかな笑顔。
街を歩けば、自然と彼女へ視線を向ける者も少なくない。
商談の場では、その美しさと気品が人の記憶に残り。
社交の場では、その姿に憧れる者もいた。
――その一方で。
あまりにも目を引く女性であるがゆえに、好意だけではなく、嫉妬の視線を向けられることもあった。
けれど、マーガレット本人はそんな周囲の視線を気にする様子もない。
彼女にとってノルドシルクは、ただ自分を美しく見せるための衣服ではない。
故郷が誇る産業。
そして、自分が受け継いだ商売そのものだった。
だからこそ彼女は今日も、ノルドシルクを身にまとって故郷の街を歩いている。
その高級な身の上に見劣りしない立ち振る舞い。
そして、誰から見ても優雅と呼べる気品。
ノルドシルクを身にまとったマーガレットの姿は、
まさに歩く広告塔だった。
彼女が街を歩けば、人々の視線が自然と集まる。
「素敵なドレスね」
「あれがノルドシルクなのかしら」
そんな声が、いつしか街のあちこちから聞こえるようになった。
けれど、彼女の魅力は美貌や衣装だけではなかった。
穏やかで、優しく、誰に対しても丁寧に接する。
最初はその美しさに嫉妬していた女性たちでさえ、彼女と話をすれば、その人柄に惹かれてしまう。
気がつけば、嫉妬はいつの間にか憧れへと変わっていた。
そして、いつしか彼女はこう呼ばれるようになる。
――ノルドシルクを最も美しく着こなす女性。
ノルドグラムを代表する美人の一人。
商人としても、女性としても。
マーガレットは、いつしかこの街を語るうえで欠かせない存在となっていた。
ノルドグラムの顔。
それが、マーガレットという女性だった。
マーガレットは、若くして夫を亡くしている。
けれど、彼女の姿に悲壮さを感じる者はほとんどいなかった。
もちろん、夫を失った悲しみがなかったわけではない。
それでも彼女は、残された娘――デイジーとともに、前を向いて歩いていた。
母娘で並んで歩くその姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
ノルドシルクを身にまとった美しい母親。
その隣で、ひまわりのような笑顔を浮かべる娘。
そんな二人の姿を、ノルドグラムの人々は皆、温かく見守っていた。
「マーガレットさん、今日も素敵ね」
「デイジーちゃん、大きくなったわね」
街の人々から向けられる声に、マーガレットはいつも笑顔で応える。
決して、その称賛に驕ることはない。
「ありがとうございます」
いつもそう言って、ありがたく受け取る。
自分が恵まれていること。
多くの人に支えてもらっていること。
そのことを、彼女は決して忘れなかった。
だからこそ、街の人々も彼女を好いていた。
美しいからではない。
商売が上手だからでもない。
人の優しさを受け取ることができ、自分もまた人に優しくできる。
そんなマーガレットの人柄を、ノルドグラムの人々は知っていた。
彼女を妬む者も、彼女を嫌う者も、いつしかいなくなっていた。
マーガレットは誰とも不和を作らず、誰もが自然と彼女を応援したくなるような関係を築いていた。
そしてその隣には、いつも娘のデイジーがいる。
ノルドグラムの人々にとって二人は――
この街が誇る、美しい親子だった。
彼女は、その人柄をもって商人としても大成していった。
夫から受け継いだ商売を守り、さらに発展させていく。
そんな彼女の姿に惹かれ、近づいてくる男性も少なくなかった。
「僕があなたを幸せにしてあげます」
「もう一人で頑張らなくてもいいんですよ」
「僕がいれば、あなたもデイジーちゃんも安心して暮らせます」
そんな言葉を、マーガレットは何度も聞いた。
もう、聞き飽きるほどに。
もちろん、悪意があったわけではない。
彼らなりに彼女を想い、彼女を支えようとしてくれていたのだろう。
けれど――。
「……違うのです」
マーガレットは、一人になった夜に静かに呟く。
「私が聞きたかったのは、そんな言葉ではありませんでした」
私は一人でも歩ける。
デイジーと二人で、生きていくこともできる。
誰かに幸せにしてもらわなければ、生きていけないわけではない。
だから、欲しかったのは――
「幸せにしてあげる」ではなく。
「あなたと一緒にいると、僕は幸せです」
そんな言葉だった。
自分を救ってくれる誰かではない。
自分の人生を誰かに預けることでもない。
ただ、隣にいて。
同じ景色を見て。
嬉しいときには一緒に笑って。
辛いときには、何も言わず隣にいてくれる。
そんな人がいたらいい。
そんなふうに、マーガレットは思っていた。
そして――
そんな人には、まだ出会えていなかった。
あるとき、私はデイジーを連れて、王都へ出かけました。
商談のために訪れた街でした。
商談を済ませ、待たせていたはずのデイジーのところへ戻ろうとした――そのときでした。
「……デイジー?」
そこに、娘の姿がありませんでした。
最初は、少し離れたところで遊んでいるのだろうと思いました。
けれど、どこを探しても見つからない。
「デイジー?」
「デイジー、どこにいるの?」
何度も名前を呼びました。
胸の奥が、どんどん冷たくなっていくのを感じました。
大事な一人娘です。
私にとって、何よりも大切な宝物です。
「デイジー……!」
私は必死になって探しました。
けれど、なかなか見つかりません。
もう一度、名前を呼ぼうとした、そのときでした。
「お母さん!」
聞き慣れた声が聞こえました。
振り返ると――そこに、デイジーがいました。
一人ではありません。
一人の男性と手を繋いで、こちらへ歩いてきます。
「お母さん!」
デイジーは嬉しそうに私のもとへ駆け寄ってきました。
私はすぐにデイジーを抱きしめました。
「デイジー……!」
無事だった。
そのことに胸を撫で下ろしました。
けれど――。
私は、デイジーの顔を見て、少し不思議に思ったのです。
迷子になった子供の顔ではありませんでした。
もちろん、私を見つけた安心感はあったのでしょう。
それでも、私が想像していたほど怯えてはいなかった。
むしろ――。
その男性の手を握っていたときのデイジーは、
とても安心した顔をしていたのです。
まるで、
「この人と一緒なら大丈夫」
そう思っているかのように。
私は、その男性を見ました。
穏やかな表情をした、優しい人でした。
けれど、特別に威厳があるわけでもありません。
強そうなわけでもありません。
ましてや、何か特別なことをしているようにも見えませんでした。
ただ、デイジーの手を握って。
デイジーの歩く速さに合わせて。
一緒に歩いてきただけ。
それなのに――。
私は、そこに不思議な安心感を感じました。
この人は、きっとデイジーにとって安心できる人なのだ。
そんなことが、娘の表情を見ただけで伝わってきたのです。
あのとき、私は初めて思いました。
人を安心させるものは、強さでも、お金でも、立派な肩書きでもないのかもしれない。
ただ、その人と一緒にいるだけで、
「大丈夫」
と思える何か。
その男性は、そんなものを持っている人なのだと。
そして私は――。
その人の名前を知りました。
アルフォンス。
それが、私とデイジーを再び繋いでくれた人の名前でした。
アルフォンスさんは
この街で活動している冒険者の方で、貴重なお休みの時間を使って、デイジーのために一緒にいてくださったそうです。
感謝してもしきれませんでした。
「何か、お礼を……」
私はそう言いました。
けれど、アルフォンスさんは困ったように笑うだけでした。
「いえ、好きでやったことなんで。
お礼なんて大丈夫ですよ」
本当に、何も受け取ろうとしないのです。
私は、どんなお礼なら受け取ってもらえるのだろうと考えました。
そこで、ふと思ったのです。
この方は、今まで出会ってきた男性とは少し違うのではないか、と。
私は自分で言うのも恥ずかしいのですが
昔から、容姿を褒められることが多かった。
商人として人前に立つことも多く、ノルドシルクを身にまとっていることもあって、男性から声をかけられることも珍しくありません。
けれど――。
男性と話しているとき、私の顔ではなく、
その下へ視線を向ける方も少なくありませんでした。
褒められることには慣れていました。
美しい。
綺麗だ。
素敵だ。
そんな言葉も、何度も聞いてきました。
けれど、それが本当に私自身を見ている言葉なのか。
そう思うことも、ありました。
でも、アルフォンスさんは違いました。
私と話すとき、まっすぐ私の目を見るのです。
まるで、私が安心できるように。
そして、こう言ってくれました。
「デイジーちゃんみたいな美人さんだから、
すぐに分かりましたよ」
――何年ぶりのことでしょう。
私は、その言葉に驚いてしまいました。
綺麗だと言われたことが、嬉しかったのではありません。
この人は、本当に私を見ている。
そう感じたことが、嬉しかったのです。
だから私は、この出会いを逃したくないと思いました。
「それなら……お食事をご一緒しませんか?」
「え?」
「助けていただいたお礼を受け取っていただけないのでしたら、せめて友達としてもてなさせてください」
アルフォンスさんは少し考えてから、
「それなら……」
と、穏やかに笑いました。
不思議な人でした。
初めて会ったばかりなのに、なぜか自然と話せてしまう。
気がつけば私は、自分のことをいろいろと話していました。
故郷のこと。
商売のこと。
デイジーのこと。
そして、夫を亡くしてから今日までのこと。
今まで、誰かにここまで自分のことを話したことがあったでしょうか。
そんな私の話を聞いて、アルフォンスさんは静かに頷いていました。
そして、私のこれまでを聞いたあと――。
こんなことを言ってくださったのです。
「とても頑張ったんですね。お二人で」
「…………」
その言葉に、私は何も言えなくなりました。
今までにも、言われたことがあります。
「よく頑張りましたね」
「一人で大変だったでしょう」
「あなたは本当に頑張ってきたんですね」
たくさんの人が、私の努力を認めてくれました。
それは、とても嬉しいことでした。
けれど――。
「デイジーも頑張っている」と言ってくれた人は、今まで一人もいませんでした。
そう。
私は、一人で頑張ってきたわけではなかったのです。
私はデイジーと二人で生きてきた。
私が頑張れたのは、デイジーがいたから。
そしてデイジーもまた、私のために頑張って生きてくれていた。
あの子が笑ってくれるから。
あの子が元気でいてくれるから。
あの子が私を必要としてくれるから。
私は今日まで歩いてこられた。
だから私は、ずっとそう思っていたのです。
私たちは――二人で頑張ってきたのだと。
それを。
初めて会ったばかりのこの人は、見抜いてしまった。
私自身でさえ、言葉にすることなく胸の奥にしまっていたものを。
「……そうなんです」
気がつけば、私はそう呟いていました。
「私たちは……二人で、頑張ってきたんです」
アルフォンスさんは、ただ静かに微笑んでいました。
それ以上、何かを言うことはありませんでした。
でも、その笑顔を見たとき。
私は思ったのです。
――この人との出会いを、大切にしたい。
この人は、私だけではなく。
私の大切な娘まで、ちゃんと見てくれる人なのだと。
それから、アルフォンスさんのお友達やパーティーの方々と一緒に、デイジーが遊んでくれるようになりました。
私もその仲間の方々とお話しする機会が増えていきました。
そこで、改めて気づいたことがあります。
アルフォンスさんのそばには、とても素敵な若い女性がいらっしゃいました。
皆さんと話している姿を見ていると、とてもお似合いだと思いました。
だから私は、そういうものなのだと思っていたのです。
あの人には、あの人たちとの時間がある。
私はデイジーと一緒に、遠くから見守っていればいい。
……そう思っていたはずでした。
それなのに。
いつからでしょう。
私も、この人のそばにいる一人になりたい。
そんなことを思うようになってしまったのです。
この人は、私にも優しい。
デイジーにも優しい。
そして、離れてしまった私たち親子を、もう一度繋いでくれた人。
私たちを導いてくれた、導きの人。
こんな人を、逃したくない。
そう思ってしまったのです。
……卑しいことなのかもしれません。
私はもう、若い娘ではありません。
ましてや、あの人は私の年の半分ほどしかない。
それなのに。
私は、そんなことを考えてしまうほどに。
この人に惹かれてしまったのです。
だから、アルフォンスさん。
私は、皆さんのように一緒に旅をして、
ずっとあなたのそばにいることはできません。
きっとこれからも、商いのために故郷へ戻らなければなりませんし、デイジーと二人で暮らしていかなければなりません。
それでも。
あなたの心に残る人になれるように、
私は精一杯努力しますから。
たまには……私のことも構ってくださいね。
……あまり放っておかれると、私だって年甲斐もなく、すねちゃいますよ?
デイジーが言った「家族になりたい」という言葉。
きっと、子供が言ったことだからと、
アルフォンスさんは本気には受け取らないのでしょうね。
でも……私は違います。
私も、その言葉は本気のつもりです。
デイジーだけではありません。
ですから――。
どうか、覚悟しておいてくださいね。
アルフォンスさん。
これからも、娘ともどもよろしくお願いしますね。
いつか――。
私たちの家族になってほしい、あなた。
ここまで読んでいただきありがとございます。
今回はマーガレットの視点から、これまで描かれていなかった彼女の思いを書いてみました。
アルフォンスがマーガレットにとって、なぜ特別な人になったのか。
自分自身だけではなく、デイジーのことまで一人の人間として見てくれたこと。
そして、二人で頑張ってきたことを初めて言葉にしてくれたこと。
そんな積み重ねが、少しずつマーガレットの心を動かしていったのだと思います。
そして最後には、デイジーと同じ「家族になりたい」という願いを、マーガレット自身も抱くようになりました。
アルフォンスは、これからどんな答えを返すのでしょうか。
次回からはいよいよ、ノルドグラムへの旅が始まります。
旅人の皆様、次の物語でお会いしましょう。




