6話 お呼びでない訪問者、嵐の夜に。
『自分ばかりが意識していて、恥ずかしい』
昨晩の言葉で、まんまと眠れなかった私は――夕食後の殿下と、そのまま食堂で話すことにした。
ここだと広すぎて、魔導式ランプを灯しておくのが勿体ないけれど。
この際構うものか。
「さぁ、本日の作戦会議を始めましょう」
「……承知しました」
殿下に変な気を遣わせてしまったのは、私が「あり得ない」と思っていたせいだ。
断罪返しをくらった婚約者の姉。まして彼を利用しようとする女に、そんな気を起こすことはないと――。
「ええと。まずは“国政事業省”から送られてきた、サロン創設の初期費用の確認から」
「……はい」
突然、会議の場を寝室から食堂へ移した私に対して、殿下は何も聞かずに平然としている。
(これが普通……だったのか)
もしかしたら、私は楽しくなっていたのかもしれない。
ずっとひとりだった家に、誰かがいること。
夜に誰かと語らえることが――。
それにしても、初期費用が思ったより多い。
「あなたの信頼する方々は、十分すぎるほど働いてくださっていますね」
「……いえ。彼らもアリウム嬢の言葉とご馳走に、心動かされたのでしょう」
彼らも――。
いけない。また、殿下の言葉ひとつに心を乱されている。
王宮からの書簡を伏せ、真剣な表情の殿下に向き直った。
「計画が動き出せば、それを利用しようとする者も必ず現れるはずですわ」
特に、妹を担ぎ上げながら、第二王子の失脚を狙っていた者たちが。
「それは……! どこのどなたか、貴女には見当がつくのですか?」
「……ええ」
おかしいと思ったのだ。
ラグナム領の周辺諸侯は、最初は妹に第二王子との縁談を持ちかけていた。
それなのに裏では、第一王子の当時の婚約者の家を貶めていた。
「最初から、妹を第一王子に近づけるつもりだったのかもしれません」
「……確かに、そう考えざるを得ない話ですね」
「ですが、それはもう過ぎたこと。今は彼に“緑のサロン”計画の目的を悟られないようにしなければ」
妹の“特別な力”だけで担ぎ上げようとしている、浅ましい仲介貴族。
その名をリストに連ねようと、提案したのだが――殿下は、窓の外をじっと見つめていた。
「嵐が来そうです」
「え……?」
確かに、先ほどから風が窓を叩いているとは思ったけれど。
「この辺りの冬の嵐は、とても強力なのです……お屋敷、壊れてしまわないかしら」
いや、それよりも。
サロン計画の財源の一部になる予定だった、珍しい植物たちが心配だ。
あれが無くなってしまったら、大規模な温室の設置が遅れてしまう。
「せめて、ウチにあるのだけでも」
「アリウムさん、どこへ……」
話している時間はない。
いつもより重い勝手口の扉を押し開け、雨風の吹き荒れる夜の闇へ飛び込んでいった。
「アリウム、危険です! 戻ってください」
「殿下は中でお待ちを……!」
このままだと、冬でも育ちやすいように改良した秋野菜の苗が、みんな飛んでいってしまう。
いくつも庭に並ぶプランターを、納屋へ運ぼうとしていると――。
「あっ……」
急にプランターが軽くなったかと思えば。
ずぶ濡れになった殿下が、私の手から籠を奪い取っていた。
「私がやる! 貴女は中へ!」
「いま成長魔法を止めたら、この子たちが枯れてしまいます……!」
激しい風の中、負けじと声を張ると。
「……っ、急ぎましょう!」
彼は鋭い視線を私から逸らし、一緒にプランターを納屋へ運んでくれた。
実際のところ、殿下がほとんど先に運び入れてくれたのだが――結局、屋敷の裏口に戻った頃には、ふたり揃って服を絞る羽目になった。
「風の音は弱くなってきましたが、雨がまだ強いで……っ、クシュン!」
つい、大きなくしゃみをしてしまうと。
殿下は呆れたように肩を落とし、「貴女という人は」と呟いた。
「すみません……」
私の風邪はすぐに治るが、ふたりで品種改良した作物は、そう簡単には手に入らない。
ため息が止まらない殿下に、つい言い訳をすると。
「このままでは風邪をひいてしまいますね……温めましょう」
もしや、あの便利な熱魔法で服を乾かしてくれるのか――と思った、次の瞬間。
温かいものが背中に触れた。
「……っ、あの、殿下?」
雨の匂いに混ざる甘い香りに包まれて、身体が硬直した。
後ろから抱きしめられたらしい。
なんて、他人事のように思っていなければ、心臓が破裂しそうだ。
でも、肩の裏に感じる鼓動――私よりも激しく脈打っている気がする。
(男の人、なんだな……)
全身を包んでくれる身体が、温かくてほっとする。
背中から伝わる熱を、静かに感じていると――。
「……小さい」
頭の上に、呟きが降ってきた。
「……っ」
なんだか、このまま触れていてはまずい気がする。
ふたり揃って風邪をひいてしまうとか、そんなことではなく――全身が熱くて溶けてしまいそうだ。
「あっ、あの……」
抱き寄せてくる腕を軽く叩いてみたが、少しも腕が緩まない。
「せめて、タオルを取ってきませんか?」
「……まだ寒い?」
「いえ、その……」
熱すぎるくらいだ、とは言えなかった。
温められる卵の気持ちを想像していないと、身体の震えが伝わりそうだ。
ただ、分からなかった。
どうして彼がこんなことをするのか。
「殿下、あの……」
彼はたぶん、私を女性として見てくれている。
昨晩の言葉で、ようやく察した。
でも、やっぱり分からない。
私は彼を利用しようとした。
いや、今もしている。
彼がすべて失った機会に、このボロ屋敷へ連れ帰って――彼の力を借り、妹の「かわいそう物語」を終わらせようとしている。
「……アリウム、なんですか」
もはや、当たり前のように呼び捨てられている。
偽の恋人、共犯者、負け同士。
私たちを現す言葉に、甘いものなんてひとつもないのに。
ただ。
彼が私をどう思っているのか――怖いけれど、知りたい。
「あの、殿下は……」
震える唇で問いかけようとした、瞬間。
風が扉を打つ音――いや、誰かが扉を叩くような音がした。
「えっ……」
こんな嵐の中、ボロ屋敷を訪ねてくる者がいるはずはない。
でも――鳴り止まない音に、殿下と顔を見合わせた。
「……私が見てきましょう」
「いえ、そんなわけには……!」
この屋敷の主人は私だ。
でも、念のため殿下にもついてきてもらいながら、扉を開けると――。
「久しぶりね、アリウム」
「あ……」
私と同じ銀髪、「よく似ている」と言われた顔立ち――雨傘を差して立っていたのは、母だった。
その母と腕を組んでいるのは、日の輪のような笑みを浮かべた妹。
「お邪魔いたします……は、自分の家に対しておかしいですわね、お姉様」
「……ルナティ」
母と妹。
私が一番会いたくない人たち。
ふたりのよく似た笑顔を見ていると、殿下が触れていた部分の熱が冷めていく。
「……」
殿下は一瞬だけこちらを見たあと、何も言わずに奥の部屋へ下がった。
今ここで顔を合わせれば、厄介なことになると思ったのだろう。
「あら? 今の方って……」
「……新しいお手伝いさんよ。それより、こんな天気の時にどうしたの?」
さすがに追い返すわけにはいかない。
もはや倉庫と化した応接間や談話室に招くわけにもいかず、今一番整っている食堂へ案内した。
それにしても、どういう風の吹き回しか――妹が家を出てからずっと、母は実家にこもりきりだった。
ここを訪ねてくることなど、数年の間に一度もなかったのに。
「アリウム、まだこんなところにいたのね。もういい加減に住み替えれば良いのに」
「お母様……」
父が亡くなった時、泣くより先に家のことを考えていた私を、「冷たい娘」と罵ったくせに。
家がこんな状態になれば、今度はそんなことを言うなんて――実の母とはいえ、やはり許せない。
でも、今は喧嘩をしている場合ではない。
テーブルに出しっぱなしだった封筒を、さり気なく羊皮紙で隠し、「結局何の用なのか」と尋ねたところ。
「誰よりも大切なお姉様に、許可をいただきに参りましたの」
ルナティは柔らかい笑顔を浮かべたまま、一枚の書類をこちらへ差し出した。
「これは……!」
記されていたのは――第一王子とルナティの、婚礼に関する旨だった。
「ご安心ください、お姉様! ナナラピス様のことは残念でしたが、まだラグナム家再興を果たす機会は消えておりません」
強い意志を宿しているように見える、妹の瞳。
私と同じ灯色のそれから、目が離せない。
どんな人でも惹きつけてしまう、彼女の瞳と言葉が――やはり、正しくて仕方のないものに感じてしまう。
でも。
「ラグナム家の、再興……?」
私はもう騙されない。
いくら正しさを掲げたって、中身の伴わない言葉なんかに――。
「まさかあなた……“家のため”を思って、王子に嫁ごうと思っていたの?」
「それ以外に何があるのですか? 私が国の母となれば、お姉様もこんな生活からは解放されるのです!」
「……っ」
まるで私が、仕方なく実家に残っているかのような言い方だった。
「……でも、どうしてナナラピス様にあんなことをしたの?」
この妹のことだ。
「私のため」、あるいは「母のため」という言葉に嘘はないのだろう。
ただ、目的が王家に嫁いで家を再興することなら、どちらの王子に嫁いでも良いはずだ。
なぜ、ナナラピス第二王子を徹底して落としたのか――震える唇で、問いかけると。
「だって、あの人の方が先に私を貶めようとしたのですよ?」
「……は」
殿下が婚約者であるはずの妹の粗探しを徹底して行い、陥れようとしている――そう、彼女を担ぎ上げる貴族たちから聞いたという。
「そんな……」
一生に一度かもしれない、ラグナム家再興の機。
それを逃すくらいならば、自分に刃を向ける相手を切り捨てる方がマシだった。
大仕事をやり遂げたかのような妹の表情に、頭が真っ白になった。
「でも、そのせいで殿下は……」
「第二よりも、第一王子の方が強い魔法をもっているもの。ルナティはやっぱり賢い子ね」
妹を撫でる母、そして、元婚約者を「冷たい人」として処理した妹。
笑顔で談笑するふたりに、もはや言葉が浮かばない。
あんなにも誠実で、ただ不器用な人を苦しめておいて、なぜそのような態度でいられるのか――。
「喜んでくださらないのですか? ぜんぶ、お姉様のためなのに」
「……え?」
妹の真剣な顔つきに、ゾッとした。
悪意も打算もない。
ただ本当に、家族と自分のことを考えた結果がこれだった。そう信じさせようとする目に、喉が塞がれる。
(もう、見たくない……)
指先の震えを感じながら、ふたりから顔を背けようとした――その時。
「まぁ……どうしてあなたがここに!?」
慌てて立ち上がった妹の前には、先ほどまで私を温めてくれていた彼――殿下が立ちはだかっていた。
まさか、彼がここにいるとは思わなかったのだろう。
母も口を開けたまま固まっている。
「貴女の世界に、これ以上アリウムさんを巻き込まないでください」
言いたいことが山ほどあるだろうに。
殿下は冷静に、それでも強く言い放った。
それでも――さすがは“この国の女神”だ。
「……はい?」
何を意味わからないこと言っているのか、と言いたげに、ルナティは首を傾げている。
それでも殿下は、妹のあの目から逃げなかった。
どんなものでも正しくしてしまいそうな瞳を、鋭く見つめている。
「お母上が、彼女がこの家を守ってきたことを誇りに思われないなら……私が誇ります」
「あ……」
震える肩に、王子の手が触れた。
それだけで、冷えていた胸に、少しずつ熱が戻っていく。
誰も誇ってなどくれなかった。
肉親は、私が好きでここに留まっているのだとしか言わなかった。
それなのに、殿下だけは――。
「ルナティさんが兄と縁を結ぼうと、私は決して貴女を祝福しません」
必死に涙を堪える間にも、殿下と妹は向き合っていた。
それでも、彼女の瞳は光を失わない。
むしろ、透明な涙で満たされていった。
「お母様、私怖いわ……この方、大事な式の日に、私を“悪者”にしようとしたのにっ……」
それだけでは飽き足らず、今もこうして姉の前で悪者に仕立て上げようとしている――殿下を指差し、母の影に隠れるルナティを目の当たりにした、瞬間。
ふつっと――頭の中で、何かが切れた音がした。
「……お帰りください」
「え? お姉様、いまなんて……」
「帰りなさいと言ったのです!」
言葉より先に、身体が扉の前まで向かっていた。
「婚約でも何でもご勝手に。『もう遅い』と彼に申し上げたこと……後悔させてみせますわ!」
無責任な言葉への怒りではない。
私、それに殿下の苦しみを何ひとつ知らない彼女に対して、喉が焼けるような痛みが込み上げていた。
「後悔って……何をなさるおつもりなのですか?」
まったく、この子は――殿下に対しては、毅然とした態度で向き合っていたくせに。
私が関わると、本当に私が何かするのを恐れているかのように、目を潤ませるのだ。
そして――。
「あなたは気性が激しいのだから、大人しいこの子をいじめないでちょうだい!」
また、いつもの流れだ。
こうして私は悪役にされる。
でも――。
「アリウム……」
小指に、小さな熱が触れる。
(今は私、ひとりじゃない……!)
「本日のところはお引き取りください、ラグナム夫人」
「まぁ! ここは私たちの家だというのに」
「王子様といえど図々しい」と、こぼす母。
子どもの頃から変わらない、彼女の態度に叫び出したくなる。
でも――指に触れる熱が、「今は落ち着いて」と言っている。
「ここの主人は私です……早く出て行って」
もう優しさなど、ひとかけらもいらない。
ただ切実に、そう伝えると。
「……お姉様らしくないわ」
本気で私を心配するような言葉を残し、妹は食堂から出ていった。
「許せないっ……あの方に知らせないと……」
胸に棘の残るような言葉を残し、母も妹に続いた。
そうして、玄関の扉が閉まる音が響いた直後。
「はぁ……」
殿下の袖を掴んだまま、床に崩れ落ちてしまった。
「……お疲れ様でした、アリウム」
あのまま更に数分でも居られたら、どんな言葉を吐いていたか分からない。
言葉が出ない代わりに、殿下が握ってくれた手を握り返すと。
もう片方の手が、そっと背中をさすってくれた。
「今さらですが、良かったのですか? あのような形で追い返してしまって」
「……構いません。肉親でも、あんな言い方は許せませんから」
やっと、声が出るようになったところで。
隣に膝をつく殿下の、少し青くなった顔をのぞき込んだ。
「……どうしました?」
私は誰にも助けてもらえないと思っていた。
けれど――今夜は、この人が庇ってくれた。
「初めてです……辛い時、誰かがこうして手を握ってくれているのは」
「……っ」
殿下の姿が見えた時、泣きそうなほど嬉しかった。
そう、途切れ途切れに伝えると。
「……あなたまで悪役にされるのは、我慢ならなかったので」
「殿下……」
震える指先を握る力が、少し痛いほどに強くて、優しい。
「アリウム、眠いのですか?」
「……ええ、安心して……」
芯まで冷えた身体が、熱を取り戻していくのを感じながら――少しずつ、意識が遠のいていった。




