プロローグ:妹が捨てた王子、拾いました。
「もう遅いのです、殿下!」
純白のドレスに涙を落としながら、妹はまた、世界を味方につける声で言った。
そうして私の義弟になるはずだった第二王子は、すべてを失ったのだ。
婚約者、味方、王家での未来――何もかも。
国の祭典式場に集まった、千を超える来賓。
その中で、おそらく私だけだった。
妹の涙から目を背け、ふだんは飲めない高級カクテルを楽しんでいたのは。
「……また、始まった」
泣く妹を見るのは初めてではない。
泣いた妹が、誰かを悪役にしていくところを見るのも。
第一王子の逞しい腕に縋りながら、妹は何やら書類を取り出していた。
これから断罪してやろうとしている、第二王子を前にして。
「殿下が私を隅々まで調べ上げ、今日この場で婚約破棄を申し入れようとしたこと……本当はもう、気づいていたのです!」
「なっ……」
婚約式の場で、妹との婚約破棄を申し入れようとした第二王子。
彼は妹の反論で、あっという間に“悪者”の烙印が押されてしまった。
殿下の話を、最後まで聞いた者はいないのに――。
第二王子は、妹を隅々まで調べ上げた冷酷な男。
特別な魔法をもつ可憐な婚約者を、婚約式で理不尽に捨てようとした愚か者。
そんな筋書きが、涙ひとつで完成していく。
ああ、まただ。
また“涙の天才”は、泣くだけで世界を手に入れた。
雨の降る馬車寄せに、俯いたまま座り込む男。
値段の想像できない翠玉飾りのタキシードが、泥で台無しになっている。
誰も迎えにくる様子はないが、それも仕方ないだろう。
いまの彼は、「この国で一番特別な力を持つ妹を、理不尽に捨てた第二王子」なのだから。
「……」
でも、それ以上に、彼の沈黙に息が詰まる。
雨に濡れた黒髪も、泥を吸った衣装も、何もかもが「近づくな」と告げているようだった。
それでも――。
来ない馬車を待つ彼の前で、私はそっと足を止めた。
「ご機嫌よう、ナナラピス殿下」
最初に返ってきたのは、重苦しいため息だった。
水の滴る黒髪の隙間から、沈んだ青の瞳が覗いている。
「アリウム嬢か……義弟になるはずだった男を、笑いに?」
前から笑わない男だった。
でも今は、婚約者の親族に対する最低限の愛想すら捨て去ったみたいだ。
「笑ってほしいのですか?」
わざと明るく言うと、彼は私から視線を打ち切った。
「……何をしに来た」
「それは……」
私は傘を差しているが、この男にはまだ傘を差し出さない。
この人は、まだ立ち上がれるのか。
私と同じように、悪役にされたまま終わる人なのか。
今はそれだけが知りたかった。
でも――。
妹にすべてを奪われ、こうして項垂れる彼を見ていると、少し重ねてしまう。
あの子を妹に持った、私自身に。
「殿下。ひとつだけ、お聞かせください」
「……今更何を」
王子は一切こちらを見なくなった。
(これでは駄目か……)
下手に寄り添うよりも、少し突き放した態度でいこうと思ったのだけれど。
傘はひとつしかない。
ならば――。
化粧ポーチの中から、種を入れた紙包みを取り出した。
夏の庭で採れた、黒い種。
それを掌に包み込み、優しく息を吹き込んだ。
「……『咲き誇る花を見せて』」
詠唱と同時に、手の中の種が熱を帯びる。
(よし、成功だ……)
「……っ!」
魔法の匂いを察したのか、王子はようやく顔を上げた。
「その魔法は……」
「お静かに」
雨水を吸った種が、私の掌で小さく割れる。
芽がほどけ、茎が伸び、青い葉が一枚、雨の中で大きく開いた。
私はそれを、彼の頭上へそっと差し出した。
「妹を捨てた理由を、聞きに参りました」
「濡れたままでは話もできませんわ」――そう言って、さらに傘を前へ出すと。
彼はまず葉を見上げ、そして私に向き直った。
目がほとんど前髪で隠れているが、突き刺さるような視線を感じる。
「……」
葉の傘が、雨を弾く音が響く中。
いつまで経っても、紫色の唇は開かない。
硬そうなのにしなやかな手は、動かない。
あんなことがあったばかりだ。
元婚約者の姉の私を警戒して当然だろう。
でも、今しか機会はない。
彼が失意の底にいる時に、私が手を差し伸べなければ――妹の“世界を味方につける力”は終わらない。
(私はいつまで経っても、妹の物語の“悪役”でしかいられない……!)
紅が剥げるのも構わず、唇をそっと噛み締めた。
「ナナラピス殿下、どうか話を……」
余裕を崩してでも、彼に語りかけようとした――その時。
「えっ……」
突然動き出した手が、葉を差し出す私の手を握った。
いったい、どういうつもりなのか――。
ひんやりした手を払えないまま、少し乱れた呼吸を隠していると。
「あっ……す、すみません」
見開かれた目が、言い訳をするように泳いでいた。
もしや彼は、傘の柄を掴もうとしたのだろうか。
それで間違って、私の手を握ってしまったのか――でも。
この人、いつまでも手を離そうとしない。
「あの、どうして……」
「すみません……寒くて」
冗談ではなさそうだった。
想像よりも硬くて太い指。
芯まで冷えて、少し震えている。
男性の手に触れるのは、社交の作法では珍しくない。
けれど――こんなふうに、誰かの震えごと預かったのは初めてだった。
「……構いません。とりあえず、こちらへ」
縋るように握られた手の先で、彼は今だけは素直についてくる。
あらかじめ留めていた辻馬車まで、彼の手を引いていくことにした。
「私の事情など聞いたところで、結果は変わらないと思いますが……」
「それで構いません」
同情したのではない。
蔑むために拾うのでもない。
ただ――。
「知りたいのです。あなたが本物の悪なのか、それとも……」
悪役にされたのか。
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次回:ナナラピス殿下を屋敷へ連れ帰ったアリウム。
妹の涙で悪役にされてきた姉と、すべてを失った王子。
ふたりの共犯関係が、ここから始まります。




