1話 勝ち令嬢(妹)と負け令嬢(姉)
いくら泥だらけとはいえ、王子様を納屋に上げるのは「どうかしている」と思われるだろう。
それでも、今は一刻も早くこの人を着替えさせなければ。
「……ラグナム家のご令嬢が、なぜこのようなところに?」
植物の肥料袋が転がる、藁だらけの納屋。
それを物珍しそうに眺める殿下は、少しだけ声に芯が戻っていた。
「私のことはお気になさらないで。昔、ここで寝たこともありますし……殿下はお嫌でしょうけれど」
母屋からタオルと着替えを持ってきて、ずぶ濡れの王子に差し出すと。
重い前髪を張り付かせた顔が、一瞬ピクリと動いた。
「……アリウム嬢は、私に恩を売るおつもりで?」
「どうとでも捉えていただいて構いません。私はただ……」
今はまだ、言えない。
彼が立ち上がれる人なのか、それともただ本当に「かわいそうなだけの人」なのか、分からないから――。
小刻みに震えるだけで、王子は動かない。
そんな彼の前に小さな三脚を運んできて、頭にタオルを被せると。
「……っ」
まただ。
彼は縋るように、冷えた手を私の手に重ねた。
でも――今度の手は、私の手とタオルを払うような動きをしている。
「……何のつもりですか?」
「なにって、早くしないと風邪をひきますから」
そうなってはこちらも困る――と、言いかけた声を呑み込み、仰々しい衣装の襟元に手をかけたところで。
「あっ……あの、ひとりでできますから!」
突然の大声に、危うく三脚から落ちそうになった。
さっきまで石像のようだったのに。
他人に触れられることが嫌だったのだろうか。
それとも、まさか――。
(女性に慣れていない……?)
婚約期間ひと月とはいえ、妹と婚約していたのだ。
そんなことはあり得ないはずだが。
「……後ろを向いていますわ。殿方の着替えを覗く趣味はございませんので、ご安心を」
「いえ! 貴女のような方が、そのようなことをなさるとは思ってもいませんが……」
安心させるために、耳まで塞いで待っていると。
やがて、肩をそっと叩かれた。
「お待たせいたしました……」
振り返った先には、平服の父――ではなく、顔を背けた殿下が立っていた。
「……まぁ。父の服が良くお似合いですね」
肩幅が少しきつそうな上に、スラックスの丈も短いけれど、今は我慢してもらう他ない。
一瞬だけ父を思い出してしまったのは、彼の雰囲気が、仕事一辺倒だった父に重なったからだろうか。
「……ひとまず、感謝を」
殿下は一度も私を見ない。
妹の元婚約者、それも公の場で失脚した自分をこんなところまで連れてきたのは、何故なのか――そう顔に書いてある気がする。
このままでは、私がルナティの姉だからと警戒して、婚約破棄の理由を正直に話してくれないかもしれない。
どう聞き出したものか――。
「あ……」
いつの間にか、納屋の窓に光が射し込んでいた。
「雨が上がったようですわね」
息抜きに外へ誘うと、殿下は少しずつ暗い顔を持ち上げた。
母屋のボロ屋敷は、正直あまり見られたくないけれど。
木枯らしの季節でも関係なく咲き誇る、庭の花々は小さな自慢だ。
「……驚きました。石の国でこれほど緑が豊かな場所を、私は知りません」
「せっかくですから、もっと近くでご覧になります?」
こんな時だが、庭を褒めてもらえて、胸が少し温かくなった。
ふだんは誰も立ち入らない、私の小さな庭。
その中に猫背のまま立ち、殿下は深く息を吸っている。
「これは先ほど見た、あの魔法で?」
「はい……妹には到底及ばないものですが」
いつもの癖で自分を落としてしまったけれど、彼は何も言わなかった。
ただ、ほんの少し光を映した視線は、花ではなく花の根元――耕された土に落ちていた。
「……しばしの間、ごゆっくり」
無心に花々を眺める殿下を庭へ残し、母屋の厨房へ向かった。
今朝焼いたばかりのパンが、まだバスケットの中に残っていたはずだ。
それから、心を落ち着ける香草茶も淹れていこう。
濡れたガーデンテーブルを拭き、温かいお茶とパンを運び終えたところで。
「これは……まさか、貴女が?」
こちらを振り返った殿下は、「信じられない」といった風に、口をポカンと開けていた。
雨の馬車寄せにいた時よりは、顔色が良くなったみたいだ。
「お口に合わないかもしれませんが、今は栄養を摂っていただいた方がよろしいかと」
「……お心遣い、痛み入ります」
彼は席に着いたが、食事に手を伸ばそうとはしなかった。
ただ、じっと何かに耐えるように、両拳を膝の上で握っている。
「食事に毒を入れる趣味はございませんが?」
「いえ、そうではなく……ラグナム家のご令嬢が、まさかと思いまして」
料理ができて、こんな質素な家に住んでいるなど信じられない。
食事を見下ろす警戒の色から、まだ彼が私を少しも信用していないのだと分かった。
(馬車に乗るまで、私の手を離さなかったくせに……)
でも、彼が私を信じられない気持ちは、分からなくもない。
「殿下の事情より先に、我が家のことからお話しいたします」
まずは私――「国一特別な魔法をもつ令嬢」の姉が、妹とどのような関係なのか。
それを知ってもらった方が早いかもしれない。
「ですが、その前にひとつ」
断罪し返される前に、殿下が妹を婚約破棄した本当の理由は分からない。
ただ、世界は妹の味方だということが今回よく分かったのでは――?
俯く彼に、そう問いかけると。
沈んでいた碧眼が、私をはっきりと捉えた。
「貴女は、私が完全なる悪だと糾弾しないのですか?」
「え……ええ。だって、あの子の前では誰だって悪役になりますから」
初めてちゃんと目を合わせてくれた殿下に向き直り、自分で淹れた香草茶をひと口含んだ。
話すなら、今だ。
「本日の婚約式もそうです。妹は、昔から泣いて世界を動かしてきました」
それに泣くだけではない。
私たちを取り巻く全て――まるで世界が妹に味方しているかのように進むのだ。
「幼い頃から、兆候はありました。私は器用な方で、大抵のことは妹よりうまくできましたが……」
初めて魔法で花を咲かせた時、私は“できて当たり前”の顔をされた。
けれど、やっと一輪を咲かせた妹は、母に抱きしめられた。
庭の隅に咲く待雪草を見ると、今でもあの日を思い出す。
「……花を咲かせる、あるいは植物を育てる魔法は、我が国で希少です」
さすがは古くよりある三大名家のご令嬢――と、殿下は力無く言った。
でも、結局妹は私を超えていった。
いや――それが生来授かったものの違いだったのだろう。
「ですが……なぜ、名家がこのような状態に?」
妹からは、10年ほど前に父親が亡くなったこと以外、まったく聞いていなかった――殿下は声を落とし、そう尋ねてきた。
(少し、興味を持ってくれたのかしら……)
「ええ……父が亡くなり、財源がなくなったのです。ペンより重いものを持ったことのない母を憂いて、私は家の今後を考えていたのですが……」
父の葬儀が終わった、翌日の夜。
『お父様が亡くなったというのに、あなたは……そんな冷たい人間に育てた覚えはないわ!』
父が管理していた帳簿を見ていた私を、母が責めた時の顔――今でも忘れられない。
「父の杖に縋って泣く妹ばかりを心配して……母は、私を『冷たい人間』だと非難し続けました」
「……」
口を閉ざしてしまった殿下に構わず、「その後」と口にした。
ひと息に話さなければ、声が震えてしまう。
「結局、私だけの力ではどうにもならず……母はそのまま、家が小さくなっていくのを黙って見ていたのですが……」
2年前、妹が本来の力を覚醒させた。
「殿下もよくご存知でしょう? 大地を潤す、“豊穣の女神”の力を」
採掘業で栄えた石の国は、痩せた土地がほとんどを占めている。
そんな中、森ひとつの緑を一瞬で復活させる力を持っていると、噂が広まれば――権力をもつ者たちが、黙ってはいなかった。
「すぐに周辺諸侯が、王家との縁談を持ち掛けてきました。そしてナナラピス様に、白羽の矢が立ったと」
「……ええ。兄はあの時、婚約者がおりましたから」
あの時、妹は迷わず、「王家に嫁ぎたい」と言ったのだ。
「ですがご覧の通り、我が家に準備金はなく……」
縁談を持ち掛けた貴族たちも、「まだ正式な婚約に至ってはいないから」と、妹に援助した金はわずかなものだった。
「私がお顔合わせのドレスを縫い、化粧をし、妹に群がる方々とのやり取りをしてきました……ですが」
毎夜ドレスを縫っている横で、妹が涙ながらに喜ぶ姿――あれも、まだ忘れられない。
「いえ、あの時だけではありません……ずっとそうでした」
彼女は私のすることに対して可愛く感謝するばかりで、それを当たり前のように受け取っていた。
「仲良し姉妹だから」――と。
「殿下、私はね。この27年間で、よく理解っているのです」
私は、妹が周りの世界を従える仕組みを理解している。
行いの正しさや、能力の凄さではない。
妹はただ――“涙の物語”で周りを動かしているのだ。
「……私の話は以上です」
乾いた唇を閉じ、カップの中を見つめる殿下へ視線を向けると。
「確かに、誰も私を信じなかった……最初から彼女が正しいものだと、信じ切っていたように見えた」
「……っ」
少し泣きそうな横顔に、喉が締めつけられた。
この人は今、私が感じ続けたのと同じ痛みを味わっているのだろう。
「……もし、殿下が私の話を信じてくださるのなら」
少しでも構わないから、私が今朝焼いたパンを食べてほしい。
まだ喉が締まったまま、そう告げると。
彼は大きく口を開け――少し硬くなってしまったパンを、がつがつと頬張りはじめた。
「え……」
意外と思い切りが良い。
いや――王子とは思えない食べっぷりだ。
思わず見惚れるうちに、彼は香草茶まで飲み干していた。
「あの、殿下――」
「心苦しいであろうことをお話しいただき、ありがとうございました」
「え……?」
重い前髪の奥の瞳が、はっきりと私を捉えていた。
最初よりもずっと深く、力強く。
「私の話……信じてくださったのですか?」
「勿論です。すべて納得がいく内容でした」
それでも、にこりともしない顔を見つめるうちに――彼は背筋を伸ばし、椅子に座り直していた。
「それでは、今度は私から。妹さん……ルナティ嬢に、婚約破棄を言い渡した理由をお話しします」
その言い回しはまるで、彼という人間の根っこを現すかのように事務的で、堅苦しくて、それに――誠実な声色だった。
つられて私も背を伸ばすと、彼はポツリと吐き出した。
「彼女は全面的に、“国の母”には向いていなかった」と。




