2話 負け王子のやり直し
「貴女の妹さんは、その……都合が悪くなると泣いてしまう方で」
ああ、まったく――ルナティは王宮でもそうだったのか。
殿下は相当気を遣いながら話してくれたのだろうけれど、事実だ。
正式な婚約期間はひと月でも、その前から王宮で妃教育を受けていた妹が何をしてきたのか。
庭先のガーデンテーブルを片付けながら、殿下は私に話してくれている。
「お皿はどちらに?」
「こちらの棚へ……というより、お手伝いは結構ですよ」
妹との婚約破棄に至ったわけを、早く聞きたいのだが――。
それに、王子に家事を手伝わせるのも気が引けるというのに。当の本人はこちらの気も知らず、意外にも手際よく食器を片している。
「本当に、この家にはアリウム嬢以外いないのですね」
「ええ……それより、お話の続きは?」
妹の涙に騙されなかった、第二の私――もといナナラピス殿下は、妹をどんなふうに見ていたのか。
訊ねると、殿下は深いため息をこぼした。
「どれだけ甘やかされて育ってきたのかと思いましたが。貴族令嬢ならば仕方がないと、耐えていました」
「ええと、それは……」
厨房へ運んでいる途中の茶器を、うっかり落としそうになった。
暗に私のことを責めていやしないかと思ったが――考え過ぎだろうか。
「まぁこの程度なら……妻として愛せなくても、王室に生まれたものの定めとして、割り切ることはできたのです」
「はぁ……」
ただ、と殿下は続けた。
「重要な書類を読まずに署名する。救済事業を、美談として押し通そうとする。財源や責任者の確認を一切しない――こういったことが、何度も起こりまして」
耳を塞ぎたくなる羅列に、少し反省しかけた。
「妹が、まさかそこまでだったとは……」
昼の婚約式では、すぐに妹の反撃が始まったせいで、王子の主張があまり分からなかった。
「ここもまだ、耐えられたのですが」
「まだって、これより悪いことが!?」
とっさに振り返った先で。
殿下はボロ布でテーブルを拭きながら、さらなる深いため息を吐いた。
「あれは隣国外相との、会食の席でした……」
自国、他国の外相が、円卓を囲んでの和やかな食事中。
殿下とともに“将来の勉強”として列席していた妹が、「飢えた国境民を助けたい」と発言した。
そのうえで、勝手に王家の支援を約束しかけた――殿下の消え入りそうな声に、胸が軋んだ。
「それは……」
発言は人道的に聞こえる。
実際、妹の笑顔を見た人たちには、“豊穣の女神”が救いの言葉を語っていると思っただろう。
でも――。
「いざ国を跨いだ食糧問題に切り込むとなると……複雑な問題が絡むのでは?」
「……その通り。アリウム嬢のような方が、あの場に一人でもいれば良かったのですが」
すっかり手を止めた殿下は、その時のことを思い出すように遠くを見つめていた。
「私は普段、“国政事業省”を預かっておりまして……国家予算と年度収支は、誰よりも把握しているつもりです」
そんな殿下が、「今すぐには到底約束できない」と思うことを、妹は何も知らないまま約束しかけたという。
「それは……何十年を共にした家族としては、“よくある彼女のクセ”と言ってしまえますけれど」
「国家間の問題です。当然、私は口を挟みました」
国境の土地は誰が管理するのか。
食糧支援の費用はどこから出るのか。
支援物資を運ぶ道の安全は誰が保証するのか。
実際にどんな口調で言ったのかは分からないが、殿下は現実に起こりうる問題を彼女に突きつけた。
でも――妹が泣くと、周囲は妹に味方した。
その時のことを思い出したのか、殿下はボロ布を持つ手を震わせている。
「……容易に想像がつく光景ですわ」
「もはや隠居気分の父も、武勇で功績を立ててきた兄も、普段の人柄は悪くないのです。ただ……」
もはや祭り上げられるほどに名を馳せた妹が、素晴らしいことを言った。
それを殿下が否定したことで、彼女を泣かせてしまった。
「そんな構図が出来上がり、『かわいそうだろう』と彼女を庇われた暁には……縁を切りたくなりましたよ」
殿下はせっかく晴れた黒いモヤを、また顔の周囲に纏わせはじめた。
実父である王と、縁を切りたいと思わせるなんて――。
「確信したのは、この時ですね……」
この人は、国の母になってはいけない。
優しいのではない。責任の重さを知らないだけだ――殿下は奥歯を噛み締めながらも、言葉を選んでくれていた。
「……それでも、すべては彼女に微笑んだ。これだけのことを揃えても、私は負けたのです」
ボロ布を置いた殿下は、何かを低く呟いた。
彼の掌に、淡い光が灯っている。
今のは、詠唱だろうか――。
彼は納屋から持ってきていたずぶ濡れの服を、手の熱で乾かしているようだった。
「こちらをご覧ください」
タキシードの内ポケットから、小さな財布を取り出すと。さらにその中へ圧縮されていた紙片を、彼はダイニングテーブルに並べはじめた。
「これは、あの時の……」
「妹さんの失言記録集、学習放棄の証拠、勝手な約束だらけの議事録……そのすべてです」
背筋が震えた。
この人、かなりできるみたいだ。
でも――彼は間違えてしまった。
あの妹を断罪するやり方を。
「私は、どうすれば良かったのでしょうか……」
昼間の婚約式が、頭の中に浮かび上がる。
のんきな笑いと華やかな会場の雰囲気に、私以外の誰もが酔う中――殿下の断罪は始まった。
「これらの証拠を、国政を妨げるものとして突きつけたところまでは良かったと思います。でも……」
妹が泣いた。
殿下に「貴女との婚約を破棄したい」と告げられた、その直後に。
『私はただ、困っている人を助けたかっただけなのっ……』
妹を担ぐ貴族が「おいたわしや……」と囁き合い、王様までもが眉をひそめた。
稀少な力を持っているという特典も相まってのことだろう。
「殿下はあの時、焦ってさらに正論を重ねようとなさいましたね」
「それは……」
『感情で国政を動かす者に王妃は務まらない……君の慈善は、政治ではなく自己陶酔だ!』
あれは正しかったと思う。
でも、あの場では最悪だった。
事実がどうとかいうよりも。
“特別な妹”は傷ついた被害者になり、第二王子は冷酷な加害者になる――その構図が出来上がってしまう流れだったから。
「……っ」
昼間の出来事を打ち切り、目の前の王子に視線を戻すと。
彼は言葉もなくうなだれていた。
古い厨房の汚れたタイルも構わずに、背をもたれている。
「殿下……」
これ以上話すのは、今の彼にとって酷だろうか。
「とりあえず、夕飯を準備いたします」
日が落ちかけている外を眺めながら、平服の袖をまくった。
彼の体格では、小さなパン少しでは足りなかっただろう。
肉が用意できれば良かったのだが――今は卵でメインを作るしかない。
「……」
手を動かしながら、すっかり黙ってしまった殿下を横目に見た。
壁にもたれたまま、同じ位置から少しも動いていない。
(下手に慰められないな……)
ただ、あの場で悪者にされただけならまだマシだった。
それが何度も繰り返されてきた私も、当時は辛かったけれど。
彼の場合は、すべてを捨てる引き金になったのだ。
「そういえば……」
断罪の途中で、殿下が不利な流れになった時。
妹を担ぎ上げる貴族派閥が、王様の側近に何かを囁いていた。
結果、殿下は“婚約者を公衆の面前で侮辱した冷酷王子”の烙印が押されたわけだ。
慈悲深い令嬢を、政治的に潰そうとした男として。
「……でも」
父はよく言っていた。
「あの国王は、生まれ順だけで王を選ぶ方ではない」と。
第一王子にも野心はある。けれど国政については、弟の方が向いていると理解しているはずだ、とも。
それでも、妹の「かわいそう物語」の力は、家族の信頼まで捻じ曲げてしまったのか――。
「あら……?」
水道の水が出てこない。
「もしかして……」
“井戸水使用料”の未払いで、供給を止められたのだろうか。
頭が真っ白になった、その時――。
突然、水がちょろちょろと流れ始めた。
気づけば流れる水は太くなり、鍋にはすっかり水が溜まっている。
「凍結です。冬は配管が凍ってしまうことがあるので」
「えっ……」
真後ろからの声に、つい肩を揺らしてしまった。
先ほどまで沈んでいた殿下が、背後から手を伸ばしている。
「配管って、殿下の魔法は……」
服の乾燥、配管の解凍――もしかして、熱に関するものだろうか。
「……ご名答。どうぞ、このまま続けて」
「あっ、ありがとうございます」
頭のてっぺんに息がかかるほどの距離にいられると、さすがに落ち着かない。
でも――魔法の発生源である彼の手が、とても暖かい。
冬場の厨房は、いつもは凍えそうなほどなのに。
そういえば、家に人がいるのはいつぶりだろう。
妹が王宮に引っ越してから、ちょうど半年くらい経つだろうか。
「……」
ただ、彼が利用できるかどうか。
それだけを確かめるはずだったのに。
ひとりきりだった家を温めてくれる彼に、せめて美味しいものを食べさせてあげたい――少しだけ、そんな気持ちが湧いていた。
(でも……今はそれより、この人に言わないと)
「あの」
茹でた豆の下ごしらえをする手を止めて、後ろを振り返ると。
殿下はクマの濃い目を見開き、私を見下ろしていた。
「ナナラピス殿下は、間違ったことをしたから負けたのではないと思います」
正しいことを、“人に届かない形”で言ったから負けた。
そう言い放つと。
彼はため息を吐き、視線を床へ投げた。
「慰めはいりません。国を揺るがす彼女を、王宮から追い出そうとした結果……もっとも悪い方向へと転がってしまいました」
「悪い方向……?」
第一王子はルナティを気に入っていた。
彼女の振る舞いが残念だろうと、彼女の力と“民衆人気”を利用して、自分が王位に就くことも考えているかもしれない――。
殿下の言葉に、温まっていた胸が冷えた。
「そんな……私、そこまでうかがっておりません!」
「でしょうね。彼女は兄に乗り換えようとしていたことを、今日まで隠していましたから」
確かに断罪の場面で、第一王子が泣く妹の肩を支えていたが――まさか、そこまでするなんて。
いくら家が没落したとはいえ、そこまで権力に興味があるような子ではなかった。
私を無自覚に“悪役”へ追い込むことはあっても、質素な暮らしに文句を言わない謙虚さはあった。
「どうして……」
「このまま兄が王となり、彼女が妃になれば……この国は立ち行かなくなるでしょうね」
まだ濡れた髪で、顔を隠したまま――殿下は奥歯を噛み締めた。
この人、ずっと自分のことを乾かそうとしていない。
負けた自分を、少しでも苦しめようとしているみたいだった。
「……でしたら、殿下」
そんな彼に改めて向き直り、手を差し伸べた。
「私と一緒に、“あの子の物語”を終わらせませんか」
「は……」
私もこの人も、彼女の「かわいそう物語」の犠牲になった。
ならば。
この“かわいそうな王子様”を味方につけて、私の物語を取り戻そう。
最後まで悪役だった、ヒロインの姉ではなく――私らしい人生を取り戻した、アリウム・ラグナムとして。




