7話 予算が消えた? あり得ません!
殿下と名前で呼び合うようになってから――いや、“緑のサロン”創設の初期費用が決定してから、1週間が経った今日。
「ナナ様、本日は“雇用契約”に最適な日和ですね」
「ええ、久々の晴天です」
たくさんの模造紙を抱え、私たちはいつもの畑へと向かっていた。
先週は母妹の訪問があったものの、今は足取りが軽い。
殿下も心なしか、いつもより柔らかい表情で畑を眺めていた。
「希少種野菜が広く出荷されるようになってから、財源が潤いましたね」
「ええ。それもこれも、国政事業省の皆さまが手配してくださった支援金のおかげですわ」
いよいよ始まったサロンの建設現場が、ここからでも見渡せる。
シローヌがこっそり手配してくれた魔導式建設で、あっという間に骨組みが完成していた。
建物のすぐ横で、誰かが酒盛りしているみたいだけれど――今は構っていられない。
「本日は領民の志願者をサロンへ登用して、今後少しずつ彼らに運営を任せる方向で……」
紙の束を抱える手に、力を入れた――その時。
王宮からの早馬が、畑の畦道を駆けてきた。
紋章入りの首かけの代わりに、書簡入りの筒を提げている。
「極秘の用でしょうか?」
疲れた様子の馬を撫で、書簡を受け取ると。
「これは……」
あり得ないことが書かれていた。
私たちが用意した“緑のサロン”のための財源が、王宮内の別名目に組み替えられたと。
「組み替えられた……とは?」
こんなの、信じられない。
でも――確かに書かれている。
「『第一王子とルナティ嬢の、婚礼式典費用に』……」
「……はい?」
これだけでも、訳がわからないというのに。
シローヌからの報告は、それだけではなかった。
「『世間では“緑のサロン”創設計画が、第一王子と“豊穣の女神”の婚姻に伴う慈善事業として噂されている』……」
「……っ!」
いったい、どういうことなのか。
視界が青く歪んでいく。
「……すみません、ちょっと」
私の手から書簡を抜き取った殿下は、無言で紙面を見つめた後――震えるため息を吐いた。
「どうしてこんなことに……?」
あまりに理不尽ではないか。
殿下の声が、遠く聞こえる。
(やっとここまで来られたのに……!)
気づけば、足が走り出していた。
「アリウム、どこへ……!?」
確かめなければ。
先ほど、建設現場で酒盛りをする貴族たちの姿が見えた。
私たちが芽を育てた計画を、いったい誰が奪おうとしているのか――。
木材の飛び交う建設現場へ、こっそり踏み込むと。
「あの方たちは……」
領民が汗水垂らして働く横にガーデンテーブルを置き、ワインを飲んでいる貴族たち――そのほとんどが、見覚えのある顔だった。
「……アリウム、ご存知なのですか?」
「ナナ様……はい」
背後から囁く殿下に、そっと話した。
彼らは、妹を担ぎ上げている地元貴族――“計画を邪魔するかもしれない警戒リスト”に入れていた連中だと。
「……私、こっそり話を聞いてきます」
「は……危険です!」
でも、確かめなければならない。
彼らがどうやって“緑のサロン”の実権を奪ったのか。
きっと妹の仕業でも、第一王子でもない。
殿下を陥れた彼らが、また邪魔をしようとしているのだ。
「……許せない」
引き止めようとする殿下を押し切り、知り合いの男爵家のハウスメイドにエプロンを借りた。
「アリウム様、いけません! あたしが主人に叱られますぅ!」
「ごめんなさい……ちょっとだけ」
髪型を変え、化粧を泥で少し崩した。
これで給仕に向かうフリをすれば――。
「ほほほ! いやぁ愉快」
さっそく、隣領の男爵が尻尾を出した。
私に聞かれているとも知らないで――ラグナム領の献上した資金は、婚礼式典費に回されたと。
「実姉が献上したのだからね、『妹のために姉が捻出してくれた』と、ルナティ様は思い込んでいらっしゃる」
酔いの回った隣領子爵の言葉に、拳が震えた。
「あの子、また……」
だめだ。
今はまだ、耐えなければ――。
「ですが、勝手によろしかったのですか? 本当はサロンの建設費だったそうですが……」
私が黙っていないのでは、と、少しは勘の良い者もいる。
でも――男爵はただ、肥えた身体を揺らしながら笑っていた。
「なに、大した魔法も使えない行き遅れ娘ですよ。第二王子と何やら企んでいるという噂ですが……負け犬同士で何ができるのです!」
一斉に高笑いをはじめた連中に、拳を強く握った。
今すぐに手元のワインをお見舞いしたいところだが――息を荒げれば、バレるかもしれない。
「……っ」
宴会の中心になっている中年男性は、エプロンを貸してくれたメイドの仕える、地元の男爵家当主だった。
かつては我が家を担ぎ上げていたのに。
父が亡くなり、領地の経営が傾いた時、彼は何もしてくれなかった。
そして、妹の魔法が特別だと判明したら――妹を王家に嫁がせるための話を持ってきた男だ。
(でも、どうして知っているの……?)
第二王子と私が組んでいることを知っているのは――。
晩餐会に呼んだ、国政事業省の上層部5名。
それから、先週訪ねてきた母とルナティ。
「……あ」
ふと、気になった言葉が浮かんできた。
『あの方に知らせないと……』
母が屋敷を去る前の、あのセリフ。
(まさか……母がこの男に?)
考えたくはないが、あり得なくもない。
ワイン瓶を持つ手の震えを、必死に抑えていると。
傾きかけた日の向こうから、鳥――ではなく、浮遊魔法のかかった夕刊が宴会場に飛んできた。
「『“緑のサロン”は、第一王子とルナティ嬢が国民を想う事業』……ほほほっ! すぐに発表されましたな」
「……っ!?」
まさか。
噂に留まっていた話が、正式発表されたというのか――。
「そんなの嘘だ!」と、叫びたくて仕方ない。
でも――まだ、必要なことをすべて聞けてないかもしれない。
荒くなる息を必死に抑え、連中の背後に足を留めていると。
「なに、こちらは……『ルナティ嬢の姉アリウム嬢、妹の元婚約者・第二王子を略奪か』……社交界の阿呆ども、こちらの噂も信じたようですな!」
男爵の読み上げに、ついに――足が動き出していた。
もうだめだ。
ここにいたら、抑えられない。
「これで殿下が婚約破棄を言い渡した理由が、ルナティ嬢のせいではなくなりましたなぁ」
姉との痴情のもつれとして処理された。
嬉々として乾杯する男爵たちの声が、まだ後ろから聞こえてくる。
「……」
早くここを去らなければ。
もはや怒りを通り越して、身体の芯が冷えていった。
「……まただ」
また、私は悪者にされる。
妹の物語の“悪役”として、報われない思いを繰り返すだけ。
しかも今回は最悪だ。
私だけでなく、殿下まで――。
「あっ、アリウム様やっと――」
「……ありがとう」
エプロンをメイドに返し、早足で建設現場を抜け出した。
後を追ってくる殿下にも構わず。
いま彼の顔を見たら、きっと私は――泣いてしまう。
情けない顔を見せないように、畦道を走り出した。
「……っ、はぁ、はぁ……」
巨大な太陽が、地平線の向こうへ沈んでいく横で。
“どこかここではない場所”を目指して、ひたすら足を駆る。
思えばすべて、私のやったことは妹のところへ向かっていくのだ。
そして私に残るのは――冷たい視線か、無関心。
「痛っ……」
転んでも、泥に塗れたドレスの裾を持ち上げ、再び走り出そうとしていると。
「アリウム!」
ひとりでどこかへ行きたかったのに――。
殿下の呼び声に、目の奥が熱くなった。
それでも、こんな顔は見せられない。
「くそっ、思ったより速いな……待って!」
地の利がある私がどこまで逃げても、殿下は諦めずに追いかけてくる。
そのうち、完全に辺りが暗くなった頃。
「……っ!」
片足が突然、針に刺されたように冷たくなった。
身体が、冷たい水の中に沈んでいく。
「危ない……!」
いったい何が起こったのか――理解するより早く、身体が宙に浮いていた。
「あ……」
星明かりを映した瞳が、視界いっぱいに広がった直後。
ようやく気づいた。
殿下が私を抱えてくれているのだと。
「私……」
周りを見ずに走って、湖に落ちそうになったのか――殿下は真冬の水に浸かったまま、動かない。
唇を結んだまま、ただ私を見つめていた。
「……っ、殿下、私……」
暗い水底のような瞳が、静かで、優しくて。
気づけば、視界が歪んでいた。
「……」
無言の殿下を見つめたまま、私は――いつぶりか分からない涙を、彼の頬に落としていた。
自分のものとは思えない声が、凪いだ湖面に響いている。
いつの間にか、陸へ引き上げられたことも気づかないまま、しばらく彼の腕に縋っていた。
「すみませんでした。色々と、見苦しいものをお見せして……」
みっともない鼻声で、「家に戻りましょう」と言っても。
殿下は瞬きもせずに私を見つめたまま、腕を緩めようとしなかった。
「殿下……」
やがて、私の吃逆が落ち着いた頃。
彼は泥だらけのドレスに手をかざし、心地良い熱で服を乾かしてくれた。
まだ、帰るつもりはないのだろうか。
岸辺の砂利を踏みしめたまま、彼は一歩も動かない。
身体をしっかりと包んでくれている腕のおかげで、暖かいけれど――。
「ここは星明かりが美しいですね」
「え……?」
どうして今、そんなことを言うのか。
ふと顔を上げると。
燃えるような星々を仰ぎ、殿下は白い息を吐き出した。
「貴女はきっと、何度もこうして空を見上げてきたのでしょう。泣く代わりに、ひとりで耐えるために」
でも、もういい――。
そう言って、殿下は腕の力を強めた。
「その……アリウムさんが安心して泣ける場所のひとつに、俺がなれたらいいなと」
「……泣ける場所?」
「あの日、誰も私の話を聞かなかった……けれど貴女だけは、私が悪なのか確かめようとしてくれた」
それだけで救われていた――。
殿下の言葉が、すっと胸の奥に入り込んでくる。
「……ですから、実のところ貴女が傘を差し伸べてくれたあの瞬間から、私は……」
口ごもる殿下に、思わず笑いが込み上げてきた。
(この人、慰め慣れてないんだな……)
時々、不意打ちで甘い言動を仕掛けてくるけれど。
やはり根っこは不器用なのだろう。
「もうなっています」
「……はい?」
「ナナ様が私の居場所に」
そう言って、後ろから身体を包んでくれる腕を、ぎゅっと抱きしめると。
「……っ」
背中越しに、彼の鼓動が跳ねあがった。
顔に出ないけれど――殿下も私に触れるたび、緊張しているのだろうか。
でも、それはお互い様だ。
「帰りましょう……私たちのボロ屋敷へ」
離れないように、彼の手を掴んだまま立ち上がると。
「……はい」
殿下は少し目を潤ませながら、ゆっくり私に続いた。
熱い指を絡めたまま――星明かりの畦道を帰っていく間。
私の鼓動まで、繋いだ手から伝わらないかと心配していると。
「……ところで」
「はい?」
「貴女を泣かせたのは……どの領のどの爵位のどの領主ですか?」
いつも薄い影を帯びている殿下が、さらに黒いオーラを纏っていた。
「……えっ、ええと、秘密です」
この様子では、領地没収どころか国外追放しかねない。
さすがにそこまでされては困る――と、口をつぐんでいたところ。
「せめて何が分かったのかだけでも教えていただけませんか?」
ついに来てしまった質問に、心臓が嫌な音を立てた。
殿下の気分を害するどころか、傷つけてしまうかもしれないような、酷い話ばかりが飛び交っていた――あの噂のことを、話すべきだろうか。
地面に視線を落とし、言葉を探していると。
「その……共犯者でしょう?」
「……!」
見上げた先の瞳には、覚悟が灯っていた。
そうか。
私が思っていたよりもずっと、この人は――。
「聞くに堪えない話ばかりです。それでもよろしいのですね?」
「当然。共に背負います」
握った手の力が、少し強くなった。
その手を精一杯の力で握り返し――深く息を吸った。
「実は……」
翌朝。
朝食を庭に用意して、寝室へ向かうと――殿下の姿がなかった。
「……あら?」
たしか、彼がこの屋敷へ来たばかりの頃にもこんなことがあった。
あの時は、屋根の修理をしてくれていたのだけれど。
「まさか……」
嫌な予感が胸によぎる。
“緑のサロン”創設計画が、ルナティたちの功績にすり替わっていること。
そして、口にもしたくなかった、もう一方の噂――私と王子の略奪愛について。
正直に、すべてを話したのがいけなかったのだろうか。
「でも、どうしてっ……」
泣きそうな時、居場所になってくれると言ったではないか。
“共犯者”と呼んでくれたではないか。
きれいに畳まれているシーツに、思わず手が伸びた。
胸に抱くと、彼に包まれていた昨夜のことを思い出す。
結局、あの後きっちり部屋に送られてしまったが――。
「ナナラピスっ……」
「呼びました?」
声のない悲鳴を上げ、振り返ると――。
入り口には、珍しく微笑んだ殿下が立っていた。
「少し早く起きて、納屋へ暖房をかけに行ったのですが……温室を維持しなければいけないでしょう?」
「あ……」
お礼を告げたくても、声が出ない。
とりあえず、証拠隠滅だ――何事もなかったかのように、シーツから手を離した。
「いつからそこに……?」
「……『まさか』、と、おっしゃった頃から?」
稀に見える笑顔で返してきた殿下に、さっと背を向けた。
(それ、ほぼ最初からでは……!?)
顔が発火しそうなほど熱い。
頬を手で覆ったまま、いつまでも後ろを振り向けないでいると。
「その……アリウムは私のこと、思ったより……」
「わぁっ! そうだ! 火に鍋をかけっぱなしでしたわ!」
もう我慢できない。
ドアの前の殿下を押しのける勢いで、部屋を飛び出した。
「まずい……まずい……絶対バレた……」
何を、とは、自分でも口にしたくないけれど――。
厨房で火をかけているなんて、嘘だ。
ただ、今はじっとしていられない。
「はぁぁぁ……」
何度も家の階段を昇ったり下りたりしていると。
「アリウムさまぁ~! どういうことですだか~?」
「……っ!」
あの声は――クレソン夫人だ。
他にも、領民たちの叫ぶ声が聞こえてくる。
「もしかして……」
あの夕刊のせいで、ウチにいるのが第二王子だと、領民たちにバレたのだろうか。
私が妹から略奪したと、領民たちの間でも噂になっているのでは――。
ドクン、ドクンと、心臓の音が頭の中まで響くようになった――その時。
「緑のサロンを作ってくれたのは、アリウム様とナナ様だろ!」
「……え?」
ちゃんと耳を澄ましてみると。
外から聞こえてくる声の数々は、私への糾弾ではない。
事実とは違う噂を非難する、領民たちの怒りの声だった。




