8話 湖畔の誓い
帰りの馬車は、揺り籠のように心地よかった。
殿下の穏やかな低音が、彼の胸から私の肩を伝って響いていたから――。
「それで、ナナ様とアストロワ卿はどのような関係だったのですか?」
もし話せるのであれば、教えてほしい。
かすれた声でお願いすると、殿下はゆっくりと息を吐き出した。
「彼と私は、幼い頃から見知った者同士でした。ですが……」
彼は自信家であるがゆえに、人を才能と価値で測るところがある――殿下の声は、かすかに震えていた。
まるで、あの時と同じだ。
うちのボロ屋敷で、4人が過ごした夜、殿下が突然私を訪ねてきた時と。
「もしかして、うちの庭でナナ様が魔法を使われた時……」
たしか、あの時アストロワ卿は――。
『どんな魔法にも使い道があるものですね』
少し棘のある言い方をしていたのが、ずっと心の奥に引っかかっていた。
そのことを指摘すると、殿下の息が少し乱れた。
「……こんな時に、する話ではないのですが」
「いいえ、構いません。ナナ様がしてくださるというのならば」
その暗く濁ったため息を消すためならば、吐き出してほしい。
そう言うと――殿下は少し間を置いて、「王家は……」と語りはじめた。
「代々伝わる魔法は、炎に関するものだと……ご存知でしょうか」
「ええ、もちろんですわ」
社交界に入る貴族ならば、もはや教養として教えられていることだ。
「強力な炎で戦場を焼く兄と比べられ、私は……炎とも言えない熱魔法しか使えませんでした」
自身の価値に悩んでいた殿下が、10年前のアストロワ卿から言われた言葉――『使い道のない魔法だ』――それを殿下は、今でも忘れられないという。
「……そう、だったのですね」
殿下の曇り顔が、2年前の自分に重なった気がした。
妹の豊穣魔法が覚醒して、私の力がほんのちっぽけなものに感じた、あの時と。
「ごめんなさい……辛いことを聞き出してしまって」
「いえ、私が貴女に甘えてしまっただけで……」
こんな時に、余計に暗い話を聞かせてしまった。
そう言って、殿下は私から身体を離そうとした。
「待って」
「え……?」
とっさにシャツの袖を引き留めると、彼は目を丸くした。
自分からこんなことをして、はしたなく思われるかもしれない。
でも今は――殿下の胸に、頭を預けていたかった。
「どうかこのまま、抱きしめて」
「ですが、先ほどあんなことが……」
アストロワ卿の武骨な手の感触を思い出すと、まだ肩が震えてしまう。
でも、殿下の熱を感じていると、震えが治まっていく。
だから、きっと――。
「あなただから平気なんですよ」
今できる限りの声を絞って、そう告げると。
殿下の唇が、かすかに開いた。
「……分かりました」
少し泣きそうな顔が近づいてきて、強く包み込んでくれた。
冷えた身体だけではなく、心まで抱きしめられているみたいだ。
(あったかくて……幸せだ)
「すみません。もっと早く駆けつけていれば」
「……ナナ様のせいではありませんから」
そういえば、どうして殿下はアストロワ領にいたのだろうか。
私が訊ねるより早く、上から穏やかな声が降ってきた――「このままラグナム領へ参りませんか?」と。
急がない馬車をいくつか乗り継いで、ゆっくりとラグナム領へ入った頃。
すでに巨大な朝日が、東の空に昇っていた。
ルナティは、私たちよりもずっと速い馬車で実家へ着いていたらしい。
「少し話がある」と言えば、快く談話室へ通してくれた。
「お茶をどうぞ! ちょーっと、お姉様のお茶より薄めになってしまったけれど」
「……ありがとう」
本当に煎じ足りていないが、せっかく彼女が自分で淹れてくれたのだ。
お茶の入れ方は、いつか教える時が来るかもしれないとして――。
「ルナティ……もう、アストロワ卿とは関わらないほうがいいわ」
話を聞いていたのならば、妹も分かったはずだ。
彼は人の中身ではなく、才能と役割を見ている。
キョトンとしている妹に、そう伝えると。
「薄々、気づいていましたわ」
「え……?」
だからこそ、姉が危険だと思って殿下を呼んだ――ルナティの言葉に、思わずカップを落としかけた。
「そうなのですか?」
「……ええ。昨日の昼頃でしょうか。妹さんから王宮への速達があり、馬を飛ばしてまいりました」
「昼頃って……」
私たちがアストロワ領に着いたばかりの頃だ。
「出発前に申し上げましたでしょう? おひとりで向かうのは危険だって」
まさかあのルナティが、アストロワ卿の顔を見抜いて私を心配していただなんて――。
目を瞬かせるうちに、彼女は胸を張った。
「もう、偉いおじ様たちに惑わされる子どもじゃありませんわ」
「ルナティ……」
あの一件以来、本当に彼女は変わろうとしているらしい。
ただ。
彼女は、「アストロワ卿とはまだ縁を切らない」と言い切った。
「お姉様は“自分のために生きて”とおっしゃいました。私……今度こそ、自分で考えてみたいんです」
「……そう」
私も、私の言葉を違えるつもりはない。
妹の選択に、これ以上何か言えるはずもなく――私たちは、昼のうちに実家を去った。
「……妹さんが心配?」
「え……?」
殿下の柔らかい問いかけに、すぐ答えることができなかった。
正直、私はまだ妹をまっすぐ見られない。
これまで奪われてきた虚しさが、埋められていない。
それでも、なぜか気になってしまうのは――やはり、姉の性なのだろうか。
「……今はとにかく、私たちのサロンへ参りましょう。旅人用の民宿をはじめたので、今夜はそこに部屋を借りてみませんか?」
きっとサロンで働く農民たちも、殿下と会えるのを楽しみに待っている。
あからさまに話を逸らしてしまったけれど、殿下はそれ以上追及せず、「久々ですね」と呟いた。
夏の昼間でも少し冷えた空気に、爽やかな風――この畦道を二人で歩くのも久しぶりだ。
領民たちはすれ違うたび、気軽に声を掛けてくれる。
それは“緑のサロン”で働く農民たちも同じだった。
「あらぁ、アリウム様とナナ様! おふたりが宿泊名簿に記帳してくださるなんて、緊張しちゃいますぅ~」
「ふふっ、早く泊まってみたかったの。部屋は空いているかしら?」
隣領から嫁いできた、私と同じ年頃の女性が対応してくれた。
その後ろでは、彼女の娘がこちらを見上げている。
「あっ、アリウムさまの恋人」
「ええと……」
そういえば、初めて殿下を畑へ連れて行ったとき。
このおさげ髪の子が、「その人アリウムさまの恋人?」と尋ねたことで、領民たちの認識がそうなってしまったのだった。
あの時は、「そういうことにしておこう」と口裏を合わせたけれど。
今の私たちは、堂々とそう名乗って良いのだろうか――。
隣の殿下は、相変わらずの寡黙さを発揮していた。
記帳している時の横顔が、いつも以上の不愛想だ。
「じゃあ、お二人でごゆっくり~」
ひとまず一人きりになって、最近忙しかった頭を休めようと思ったのだけれど――なぜか通されたのは、二名用の部屋だった。
「あの……これは?」
満面の笑みを浮かべる案内係の女性は、「もうすぐ夫婦になられるのでしょ?」と、逃げるように行ってしまった。
「あっ、ちょっと……!」
これはいけない。色々な意味で。
とっさに女性を追いかけようとした、その時――。
「お待ちください」
「え……?」
なんと殿下が、私の腕を掴んで止めていた。
「……その、ちょうど良いかもしれません。どうしても話したいことがあるので」
「え……」
けれど、話したいことがあるという割には、殿下は顔を背けている。
入り口に立ち尽くす彼を見つめたまま、私もなぜか動けなかった。
(この人、本当に殿下……?)
堅物、真面目、不器用――彼をそれらしく形容する言葉は、いくらでも思いつく。
そんな彼が、私と同室でも構わないと言うほど話したいことがあるなんて。
きっと、とびきり重要なことに違いない。
ただ――。
「……ナナ様?」
もう何分――いや、何十分経っただろうか。
私が窓からの景色やベッドの寝心地を確かめている間も、殿下は同じ場所から一歩も動いていない。
「二人きりで緊張なさるのでしたら、やはり部屋を分けた方が……」
「……少し、散歩しませんか?」
やっと口を開いた彼は、まだ目を逸らしたままだった。
でも、ようやく自分から話してくれたのだ。
妙に緊張した様子の彼と一緒に、外の畦道へ戻ることにした。
「もう、日が暮れてしまいますね」
「……はい」
あの大きな夕焼けを連れて、この道を夢中で走ったこともあった――殿下が追いかけて来てくれた時の嬉しさは、今でも忘れない。
そして今日も、私たちが進んでいるのは、あの湖へと続く道だ。
「ナナ様、こちらは湖のほとりですが」
「そこで構わない……いえ、そこが良いのです」
「え……?」
何か、湖でやりたいことでもあったのか――。
聞きたくても、一歩進むごとに吐息が重くなる殿下に、尋ねることなどできなかった。
「あ……ほら、ナナ様。着きましたよ」
いつか冬に来た、湖のほとり。
すっかり昇った月が湖面に揺れている。
ここで殿下に抱きしめられた時の温度も、まだ身体に染みついている。
馬車寄せで殿下に傘を差し出してから、ボロ屋敷で二人過ごしたあのひと月が、私の中で強く息づいていた。
「ねぇナナ様、私……」
あなたのおかげで、この場所が好きになった――そう伝えたかったはずなのに。
「え……?」
振り返った先には、小さな光が射していた。
殿下が差し出す藍色の小箱の中で、金剛石が静かに瞬いている。
「それは……」
いつか見た指輪――それを差し出しながら膝をつく殿下の姿に、胸が震えた。
(そっか、だから……)
殿下の緊張のわけが、ようやく分かった。
油断していた目の奥が熱くなっていく。
「いずれ王太子妃として、やることを無限に増やしてしまうと思いますが……それでも。決して、貴女の手足を縛りはしないと約束します」
やっと顔を上げた彼の瞳は、静かで、強い光を宿していた。
きらめく金剛石よりも、その光の方がずっと信じられる気がする。
でも、私は――。
「……もしかして、気に入りませんでしたか?」
アストロワ卿のように、カタログで好きなものを選んだ方が良かったか。
焦る殿下に、クスっと笑った。
「殿下がご自分で選んでくださったものですよ? 気に入らないはずありません」
「ですが……」
「今できる、もっと簡単な証明がありますわ」
ひざまずく彼を立ち上がらせ、身体を寄せ、じっと目を見つめると――殿下の瞳が揺れた。
意味は伝わったらしい。
それでも彼は、すぐには動かなかった。
「……本当に、いいの?」
いつもの冷静な声ではない。
少し子どものような口調だった。
私が少しでも迷えば、この人は引き返してしまうだろう。
だから――逃げないように、彼を強く見つめ返した。
その瞬間。
言葉もないまま、肩に手が触れ、指が頬をなぞった。
夏の夜の空気が、少しだけ遠のいていく。
「……」
唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。
けれど、その一瞬で――胸の奥に残っていた、冷たい言葉がほどけていった。
綺麗ごとだと笑われた理想も。
迷うことを責めない彼の手も。
まだ受け取れない指輪の輝きも。
ぜんぶ、私の中でひとつになった気がした。
「……すみません」
熱が離れて、少し経った後。
彼は片手で口元を覆った。
「やっと叶ったから……いま何か言うと、すべて台無しにしそうで」
「ナナ様……」
まだ顔が熱い。
殿下をまっすぐ見られない。
でも、後悔はなかった。
私は自分でこの人を選んだのだと、唇に残った熱が教えてくれる――。
「……ところで、これはちゃんと証明になったのですか?」
震える声で尋ねる殿下に、また思わず笑ってしまった。
「はい、十分すぎるほどに」
唇が離れた後も、胸の奥が温かく満ちていく。
まだ指輪は受け取れない。
まだ、終わっていないことがある。
それでも私はもう、迷わない。
この人と一緒に、納得のできる遠回りの道を選ぶのだ――。
翌日。
殿下と一緒に、ラグナム領から王宮へ帰ってすぐのことだった。
「アリウム様、殿下、大変です……!」
門前で待ち構えていたシュシュカが、息を切らして差し出した書簡は――。
「これは、アストロワ領の……」
金剛石の押印を見た瞬間、胸が軋んだ。
(とてつもなく、嫌な予感がする……)
やけに厳重に閉じられた封を、おそるおそる解くと――。
『国政事業省 アリウム・ラグナム殿』
音声記録魔法の、淡々とした声が響いた。
『“緑のサロン”事業の運営権をアストロワ商会へ移譲するよう、国政事業省へ正式に提案いたします』
「なっ……」
先に声を上げたのは、隣の殿下だった。
まだ、頭が追いつかない――。
「それは、“緑のサロン”をアストロワ商会の管理下に置く……ということですか?」
「ええ殿下。名目は運営権の移譲ですが……実質的には、買収です」
殿下とシュシュカの憤る声が、どこか遠くに聞こえるほどに、頭の中が真っ白になっていった。
でも、今は――。
「許せない……いいえ、許さない」
「あっ……アリウム様!」
考えるより先に、足が動いていた。
今すぐ、私たちの執務室へ向かわなければ――。




