外伝その2 まだ蕾の僕は
オルフェウスは今悩んでいる。
父上にはああ言われたが
「自分は何を武器にすればいいんだろう」
そんな答えの出ない問いを抱えている。
そして一人になりたくなった時には、
母リラの植えたライラックの庭園へ行く。
そこで一人、竪琴を弾く。
誰かに聴かせるためではない。
ただ、自分の心を整理するため。
最近は父上の付き人として、
夜会に参加して、話を聞いたりしていると
気になる会話があり、口を挟んだところ
「何も知らない子供が口を出すな」
そう言われてしまった。
自分は正しいことを言ったつもりだ。
でも納得はされなかった。
何か対応を間違えてしまったのだろうか?
花壇の中には一つだけ小さな蕾が
花々の中で所在なさげに揺れている
まるで大人の世界に入り込めない異物のようだ。
そう悩みを深めていた。
そんな時後ろからチェルシーが声をかけてきた。
「オルフェウス様、ご存じですか?」
チェルシーは、庭園の一角に咲くライラックを指差した。
「今ここでご覧になっているこの花は、
ずっと花を咲かせなかったんです」
「……そうなのか?」
「はい。何年も、ずっと」
「でも……今年は」
「ええ」
チェルシーは嬉しそうに花を見つめる。
「今までで一番、綺麗な花を咲かせています」
オルフェウスは黙って、その花を見つめた。
「……不思議だな」
「そうですね」
「だから、私は思うんです」
チェルシーは静かに微笑んだ。
「今一つだけは蕾のまま残っていますがーー」
「将来、誰もが驚く花を咲かせるはずです。」
「今はまだ蕾のままだからこそ……」
「これから花開く可能性に、満ちているのだと思います」
オルフェウスは、しばらく何も言わなかった。
ただ、ライラックを見つめていた。
「……チェル」
「はい」
「君は、僕のことを言っているのか?」
「……さあ、どうでしょう?」
少しだけ悪戯っぽく笑う。
「花のお話ですよ」
「僕に……何かできるだろうか?」
オルフェウスが、
ライラックの花を見つめたまま呟いた。
「オルフェウス様なら、何にでもなれます」
「何にでも……?」
「はい」
チェルシーは穏やかに微笑む。
「今、ソリッド様にお付きになられていて、
お気づきになったことはありませんか?」
「……気づいたこと?」
「はい」
「大人たちの話を聞いていて、
何か思うことはありませんでしたか?」
オルフェウスは少し考える。
「……でも」
「子供の僕が言っても、取り合ってもらえなかったよ」
「でしたら――」
チェルシーは少しだけ身を屈め、
オルフェウスと目線を合わせた。
「この街の、小さなことでも何かありませんか?」
「小さなこと……」
「大きなことを変える必要はありません」
「まずは、目の前にあるものからでいいんです」
オルフェウスは腕を組み、しばらく考える。
「…………」
「……そういえば」
ふと、何かを思い出したように顔を上げる。
「広場の近くの空き家に、少し気になることがある」
「まあ」
「大人たちは誰も気にしてなかったけど……」
「それは、どんなことでしょう?」
オルフェウスは話し始める。
まだ幼い少年の、拙い言葉で。
けれど、その目には先ほどまでとは違う光があった。
「それをソリッド様に相談してみましょう」
「……父上に?」
「はい」
「でも、子供の僕が言っても取り合ってもらえないよ」
チェルシーは、ふっと微笑んだ。
「でしたら――」
「大人には、大人をぶつければいいんです」
「……?」
「オルフェウス様がお気づきになったことを、
まずソリッド様にお話しするんです」
「ソリッド様なら、きっと耳を傾けてくださいます」
「そして必要なら、
ソリッド様から然るべき方にお話しいただけばいい」
「……僕が直接、大人たちを説得しなくてもいいのか」
「ええ」
「誰か一人ですべてを背負う必要なんてありませんもの」
オルフェウスは、少し驚いたようにチェルシーを見る。
「……それも、やり方なのか」
「はい」
「人を頼ることも、立派な力ですよ」
そう言って、チェルシーはライラックへ目を向けた。
「それに――」
「オルフェウス様が見つけた小さなことを、
大人の方が拾い上げてくださるなら」
「それはきっと、
オルフェウス様が最初に咲かせた小さな花です」
「……花、か」
オルフェウスはライラックを見つめる。
そして少しだけ笑った。
「……父上に話してみる」
「父上、少し相談したいことがあります。」
「どうした?」
オルフェウスは、
チェルシーに教えてもらったことを一つずつ話した。
広場の空き家で見かけた小さな違和感。
大人たちが気に留めていなかったこと。
それが何か問題に繋がっているのではないか、
という自分なりの考え。
ソリッドは黙って聞いていた。
「……そんなことがあったのか?」
「うん」
「分かった。調べてもらうから、ちょっと待て」
「……いいの?」
「何が?」
「僕の言ったことを……調べてくれるの?」
ソリッドは少し不思議そうな顔をする。
「お前が気づいたんだろう?」
「だったら、確かめる価値はある」
「……うん」
それから数日後。
ソリッドがオルフェウスを呼び止めた。
「オルフェウス」
「はい」
「お前の言うとおりだった」
「……え?」
「調べてみたら、
確かにお前が気にしていたとおり
不法入居者が問題になっていた」
オルフェウスは目を丸くする。
「よく見つけたな」
「……僕が?」
「ああ」
ソリッドは息子の頭に手を置く。
「すぐに動いてもらう」
「……うん」
オルフェウスは嬉しそうに笑った。
その日の帰り。
ライラックの庭園で、
いつものように一人で竪琴を弾く。
けれど――
その日の音色は、いつもより少しだけ軽かった。
数日後。
ソリッドは、オルフェウスを呼んだ。
「オルフェウス」
「はい」
「これからも、俺のそばにいてみないか?」
「……僕が?」
「ああ」
「今回の件、お前の目は役に立った」
「だから正式に、俺の付き人として
社交の場にも連れていく」
オルフェウスは驚いた。
「社交会って……大人ばかりの?」
「そうだ」
「僕に分かるかな……」
ソリッドは少し笑った。
「分からなくてもいい」
「見て、聞いて、覚えろ」
「それだけでも十分だ」
「……はい!」
その夜、オルフェウスは一人で考えていた。
自分はまだ、何も知らない。
大人たちが話していることも。
この街で起きていることも。
人と人との繋がりも。
けれど――
知らないなら、知ればいい。
勉強だってそうだった。
分からないことがあれば、本を開く。
誰かに尋ねる。
自分で調べる。
知らないことを知るには、自分から動かなければならない。
ならば、人のことも同じなのではないだろうか。
話を聞く。
見る。
調べる。
実際に確かめる。
そうすれば、今まで見えなかったものが見えてくるかもしれない。
「まずは……知ることからだ」
オルフェウスは小さく呟いた。
まだ自分が何者になるのかは分からない。
けれど、分からないからこそ――
自分から知りに行こう。
オルフェウスは、ふと弟分のことを思い出した。
アルフォンスは、
分からないことがあると素直に尋ねる。
「これはどういう意味?」
「どうしてそうなるの?」
「教えてほしい」
いつもそうだった。
分からないことを、分からないままにしない。
そして誰かが教えてくれれば、
「ありがとう」
と嬉しそうに笑う。
「……そうか」
オルフェウスは小さく笑った。
アルフォンスを見習おう。
彼は、分からないことを分からないと
素直に聞いているじゃないか。
なら、僕も同じことをすればいい。
ただ――
僕が聞く相手は、大人たちだ。
「僕はまだ子供だから、分からないんです」
そう言えばいい。
知らないことを尋ねればいい。
教えてもらったら、覚えればいい。
そして次に会った時には、
「この前教えてもらったことなんですが」
と続きを尋ねればいい。
そうすれば、また話をしてもらえる。
「……なんだ。難しく考える必要なんてなかったんだ」
オルフェウスは笑った。
アルフォンスが自然にやっていることを、
自分もやればいいだけだった。
ただし、自分は大人相手に。
それが、オルフェウスが身につけていく最初の処世術だった。
それからオルフェウスは、
社交の場で少しずつやり方を変えていった。
この前に反論をした方への謝罪をする。
分からないことがあれば、素直に尋ねる。
ただし、最初から核心を聞くことはしない。
「この前は、よく知りもせず口を挟んで、
申し訳ございませんでした」
「それって、どういう意味なんですか?」
「僕はまだ子供なので、よく分からなくて……」
そう言えば、大人たちは案外丁寧に教えてくれる。
そして、もう一つ。
相手の話を遮らない。
相手が話している間は、黙って聞く。
時々、
「へえ……」
「そうなんですか」
「それで、どうなったんですか?」
と相槌を打つ。
話したそうにしている人には、
急かさず最後まで話してもらう。
すると不思議なことに――
大人たちは、オルフェウスのところへ来ると
よく話してくれるようになった。
「いやぁ、実はですね……」
「これは内緒なんですが……」
「そういえば、先日の件で……」
オルフェウスはただ、興味深そうに耳を傾ける。
分からないことは尋ねる。
分かることでも、知っている顔をしない。
相手が気持ちよく話せるようにする。
そして――覚える。
「……なるほど」
少しずつ、世界のことが見えてきた。
まだ十歳の少年には、大人たちの話すことすべてを理解することはできない。
それでも。
知らないことを、知ることはできる。
それだけで十分だった。
オルフェウスは今日も、静かに大人たちの話へ耳を傾けていた。
そんなことを繰り返しているうちに、
少しずつ変化が起き始めた。
「オルフェウス様」
「はい?」
「先ほどのお話に興味がおありでしたら、
今度当家の屋敷にもいらしてみませんか?」
「僕が行ってもいいんですか?」
「もちろんです」
また別の日には、
「オルフェウス様、以前お話しした件ですが……」
「はい」
「もしよろしければ、実際に見てみませんか?」
「……ぜひ」
そんな誘いが、少しずつ増えていった。
オルフェウスは最初、不思議に思っていた。
自分から尋ねなければ、
誰も教えてくれないと思っていた。
けれど、そうではなかった。
人は、自分の話に興味を持ってくれる相手に、
もっと話したくなる。
そして――
「これもオルフェウス様なら
興味があるかもしれませんね」
「この話も、きっとお好きでしょう」
「今度、面白いものをお見せしますよ」
気がつけば、大人たちの方から
声をかけてくれるようになっていた。
オルフェウスは嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます」
そしてまた、一つ知る。
一つ覚える。
一つ考える。
そうやって少年の世界は、少しずつ広がっていった。
かつては「何も知らない子供」だった。
けれど今では――
「あの子に話してみよう」
そう思ってもらえる少年になり始めていた。
オルフェウスは、あることに気づき始めていた。
どれだけ話を聞いても、
人は、すぐに本当のことを話してくれるわけではない。
表面的な話なら教えてくれる。
けれど――
本当に大切なことは、信頼している人にしか話さない。
「……そういうことか」
ならば、もっとその人のことを知らなければならない。
話を聞く。
一緒に時間を過ごす。
興味を持つ。
約束を守る。
少しずつ仲良くなる。
そうすれば、
いつか向こうから話してくれるかもしれない。
「核心を知りたいなら、まず信頼してもらうこと……」
オルフェウスは、また一つ学んだ。
そして――
「僕はまだ子供なんだから、時間はある」
社交会が終わったあとも、本を読む。
分からないことがあれば調べる。
大人たちの話を聞く。
時間があれば、人と話す。
そうして少しずつ、自分の世界を広げていく。
ふと、弟分の姿を思い出す。
アルフォンスも、空いた時間があれば料理をしたり、
掃除をしたり、家族のために何かをしている。
「アルも頑張っているんだ」
「だったら僕も――」
今の僕にできることをしよう。
まだ子供だからこそ使える時間を、大切にしよう。
いつか大人になった時。
今まで積み重ねてきたものが、
自分の力になっているように。
オルフェウスは、ライラックの庭を見つめていた。
風が、静かに吹き抜ける。
枝先の蕾が、風に揺れていた。
まだ、花は咲いていない。
けれど――
「僕はまだ、蕾だから」
オルフェウスは、静かに呟いた。
「咲いていないんじゃない」
「今は、咲くための準備をしているんだ」
本を読む。
人の話を聞く。
知らないことを知る。
いろんな人と出会う。
そして、いつか自分の力で誰かを守り、
誰かの役に立てるようになる。
そのための時間なのだ。
焦る必要はない。
今はまだ、小さな蕾でいい。
風に揺られながら、少しずつ。
少しずつ、自分の花を咲かせる準備をすればいい。
オルフェウスは、もう一度ライラックを見た。
その時――
一陣の風が、庭を吹き抜けた。
小さな蕾が、風に揺れる。
まるで、まだ見ぬ未来へ向かっているように。
少年は微笑んだ。
今回は、10歳のオルフェウスのお話でした。
まだ自分の「武器」が何なのか分からず、大人たちの世界に足を踏み入れながらも、自分に何ができるのか悩んでいる時期です。
そんな彼に、チェルシーが教えてくれたのが「蕾」という考え方でした。
まだ咲いていないからといって、何もないわけではない。
今は知識を蓄え、人の話を聞き、いろいろな経験をするための準備期間。
そしてオルフェウスは、弟分のアルフォンスからも大切なことを学びます。
「分からないことは、分からないと聞けばいい」
アルフォンスが自然にやっていることを、自分は大人たち相手にやってみる。
そこから少しずつ、人の話を聞くこと、相手を知ること、信頼してもらうことを覚えていきます。
今回の小さな出来事が、後のオルフェウスの生き方に繋がっていくことになります。
ただ、この時の彼はまだ「自分が何者になるのか」を知りません。
まだ蕾です。
だからこそ、最後にライラックの蕾が風に揺れる場面を置きました。
いつか花開くその日まで。
今はただ、風に揺られながら少しずつ育っていく。
そんな少年時代の一ページです。
旅人さん、
それでは、また次のお話で。




