3話 負け同士、同じ屋根の下で。
『私と一緒に、“あの子の物語”を終わらせませんか』
そう言って差し出した手を、しっかり握ってくれたあと。
殿下はまた、その手を離さなくなってしまった。
少し面倒なことに、食事中も。
「……」
また俯いていて、何を考えているのかは分からない。
そんな彼を引っ張り、薄暗い廊下を渡って案内したのは――このボロ屋敷で一番まともな部屋。
「さぁ、ここが再起の出発地ですわ」
魔導式ランプに魔力を流し込むと。
隣の殿下は、ぼんやりと浮かび上がった部屋を気怠げに見回した。
「……素朴で退廃的で、素敵な出発地ですね」
遠回しに「オンボロですね」と言われている気はするが、仕方ない。
父の書斎兼寝室だったこの部屋が、一番広くて会議もしやすいのだから。
「さ、お疲れのところ申し訳ありませんが、具体的な話を始めましょう」
その部屋で唯一座れるベッドへ腰かけ、殿下にも着席を促したのだが。
彼はついに私の手を離し、いつまでも立ったままでいる。
「……こう見えても、掃除は毎日しております」
改めて「どうぞ隣へ」と言えば、彼は「はぁ」と吐き出しつつ隣に腰を落とした。
「……っ」
思ったよりベッドが狭いのか、彼が大きかったのか。
肩がくっついてしまう。
もしや彼がためらっていたのは、こうなると分かっていたからなのか――。
でも、自分から座れと言ったのに離れるのは失礼だ。
何事もなかった風を装い、俯いたままの彼の方へ膝を向けた。
「殿下は正しいことをおっしゃいました。でも、あの婚約式では、誰もあなたの正しさを聞きたいとは思っていなかったはずです」
「……」
まず殿下が知っておかなければいけないことを、正面から言ったところ。
彼は瞼を伏せ、口を閉じてしまった。
「妹の涙に、殿下が正面から勝とうとしても無理ですわ」
「……では、どうすれば」
「民に見える実績を作ります。『冷酷な婚約破棄男』ではなく、『国のために悪役を引き受けた方』として」
妹の「かわいそう物語」を書き換えるには、そうするしかない。
文机の上の万年筆、それから引き出しの中の羊皮紙を手繰り寄せながら、断言すると。
殿下は「実績……?」と、首を傾げた。
「まずは、妹が外相の前で豪語した救済事業について、もっと詳しく教えていただけます?」
「……ご存知の通り、この国は切り立った山と乾いた土地が特徴で、鉱業が豊かです。ただ……民の食卓は貧しい」
そのため、野菜も薬草も輸入に頼りすぎている。
殿下のため息に、深く頷いた。
「妹さんは、彼女の特別な魔法――『豊饒の大地』で、国全体を豊かにするつもりだったらしいのです」
嘘だ。
「妹の魔法の範囲と発動条件は、本人ですら把握できていません」
妹が担がれているのは、彼女の魔法で安定した実益が得られるかどうかではない。
緑が稀少な国の、豊かさの象徴として妹は見られているだけだ。
「妹の力ひとつで食料問題を解決するなんて。他国との約束ごとにできる話ではありません」
「ええ、それも調査済みです。ですから、絶望したわけでして……」
交渉の場で大きなことを言われ、殿下はさぞ焦ったことだろう。
ただ――。
「その美談、悪いことばかりではありませんわ」
「……はい?」
妹が美談にしたかった“絶対に叶うはずのない救済事業”を、逆手にとる。
私の魔法と殿下の力で、叶えてしまえばいい。
「私の魔法の範囲は狭い……ですが、小さい畑を何度でも確実に育てることはできます」
それに、殿下の熱魔法があれば、冬でも温室を維持することだってできるかもしれない。
「ふたりの力を合わせて、国民が食と薬と休息を得られる“国民サロン”を創りませんか?」
高鳴る鼓動を感じながら、殿下に向き直ると。
「国民サロン……」
伏せられていた彼の目が、私をしっかり捉えた。
でも、前とは違う――暗い青の瞳には、ランプとは違う光が宿っている。
その光を見ていると、「もしかしたら」ではなく、「できるかも」という気持ちが湧いてくる。
「ですが、貧困層を支えるほどの作物を生み出せるかは分かりません。そこは実際に、私と殿下の魔法で実地作業を……なんです?」
いつの間にか、殿下に顔をまじまじと見られていた。
ずっと硬く冷たかった頬が、少しだけ緩んでいる。
「アリウム嬢、用意周到ですね」
「……その、いつか“やってやろう”と思っていたので」
馬車寄せで彼に傘を差し出した時だって、ここまでのことは考えていなかった。
ただ、殿下には申し訳ないが――彼がすべてを失った時、私は絶好の機会だと思ってしまった。
口を滑らせると、殿下はクスッと声をこぼした。
「貴女は強い人だ」
「え……」
初めて見た笑顔に、一瞬、時が止まった気がした。
“強い”と言われるのは慣れている。
言われるたびに、自分の中の「私」が削られていく気がした。
けれど。
こんなふうに、少し眩しそうに言われたのは初めてだった。
「光栄ですわ……」
堅物で、不器用で、損をした――話を聞いて、そんな人だと思っていた。
でも本当は、優しいのかもしれない。
ちょっと分かりにくいだけで。
翌朝。
朝食を庭に用意して、父の元書斎へ向かうと――殿下は部屋にいなかった。
「え……」
まさか、王宮に戻ったのか。
(私の提案が、現実的ではないと思われた……?)
全身がざわつき、視界が歪んだ、その瞬間――。
「……ん?」
トンカンと、どこかから響く音に気がついた。
これは上からだろうか――朝食を用意したままの庭に出て、色褪せた屋根を見上げると。
「おはようございます……アリウム嬢」
3階の屋根に登った殿下が、屋根板に釘を打ちつけていた。
「殿下……! 何をなさっているのですか?」
「いえ、その……ご用意いただいた部屋に、雨水が漏れていましたので」
だからせめて、穴を板で塞いでいる。
そう言って殿下は、再び釘を打ち始めた。
「そこまでしていただかなくても……」
「当面お世話になるのですから、このくらいは……王宮に戻れば監視されるでしょうし、今は私を匿う者などいないでしょうから」
言いながら、彼は屋根の修理を終えてしまった。
一国の王子とは思えない手際で――少なくとも、私よりずっと釘の扱いに慣れているみたいだ。
「ご迷惑ですか?」
「……別に、迷惑ではありませんわ」
街には、ここよりマシな宿くらいあるだろうに――あんなことがあったとはいえ、資産まで没収されたわけではないはずだ。
それでも。彼が「ここでいい」と言うのならば、受け入れるしかない。
「……まずは降りていらっしゃいませんか?」
朝食を摂りながら、お互いの魔法がどれほど“国民サロン創設計画”に役立つかを、知っておきたい。
そう提案すると。殿下は無言で頷き、梯子を慎重に降りてきた。
昨日は恐ろしいほどに濃かったクマが、今日は少し薄れている。
「さぁ、いくらでもどうぞ」
野菜だけならたくさんある。
冬でも育つ根菜たっぷりのスープ、ひき肉を葉で巻いた包み焼きの皿を前に、殿下はすっかり口を閉じてしまった。
「嫌いなものでもありました?」
「いえ……少し、驚いてしまって」
相変わらず、表情も言葉も足りないけれど。
彼がすぐにナイフとフォークへ手を伸ばしたことから、ほっと息を吐き出した。
少しずつ昇る朝日を眩しがりながらも、夢中で食べている。
やはり、意外と食べっぷりが良い。
「こんなに新鮮で美味しい野菜料理、生まれて初めてです」
「ふふっ、それは褒めすぎでは?」
「……ご覧の通り、世辞や冗談は苦手なのですが」
確かに、彼の言葉が嘘とは思えなかった。
私がやっとスープを飲み終える間に、パンも肉料理も完食してしまったのだから。
「とにかく。アリウム嬢の魔法は、本当に計画の役に立ちそうですね」
冬場でも、こんなに野菜がしっかり育つのだから――そう言って、殿下は満足げに水を飲み干した。
「あなたの魔法だって」
そうだ。
ガチガチに凍った配管の氷を溶かせるなら、もしかしたら――。
とっさに立ち上がり、納屋の隣の倉庫へ向かった。
「せっかくなら、彩豊かな夏の野菜を食べていただきたいですわ」
この地域は雪が降らないが、今は空風が吹く季節だ。
そんな時に夏の野菜など、何をふざけたことを――といった顔を、彼はしているが。
「何をなさるおつもりで……?」
倉庫に保存している夏の植物の種を漁っていると、入り口の戸がギィッと音を立てた。
あり得ないとは思いつつも、やはり気になるらしい。
「お願いです。この倉庫を、暖気で満たしていただけませんか?」
「……私の魔法で、お役に立てるのでしょうか」
もしかすると。
彼も私と同じで、自分の魔法に自信がないのだろうか――。
それでも、「ものは試しだ」と、手のひらいっぱいの種を差し出すと。
「……では、試してみましょうか」
殿下が、藁の散らばる床に手を触れた、その時。
狭い倉庫の窓が震え、壁が軋んだ。
「あ……」
少しずつ、倉庫の中が蒸し風呂のように温まっていく。
(これなら、いけるかも……!)
すかさず、手の中の種に意識を集中させた。
「『咲き誇る花を見せて』」
手のひらが熱くなった、瞬間。
芽吹いた種から緑の蔓が次々と垂れ、足元まで伸びていく。
「やった……芽が出ました!」
つい声を高くしたところで、殿下も頬を緩ませた。
「やはり、何度見ても素晴らしい魔法だ」
「え……?」
飾らない笑顔と言葉に、一瞬身体が固くなった。
本人自身が言っていたように、殿下は冗談が苦手だ。
世辞ではないと分かっている。
でも――つい、「妹の魔法には到底及ばない」と言いかけた唇を、こっそり噛み締めた。
「……擬似温室、できましたね。一晩様子を見ましょう」
「……? ええ、楽しみです」
やることは、掃いて捨てるほどある。
いまは前に進む以外ない。
そう自分に言い聞かせて、すっかり顔色の良くなった殿下に微笑んだ。
朝の掃除に洗濯、昼は領内の実務周り――。
屋敷はこんな状態だが、ラグナム家が田舎領を管理していることには変わりない。
ふたりで国民サロン計画を詰められるのは、実質、すべてが終わった夜だけだ。
湯浴みを済ませたあと、いつもの夜着に薄い上着を羽織って、父の元書斎へ向かった。
家の中で仕事の話をするだけなのだから、着飾る必要などないだろう。
「……お待たせいたしました」
「……っ! アリウム嬢……お疲れ様でした」
「殿下こそ」
私がいなくても、背筋を伸ばしてベッドに腰かけていた彼。
つい先ほどまで、家屋の修理をして回っていたことを知っている。
ただ――なんだろう。
あからさまに、こちらから顔を背けている。
(これがいつもの殿下だっただろうか……?)
人の顔をまっすぐに見ていることの方が少ない。
そう流して、殿下の隣に腰を落とした。
「ところで、計画の名称なのですが。農作物を中心にするので、“緑のサロン”と名づけるのはいかがでしょう?」
「ああ、いいですね。石の国の硬い響きには飽きていたので……」
これまで通り、真剣に話しているように見えるけれど――やはり、視線が合わない。
「殿下……?」
私の顔に、泥でもついているのだろうか。
いや、今夜はきちんと湯浴みをしてから訪問したのだ。
「……ところで」
「はい、お夜食をご所望ですか?」
「いえ、そうではなく」
殿下はついに、隣から腰を上げた。
なぜか書架の方を眺めている。
「まさか私……臭いますか?」
身体を清めたものの、昼間混ぜた堆肥の臭いが消えてなかったのでは――そう気づいた途端、血の気が引いていった。
「違います! その……」
違う。
殿下の言葉に、ひとまず胸を撫で下ろしたものの――彼はやはり顔を背けたままだ。
ここから見えるのは、少し赤くなった耳だけ。
もはや首をかしげるしかなかった。
「では、なんだと?」
「だから、ええと……」
言葉を選び続けている彼が、やっと顔を上げたかと思えば――。
突然、手首を掴まれた。
「え……」
これまで何度かあったように、縋るように手を握られたのではない。
俯いたままの彼は、私が逃げないよう拘束するかのように手首を握っている。
「あ、あの……」
何をしているのか。
問いかける間もなく、その手に引き寄せられ――彼の顔が、耳元に近づいてきた。
「……俺のこと、試してます?」
耳元をくすぐる吐息。
それから、一瞬で熱を帯びた彼の手に、頭が真っ白になった。
ただ――。
「……っ、すみませんでした」
「え……?」
何かを口にする間もなく、気がつけば部屋を追い出されていた。
「……何だったの?」
おぼつかない足取りで、寝室まで戻ったあと。
寝転がりながら、薄暗闇に浮かび上がる手首を見上げた。
私が王子に何を試しているというのか――。
昨晩と同じように、“緑のサロン創設計画”について話しているだけだったはずだ。
違うことといえば、湯浴みをしてから部屋を訪ねたことくらいだろうか。
ふと、自分の身体を見下ろすと。
襟元の開いた薄い夜着に、上着を一枚羽織っている。
昼間のドレスより肌が見えているが――家でひとりなら、いつもの格好だ。
「……まさかね」
あんなことがあった元婚約者の姉に、そんな気持ちは抱かないだろう。
ただ――厄介なことに、手首の熱がまだずっと残っている。
「……眠れない」




