10話 食卓か、権利か。
今すぐ手に入るお金か。
それとも、これからも続く食卓の豊かさか。
“緑のサロン”に戻り、まずは自領民へ問いかけてみると――。
「そりゃあ、一瞬で消える金よりアリウム様をお助けするだ!」
ラグナム領の農民を仕切るクレソン夫妻は、当然のように協力すると言ってくれた。
「ですが、迷っている方もいるでしょう?」
「ああ。まったく恩知らずな連中だよ! アタシたちが食っていけてるのは、アリウム様のおかげだってのに」
「いえ……高い給金を出すと言われれば、当然です」
そんな彼らだって、ここを同じように愛してくれていることは知っている。
「とにかくアタシらは、アリウム様に賛成だ。さっそく、“家庭料理教室”の準備開始だね?」
「はい、お願いいたします。私は同僚の子を呼びに行ってきますわ」
厨房に向かうクレソン夫人と別れた後。
緑の蔦で覆われた、透明なガラス屋根を見上げた。
今日は曇天のせいか、緑が少しくすんで見えているけれど――屋内畑で熱魔法を使う殿下を見ていると、サロンの中が輝いて見える。
「わぁ……殿下の魔法で、トマトがこんなに美味しくなるのですね」
同行しているシュシュカも、農民たちとともに目を輝かせていた。
一緒に作って、食べて、笑い合って――このサロンはもう、ただの畑ではなかった。
これが商売の種になるのは、やっぱり許せない。
子どもたちに囲まれる二人を眺めていると、殿下がふと顔を上げた。
「アリウム、クレソン夫人の“料理教室”、もうそろそろですか?」
「ええ。シュシュカ、あなたも講師よ。手伝ってちょうだい」
「はい、もちろん!」
省内で“ラグナム領案”に賛同してくれたのは、ここにいる二人――殿下とシュシュカだけだった。
“緑のサロン”の運営権をもつ国政事業省、その長官であるシローヌは中立の立場へ。その他の同僚たちも、それに倣ったのだ。
商会を束ねるアストロワ卿はともかく、私たちには、広く味方を増やす活動をしている時間はない。
各代表として選ばれる貴族、商人、職人、農民――彼らが魅力を感じてくれる食卓を、ひと月後の実演会のために準備しなければ。
「よし、娘さんたち揃ったね?」
これから、50年間主婦をしているクレソン夫人に、家庭料理を教えてもらう。
エプロンを身に着け、シュシュカと二人、クレソン夫人に頭を下げた。
「ですがアリウム様、こんなに彩り豊かな野菜でご馳走を作れば、どんな人間でも感動するのでは?」
いつか私が国政事業省の面々を招いて行った、“伝説の晩餐会”を羨ましく思っていた――レタスを千切りながら言うシュシュカに、思わず苦笑いを浮かべた。
「あれは官僚相手だったからで……今回、同じことをやっても仕方ないわ」
目に見える凄いものではなく、実際に野菜が食べられない国民たちに向けた、“再現できる食卓”を作らなければ――。
こうして、“緑のサロン”の民宿で寝泊まりし、生活に馴染む料理を教わる日々が過ぎていった。
農民の台所を知るクレソン夫人。
平民の食卓を知るシュシュカ。
私たちはそれぞれの知っている暮らしを持ち寄って、実演会の準備を進めていった。
そんな中、ひとつ気になったのは――都とラグナム領を往復する殿下が、畑以外は民宿の文机から離れなかったことだ。
横目で見たところ、せっせと書簡を作っているらしい。
しかもなぜか、その横にはどこかの“山道記録”が開かれていた。
(都に帰ったら、聞いてみよう……)
そうして瞬く間に時が過ぎ、投票期日5日前の朝。
「私も、揃えたい書類がございますので」
ひと足先に都へ帰る。
そう言いだしたシュシュカの馬車に乗り合わせて、私も帰ることにした。
真っ先に納屋へ戻ると――。
「おかえりなさい、アリウム」
「ナナ様……!」
彼は約束通り、畑に水を撒いてくれていた。
「一緒に花紅茶を飲みませんか?」
「では、私が」
殿下の沸かした紅茶を飲みながら、中でひと息ついたところで。
「ねぇ、ナナ様」
ずっと気になっていたことに、踏み込むことにした。
「最近は、書斎にこもりきりなのでは?」
目の下の隈が酷い。
馬車寄せで初めて声を掛けたときみたいだと、冗談めいて言うと。
「それは貴女もですよ」
突然、目の下に触れた指に、ピクリと肩が動いた。
こうして触れたのは、いつが最後だったか――もう思い出せない。
頬を撫でる手が心地良くて、油断すると眠ってしまいそうだ。
「……ずっとこうしていたい」
「ナナ様……」
ふだん決して言わないような言葉に、油断していた胸が飛び跳ねた。
疲れているのに満足そうな顔も、何だかずるい――。
「これから冷えると思うので……貴女の熱を分けてもらえて良かった」
「あ……」
離れていく熱に、思わず声が漏れてしまった、その直後。
立ち上がった殿下の手が、そっと髪に伸びてきた。
「……行って参ります」
言葉とともに額へ触れたのは、小さな熱。
「……っ」
「当日、遅れてしまうかもしれません。ですが、必ず駆けつけます」
どこへ行くのか尋ねる間もなく、殿下が納屋から出て行った後。
深いため息と同時に、崩れるようにテーブルへ伏せてしまった。
「はぁ……」
不意の口づけも、耳元に囁きを残していくのも、本当にずるい――。
「でも……」
私は、自分で思っていたより単純みたいだ。
彼の温度を少しでも感じるだけで、“5日後は絶対に勝てる”という気が湧いてくるのだから。
ついに来た投票日、そして実演会当日。
サルスベリの木が並ぶ、石畳の城門前広場には、赤い絨毯を敷いた木組みの壇が設けられていた。
そこに集まったのは、各領の代表たち――貴族、商人、職人、農民からひとりずつ。合わせて何百人もの国民が長椅子に腰かけている。
彼らは隣の天幕に設けられた、王様の御座に向かって何度も頭を下げていた。
その中には、国政事業省代表で、どちらの派閥にもつかなかったシローヌの姿もある。
そして、“ラグナム領案”代表の私とシュシュカ、“アストロワ商会案”代表のアストロワ卿は――壇の上で、白布をかけた卓を挟んで向かい合っていた。
「アリウム様……私、気持ち悪くなってきました」
「シュシュカ、落ち着いて……!」
こんなに大勢の人に見られる機会がないと、シュシュカは卓の下に隠れようとした。
その卓の上には、アストロワ商会の模型や計画書、そしてラグナム領の野菜や鍋を置く調理台が、向かい合うように用意されている。
これらを前にして、緊張するのも無理はない。
(私は……大丈夫)
そう繰り返し唱えていなければ、正気でこの場にいられない。
『聞くがよい、皆の者!』
音声拡張魔法を通した王様の声に、全身が震えた。
『これより、“緑のサロン”の運営権をかけた代表会投票を行う!』
いよいよ、“緑のサロン”を巡る、私たちの戦いが始まるのだ――。
『“緑のサロン”の野菜を輸送している、北方領にも代表参加を依頼したのだが……』
あそこは寒冷地で、夏でも山の向こうは道が凍っていて馬が進めない。
そのため到着が遅れているようだと、王様は会場を見回した。
『本日中に到着した代表、あるいは王印付きの意向書を届けた領の票は有効とする……としておこう』
後から増える票があるかもしれない、ということか――。
とにかく今は、目の前の人たちを“私たちの方法”で納得させなければ。
『まずは“アストロワ商会”から、実演会を始めよ』
「はい、我が王!」
久々に目にしたアストロワ卿は、いつも以上に瞳を燃え上がらせて――立派な模型に手をかけた。
どうやらあれが、彼の財力によって拡張する予定の、新しい“緑のサロン”らしい。
「皆さま! 我々アストロワ商会に経営を任せていただければ、十年以内にも全国各領にひとつ、この“緑のサロン”が創設されるでしょう!」
「……っ」
たった十年で、100以上ある領にあれを作ることができるというのか――。
アストロワ卿は音声拡張魔法も使わずに、自前の声で堂々と代表たちに訴えている。
「こちらは制服の試作品です! 働く意思があれば、身分に関係なく雇用できるよう手配いたします」
また、農業従事者、農業講師役問わず、即時給付金を支給する――アストロワ卿の熱弁に、会場から歓声が湧き上がった。
(さすが大商人……)
話術が桁違いに上手い。
「あの制服を着れば、俺もちゃんとした働き口を得られるのか……?」
アストロワ商会の制服に、平民らしき青年が見惚れている。
「商会が責任を持って管理してくれるなら、うちの土地を安く貸しても良いかもしれないな……」
小領地の貴族らしき紳士が、アストロワ卿を見据えている。
「来年の食卓も大事だけどよ……今年の冬を越せなきゃ意味がねぇ」
どこかの領の農民代表も、子どもの薬代、借金、屋根の修理、冬支度など――それぞれ給付金に魅力を感じているみたいだ。
「国費の負担は初年度で半分以下、失敗時の損失は我が商会が負います!」
『ほう……?』
王様まで、少し前のめりになっている。
「アリウム様……」
「……シュシュカ、今は耐えて」
誰でも雇ってもらえる。
商会が責任を持つなら、失敗しても領民を飢えさせずに済む。
国費が減るなら、他の事業にも金を回せる。
希望を宿した国民たちの声が、少しずつ広がっていく中――必死に唇を噛み締めた。
「善意で畑は広がりません。制度と資金と責任者が必要です!」
アストロワ卿の言葉は、どれも間違っていない。
けれど――私は怖く感じてしまう。
美しい模型の中に、働く人の姿はあった。
でも、食べる人の顔がない。
彼が提示したのは、魅力的な数字と、整えられた仕組みだけだ。
「シュシュカ、大丈夫よ」
私たちが見せるのは、彼らとは真逆のもの。
「さぁ、みんなのための食卓を彩りましょう!」
震えるシュシュカの手を握り、彼女と一緒に卓の前へ進み出た。
「あの人が、“緑のサロン”の生みの親らしいぞ」
「ラグナム家の長女って……“豊穣の女神”の姉か?」
好き勝手な噂を掻き消すように、声を上げた。
「これから、お昼ごはんを作ります」と。
「昼ごはん……だと?」
ざわめきの中で、はっきりとアストロワ卿の声が響いた。
「高級な肉も、香辛料も使いません。ですが、これが……“緑のサロン”が生まれてから、ラグナム領の農民たちが当たり前に食べているものです」
登壇してくれた、クレソン夫人たち――ラグナム領から助っ人に呼んだ10人の主婦に頭を下げ、一緒にエプロンを身につけた。
彼女たちが並べたのは、石の国の貧しい家庭にもひとつはある、石の鍋と匙、それに数日経って、硬くなったパンだけ。
そして――赤、黄、緑、紫に輝く、今朝採れたての野菜が詰まったバスケット。
「おお……あんな高級食材を!?」
「いいえ。こちらは毎日、ラグナム領民たちが食しているものですわ」
誰かの声に答えれば、会場中がさらにざわめいた。
クレソン夫人が鼻歌を歌い、他の女性たちも流れるように手を動かしていく――もはや厨房と化した壇上に、誰もが釘付けになっている。
「さぁ、シュシュカ。私たちも“雑草ソテー”を作りましょう」
「は……はい!」
雑草や硬いパンを目にした貴族たちは、最初こそ顔をしかめていたものの――。
「なんだ? この香りは……」
「母ちゃん、お腹すいたよ!」
もぎたてのトマトで作ったスープ。
草の雑味を消した香草ソテー。
硬いパンに合う野菜のソース。
おまけで、冬のニンジンで作ったケーキ。
卓に並べきれないほど出来上がってきたところで、「どうぞ召し上がれ」と、声をかけると――。
「そのスープ、どんな味なの……?」
「オレにもくれ!」
最初は農民、次に平民、そして様子をうかがっていた貴族まで――代表席に長い行列ができてしまった。
「おお、こりゃ……歯がないワシでも食べられるぞ」
「野菜があるだけで、こんなにパンが美味しくなるのねぇ」
硬いパンをスープに浸せば、一皿の食事になる。
香草を加えれば、雑味のある食材も美味しくなる。
そして何より、明日も作れる。
「こちらが、緑のサロンを通じて実際に変わった食卓です」
腹を満たした代表たちの表情は、どこか穏やかになっていた。
王様まで硬いパンを食し、満足げに頷く様子に、貴族たちも戸惑っている様子だ。
「確かに、早く緑のサロンを作るには、制度とお金、そして力ある立場の人間の管理が欠かせないでしょう。ですが……」
自分たちで育て、自分たちで食べるからこそ、この食卓を誰にも奪われることなく続けられる。
会場すべてに届くよう、喉に力を込めると――。
「……んだ。あれはアリウム様に与えられただけの畑じゃねぇ。オラたちが毎日、土を見て育てた畑だ」
クレソンさんが、壇上のクレソン夫人と目を合わせながら言った。
「そうね……給付金は一回でなくなる。でもこの食卓が続くなら、来年も娘たちに食べさせられるわ」
子どもを連れた夫人が、皿を抱えたまま言った。
「わしでも下ごしらえなら手伝えるぞ。働いて食べられる場所があるんなら、金をもらうより嬉しいわい」
柔らかくなったパンを食べながら、ある老人が言った。
声を上げてくれたのは、当然ながらほとんどが農民や平民だ。
それでも――「領民が自立できるのは良い」と、囁く声も聞こえる。
『さて、問うとしよう』
響き渡る王様の声に、会場がしんと静まった。
『“緑のサロン”を、アストロワ商会の管理事業とするか。それとも、国民の食卓を支える国政事業とするか』
それぞれ、アストロワかラグナム、今回の実演会を行った者の名を紙に記し、投票するように――王様の宣言と同時に、会場を魔法の紙が舞いはじめた。
投票用紙が、代表それぞれの手に一枚ずつ滑り込んでいく。
「残念でしたね、アリウム嬢」
「……アストロワ卿」
まだ結果も出ていないというのに、彼は胸を張っていた。
勝てると思っているのだろう。
会場の反応を見る限り、アストロワ卿は貴族と商人の票、そして給付金に惹かれる票を押さえているはずだ。
でも――。
「どうして自分たちの作ったものを、貴族に管理されなくちゃいけないの?」
「お金があっても、買える野菜がなきゃねぇ……」
目に見えない数字を語られるより、実際の食卓を見せた私たち――勝機はまだある。
隣のアストロワ卿に負けじと、余裕の笑みを向けたところ。
「……そうだな。最後に必要なのは、数字ではなく物語か」
「え……?」
背後を振り返ったアストロワ卿が、手を引いたのは――私とよく似た銀の髪の女性。
灯火色の瞳が、憂いを宿してこちらに向いていた。
「……ルナティ?」
「泣くんだ、ルナティ嬢。君が泣けば、迷っている者たちは“女神”を選ぶ」
アストロワ卿のあり得ない指示に、会場のざわめきが遠くなっていった。
(……どうして?)
もし、またあの子が泣けば、世界はまた私を悪役にするかもしれない。
「あれは……“豊穣の女神”だ!」
「第一王子の元婚約者の……?」
水の中にいるように、ぼやけた声が聞こえてくる。
やがてルナティが、両手を広げた、その瞬間。
広場の端に植えられたサルスベリが、一斉に花房をふくらませた。
「おお……」
“豊穣の女神”と呼ばれる妹の真価に、会場がしんと静まった。
サルスベリの枝先から、淡い紅がこぼれはじめた頃――。
「どうか皆さま、聞いてください!」
泣くだけで世界を手に入れてきた妹の声が、会場すべての視線を奪った。




