11話 もう遅い? それはこちらのセリフです~妹を添えて~
サルスベリの枝先からこぼれ落ちる、薄紅の花びら。
広場の石畳に降りた淡い色が、ルナティを神々しい存在に見せていた。
「“豊穣の女神”だ……」
「やはり、あの方の力は本物だったのか……」
代表席のどこかから、感嘆の声が漏れる。
さっきまで投票用紙を握っていた人々の指が止まり、壇上のルナティへ視線が集まっていく。
「投票直前だっていうのに……アリウム様、どうしましょう?」
「……」
シュシュカの囁きに、今は応えることができなかった。
「ルナティ嬢、素晴らしい! 練習の成果が発揮されていますね」
アストロワ卿は、勝利を確信したように微笑んでいた。
彼の目に映っているのは、妹ではない。
人々を動かすための“女神”だ。
胸の奥が冷えていく――。
もし、ここでルナティが泣けば。
もし、「お姉様のために」と言えば。
世界はまた、私を悪役にするかもしれない。
けれど――。
少し息を乱したルナティが、そっと私を見た。
次に、魔法の師であるアストロワ卿を見た。
それから、花房をつけたサルスベリを見上げ――彼女は瞼を閉じた。
「私はもう、泣きません」
開かれた灯火色の瞳に、涙はなかった。
「ルナティ……」
私が彼女を残して実家を去った、あの日と同じ目――いや。
あの時よりずっと、力強い光を宿している。
「……なんだと?」
「お姉様と約束したのです」
アストロワ卿のためには、もう力を使わない。
長身の彼が放つ圧にも負けず、ルナティは彼を見上げた。
「お姉様のため……いいえ、私のために、あなたを利用させてもらったの」
「え……?」
自分の力を制御するために、アストロワ卿を利用した。
ルナティはそう言い切った。
まさか、そのために『まだ縁は切らない』と言ったのだろうか――。
「あなたの指導で、力の出し方は覚えました。でも、この規模で使えば……私はしばらく、何も育てられません」
ルナティは、満開のサルスベリが咲き誇る広場を見渡した。
「これは奇跡ですわ。けれど、食卓を支える畑は奇跡だけでは続かない……でしょう、お姉様?」
「ルナティ……」
これが、彼女が「自分で考えてみた」結果――どうやら妹は、私の想像以上に変わっていたらしい。
記憶の中に染みついた、妹の潤んだ瞳。
それが今、少しずつ、光を宿した目に塗り替わっていく。
「畑の維持には、農民の力が欠かせないのでしょう? だったら私は、お姉様の、農民を大切にする考え方に賛成いたしますわ!」
ルナティの強い宣言に、会場の代表たちがどよめく中。
アストロワ卿は息を荒げ、肩を震わせていた。
「……っ、ルナティ嬢、今ならまだ間に合う。君が泣けば、貴族たちはこちらにつく。君はお姉様のために、まだ役に立てる!」
そんなアストロワ卿に対して、妹は「あら?」と、とぼけたように首を傾げた。
「でもルーデンス様、お姉様に申し上げたわよね。後悔しても、“もう遅い”って」
「……!」
こちらに向いたルナティの視線に、思わず口角が上がった。
今こそ、彼にあの言葉をぶつける時だ――。
「“もう遅い”はこちらのセリフです、アストロワ卿」
「なっ……」
冷静を保とうとしているものの。
額に浮いた汗を、彼は指先で乱暴に拭った。
その姿を見て、私とルナティはそっと目を合わせ、微笑んだ。
まさか妹に放ったあのセリフを、本人ともう一度言うことになるとは思いもしなかったけれど――。
『ルナティ嬢の力と、その言葉は確かに聞き届けた……だが、今は投票の時だ。改めて問おう』
“緑のサロン”を、アストロワ商会の管理事業とするか。
それとも、国民の食卓を支える国政事業とするか。
王様の厳粛な声色に、辺りがしんと静まった。
代表たちはそれぞれ、投票用紙に向き合っている。
紙とペンの擦れる音だけが、少しずつ会場を満たす中。
それに合わせて、私の鼓動も強く、早くなっていった。
(完全勝利の自信はない……でも)
可能性がゼロだとは思わない。
『そろそろ、回収するとしよう』
王様の声と同時に、投票用紙が舞い上がる。
隣のシュシュカと手を取り合い、集計を待つ間――これまでの出来事が、走馬灯のように頭を巡った。
馬車寄せで座り込む、殿下の暗い瞳。
殿下が初めて笑ってくれた、ボロ屋敷の夜。
「貴女の泣く場所になる」と誓ってくれた、湖。
二人で“緑のサロン”のテープカットをした瞬間――。
(あれ……?)
こんな時に思い浮かぶのは、殿下のことばかりだった。
いま彼は隣にいないけれど――いつか彼が額に残してくれた熱が、私に力をくれる。
『……それでは、結果を開示する』
淡々と、粛々と、王様の声が響いた。
その瞬間――アストロワ卿は、握った拳を空へ突き上げた。
「え……」
貴族や商人たちの歓声が響いても、まだ私の頭は取り残されている。
“結果”を呑み込めなかった。
「アリウム様……こんなのって……!」
シュシュカの声が遠く聞こえる。
「そんな……負けた……?」
貴族票、商人票の多くがアストロワ卿へ。
農民票はこちらが押さえたものの、職人票は割れた。
結果は――アストロワ商会案が、わずかに上回っていた。
たったの数票差。
でもその差は、あまりにも重かった。
「……決まりましたね」
アストロワ卿は、こちらに向けて息を吐いた。
その顔には、勝利を確信した者の笑みが浮かんでいる。
「そん……な……」
石畳の広場が遠くなる。
ルナティが何かを言っている。
シュシュカが私の名を呼んでいる。
でも、音がぜんぶ、水の向こうから聞こえるみたいだった。
どんな顔をして、ラグナム領のみんなを見れば良いのか――手足が震えはじめた、その時。
「お待ちください!」
振り返った先には、馬で駆ける黒い外套の男がいた。
「…………殿下?」
外套には、まだ溶けきらない霜が残っている。
手袋の先は濡れ、唇は少し青い。
それでも彼は、馬を降りてすぐに、王印の押された封書をまっすぐ掲げた。
『ナナラピス王子……何事だ?』
王様の問いかけに、ひと息挟み――殿下は言った。
これは複数の北方領から預かった投票意向書だと。
「なんだと……?」
ざわつく会場内に、アストロワ卿の低い声が響く。
それを打ち消すように、殿下は「読み上げます」と書を広げた。
「『寒さも土も、領によって違います。遠くの商会に管理されるより、我々の土地に合うやり方を、我々自身で覚えたい』」
「え……?」
意向書の言葉を聞くうちに、どこか遠くに行ってしまっていた感覚が、少しずつ戻ってきた気がした。
「『自分たちのものは自分たちで作る。それが一番信用できる仕事というものです』……よってアリウム嬢に投票すると」
「なぜだ……!」
北方領がなぜ、国政事業省ではなく私個人の名を支持しているのか――。
詰め寄るアストロワ卿に対し、殿下は氷のような眼差しを向けた。
「彼らは、ラグナム領で作られた野菜をすでに受け取っていた。私たちの発信する“国政通信”を読んで、誰がどんな想いで野菜を届けていたのか……知ったのでしょうね」
「……っ!」
殿下の言葉に、頭の中の霧が少しずつ晴れていった。
今度もまた、彼が伝えてくれたのだ――私たちの想いと軌跡を。
それでも、アストロワ卿の燃え盛る瞳は、まだ殿下を捉えていた。
「この意向書は捏造だ! 凍った山の道を馬で走れるはずが――」
「アストロワ卿は、私の魔法をお忘れのようですね」
北方領は王都から遠いが、途中までは寒冷地に強い駅馬車で行ける。
問題は、最後の凍った山道だけだった――殿下の言葉に、会場の誰もが耳を傾けていた。
「そこを私の魔法で開きました」
熱魔法で氷を溶かし、馬が歩ける道を作る程度は容易だった――。
「どんな魔法にも使い道があるのですよね?」
殿下が微笑むと、アストロワ卿は真っ青になった。
そんな彼の横をすり抜け、殿下が王様へ意向書を預けると。
『北方領、16名の票をラグナム側へ加えることとする!』
「……っ!」
逆転した。
会場に歓声が上がる中――視界に透明な波が広がる。
「良かった……」
領民たちが畑を作り、食べ、笑い合う光景――それを守ることができたのだ。
喜びよりも、安堵で胸が満たされる。
「あーあ」
少し間の抜けた声を振り返ると。
アストロワ卿が、笑いながら座り込んでいた。
「ルーデンス様……」
ルナティは少しだけ眉を下げている。
けれど、もう彼のために涙を流すことはなかった。
「アストロワ卿……」
ネクタイを緩める彼に、少しだけ近づくと。
「まさか、負けるとは思いませんでした!」
貴族たちと商会の力を借りて、できる限りの力でぶつかったつもりだった。
それが、私の作った“食卓の物語”に押し負けた――清々しいほどの声で、アストロワ卿は言い放った。
「妻にできなかったのが、ますます惜しい」
「……ご冗談を」
今回は、“緑のサロン”の運営権を巡って、勝者と敗者が決まった。
でも彼と私の志は、まったく違っていたわけではない。
貴族か、農民か。
商売か、食卓か。
それでも、彼なりに国を豊かにしたい気持ちだけは、本物だったのかもしれない。
だからといって、彼のやり方を許すつもりはないけれど――。
「貴女にフラれて、少し意地になっていましたが……良いでしょう。負けは負けだ」
後でまた、正式に書を送る。
真剣な顔で言うアストロワ卿に、首を傾げたところで。
『国政事業省所属、アリウム・ラグナム』
「……!」
王様に呼ばれた。
急いで、でも走らないように御座の前へ参上すると。
「“緑のサロン”は、国のものでも、商会のものでもない。まずは、そこに手を入れて育てる者たちのもの……そうだな?」
「……っ、はい、王様」
王様から差し出されたのは、正式な権利書ではなく、王印の入った仮の権利証だった。
そこには確かに、「事業担当者、アリウム・ラグナムへ運営権を預ける」と記されている。
「そなたを責任者として、農民主体の運営を認める。正式な登記は後日、国政事業省で行うが……この場で方針を明らかにしておこう」
「ありがとうございます……王様」
王様から授かった証書を慎重に抱え、そのまま農民たちの席へ向かった。
「アリウム様、やりましたね!」
「アタシたちの料理がみんなに届いたんだ!」
クレソン夫妻をはじめ、今日の実演会を手伝ってくれたラグナム領民たちが、暖かく迎えてくれる。
そんな彼らに微笑み――仮の権利証を、農民たちのまとめ役であるクレソン夫妻に差し出した。
「これからも一緒に歩んでいただけるのなら、受け取っていただけますか」
最初、彼らはぽかんと口を開けていた。
でも、やがて――旦那さんが大粒の涙を落とした。
「オラたちの畑が、本当の意味で自分たちの畑になるんだなぁ……」
「何言ってんだい! アタシたちの畑は、もっとすごいもんになるんだよ」
全国の食卓を彩るための、大事な畑の見本にしていく――クレソン夫人の決意に、彼女の手を取って頷いた。
彼らが、その気持ちを後世にまで伝えてくれるのならば――きっと、みんなのための“緑のサロン”が広がっていくはずだ。
どれだけ長い時間がかかったとしても。
「これからも、できることをさせていただきます」
「ああ……でも、アリウムお嬢様は頑張り屋だからね。たまには旦那と休みにおいで」
「……っ!」
柔らかくて力強い胸に抱きしめられ、目の奥が熱くなった。
やっぱりこの人たちは、私が小さい頃から見ていてくれたのだ――私のしてきたこと、傷ついてきたことも、全部。
「アリウム……間に合って良かった」
「殿下!」
駆けつけてくれた殿下に近づき、手を握ると。
どんな時でも温かい彼の手が、震えるほどに冷えていた。
「たった数日で北方領と都を往復するなんて……ずいぶん無茶をなさったようですね」
「私たちのサロンのためですから」
ふたりで微笑み合っていると、会場の歓声が遠くなっていった。
いま私が感じているのは、殿下だけ。
凍った道を溶かし、自分を温めることも忘れて戻ってきてくれた人の、冷えた手だった。
次回、アリウムとナナラピスの物語は、ふたりらしい結末へ。




