7話 才能を愛した男
朝一で厨房からもらってきたパンに、厚く切ったトマトとベーコン、レタスを挟みながら――私は考えていた。
あのアストロワ卿に、お断りを入れるための言葉を。
彼が指輪のカタログを携えやって来てから、数日後。彼が実質的に取り仕切る、アストロワ領へ招待されたのだ。
「……やるなら今日しかない」
ただ、気をつけなければ。
彼を完全に拒絶するのではなく、政治的お付き合いは続けたい。
分かり合える部分があるのであれば、“緑のサロン”を一緒に広げたい。
それを伝えるための足がかりとして、畑の野菜で作ったサンドイッチを持っていくことにしたのだが――。
「お待ちしておりましたわ、お姉様!」
アストロワ領からの迎えの馬車に乗っていたのは、ルナティだった。
目を開く私に構わず、「参りましょうか」と微笑んでいる。
「もしかして、アストロワ卿から何かうかがったの?」
「ええ。本日お姉様が、アストロワ領へ向かうことと……彼とお姉様の婚姻のことも」
もしかすると彼女は、アストロワ卿を私に取られたと思っているのではないか――。
二人で馬車に乗り込んだ後。
いつものように微笑む妹に、震える息を呑んで告げることにした。
「ルナティ、私は別に卿のことを……」
「分かってます」
「え……?」
「あの方はあくまで、私の魔法の師匠ですわ」
だから、自分に何かを遠慮する必要はない――ルナティは以前よりも大人びた口調で言った。
「それに、お姉様がナナラピス殿下を想っていらっしゃることだって」
「ルナティ……」
「ですが、おひとりでは危ないわ」
「危ない?」と聞き返せば、妹はほろ苦い笑みを浮かべた。
「あの方、確かに良い方だわ。でも……『お姉さんなら分かってくれる』って、何度も私に言っていたの」
「そうだったの……」
なんだか少し、胸が騒ぐ。
殿下の心配する通り、アストロワ卿には、私にはまだ見えていない顔があるのではないか――。
いくつかの馬車を乗り継ぐうちに、窓の景色は石造りの街並みから切り立つ山へと変わっていった。
「ようこそ! 金剛石の街アストロワへ」
「お招きいただき、ありがとうございます」
迎えてくれたアストロワ卿は、都で見るよりもさらに大きく見えた。
南風に揺れる赤髪が、燃えるようになびいている。
「厳しい環境に置かれた鉱山地帯ですが、貴女ならきっと大丈夫だ。参りましょう」
「……ええ」
断られるとも思っていない、自信に満ちた態度が胸に刺さる。
でも――今は他領を視察するいち領主として、彼の案内を受けることにしよう。
「はぁ……夏がこんなに暑いなんて。ここに嫁いだら死んでしまいますわ」
「……ルナティ、しっ」
石の国ダイアフェインで、国内最高の鉱石採掘量と国費貢献度を誇るアストロワ領。
“世界一の輝き”と称される金剛石が、あの山々から削り出されているという。
「お恥ずかしながら、我が国の特産品が切り出される様子を初めて拝見しましたわ」
「では、もっと近くでご覧になってください! 主要な方法は地下採掘ですが、安全管理は高い水準で――」
アストロワ卿が生き生きと解説する通り、鉱山の換気や崩落対策は万全みたいだった。
鉱石の運搬路も効率化されているのか、貨車のレールがところどころに敷いてある。
「ふぅん。金剛石って、最初はただの水晶みたいなのね」
「ルナティ嬢、あれは研磨前の原石ですよ。淑女の元へ届く頃には、素晴らしい輝きを放っていることでしょう」
鉱山のすぐ隣に、職人の立派な工房が置かれている。
拡大鏡を片目につけた彼らの職場は、活気づいていた。
「あの上階で、僕の商会に所属する貴族家の担当者が、輸出用の帳簿を管理しています」
採掘から商品化、その販売まで一本化されている――アストロワ卿はすべての数字と仕組みを把握しているようだった。
同じ領主として、悔しいほどに整った領地経営を実現させている。
彼の手腕は本物だ。
ただ――。
「“緑のサロン”も、同じような仕組みで運営すると効率化できるでしょう」
思った通り。
彼は施設の経営自体を、出資した貴族に任せようとしている。
「農民主体で」という私の考えとは、相反する経営方針だ。
(どうやって交渉するか……)
しかもこちらは、相手の要望――私との結婚を断ろうとしている。
「アリウム嬢、お疲れですか?」
「え……?」
「山の気候には慣れていないでしょう。我が家の屋敷へ参りましょうか」
アストロワ卿の馬車が向かったのは、鉱山や街から少し離れた池のほとり。
そこには金剛石の御殿が、うちのボロ家とは比べ物にならない光を放っていた。
案内された談話室も、ランプの傘や絵画の額縁にまで金剛石が散りばめられている。
「何か軽いものでも用意させましょう」
「あ……私、こちらを用意して来たのですが」
「アストロワ卿もどうぞ」と、冷気魔法を封じた箱を取り出すと。
「お姉様のサンドイッチ大好き!」
妹は、いつもの調子でサンドイッチを手に取った。
それでも、アストロワ卿は微笑むだけで手を動かさない。
「ありがたい申し出ですが、僕は大事な商談の前に食事を取らないようにしているのです。集中が鈍りますので」
「……そうですか」
彼の主張は分からなくもない。
けれど、“緑のサロン”の大事な野菜が、薄い紙のように脇へ置かれた気がした。
この人にとって、“食べること”は楽しみではないのだろうか――。
「ルナティ嬢は、こちらでお食事を続けてください」
私とふたりで話したいことがある。
そう言って、彼は私に手を差し伸べた。
「……分かりました」
ついに来た。
アストロワ卿に手を引かれ、たどり着いたのは彼の書斎。
書類は綺麗に整理されているが、金剛石の埋め込まれた棚と置物が目に付く。
透明な花瓶に生けてあるのは、宝石細工の花みたいだ。
アストロワ卿の部屋は美しい。
でも――生きているものの匂いがしない。
「それで、指輪のデザインは決まりましたか?」
「ええと……」
「貴女と一緒ならば、ダイアフェインが“石と緑の国”と呼ばれる日も遠くないでしょう」
「……っ」
この人は、私の才能を見てくれた。
妹の強大で不安定な“豊穣魔法”ではなく、私のささやかな魔法、そして実績も――誰より高く買ってくれた。
でも。
その未来には、土に手を入れる人たちの顔がない。
「アストロワ卿はおっしゃいましたね。『人には、才能に応じた役割が決まっている』と」
「ええ。それが?」
彼は私の指先を掴んだまま、離そうとしない。
ガサついた手の温度が、静かに染みていく。
それでも、言わなければ――。
「農民を愛さないあなたを……私は愛せません」
そう、ぽつりと告げると。
彼は少し眉を動かしたものの、笑顔を見せた。
「僕の買い被りでしたかね。貴女はもっと冷静な方かと思ったのですが……やはり、殿下を捨てられないと?」
愛や恋で、素晴らしい事業をふいにする気か――鋭く燃える目で、そう言われた気がした。
「ですが……痩せた土地で、農業を経験したことのない人々に、誰が農業を教えるのですか?」
アストロワ卿の論に従うなら、貴族に畑は耕せない。
主体になるべきは農民だ。
少し引きつった笑顔に向けて、そう告げると。
「資金さえあれば、領外から講師を雇うことも可能でしょう? それこそ貴女の領から、講師の派遣をお願いしたいです!」
もしそうなれば、彼らに農業以外の収入が増える。
アストロワ卿のまっすぐな言葉に、喉が詰まった。
「貴族主体で管理し、農民たちに分配する。我が領の仕組みを“緑のサロン”に取り入れることで、貴女の理想とする全国展開が実現するのでは?」
「……っ」
卿の言うことは、たしかに素晴らしい提案に聞こえる。
ただ――そうなると、どうしても無視できない問題がある。
「……貴族の経営者たちは、自領で育てた野菜を領民たちに分け与えると思われますか?」
これは同じ立場からの発言だとしても、貴族への侮辱にあたる。
それでも、どうしても確かめなければならない――彼の考えを。
沈黙したアストロワ卿から、笑顔が消えた。
(なんだか……おかしい)
部屋の空気が、軋むような音を立てて冷えていく。
彼の放つ重苦しい気配に、背筋を汗が伝う。
やがて――彼は、私の手を引き寄せた。
「君ほど有能な人間が、なぜ無能な者たちに権利を分け与える?」
「あっ……」
無骨な両手に、肩を掴まれた。
痛くない。
でも、怖い――。
「やめて……離してください!」
初めて知った。
殿下以外に触られると、こんなにも身体が震えるなんて。
「君は自分の価値を分かっていない! いや、君は人の価値の違いに気づいていないんだ」
私を捉えた彼の瞳は、もはや煮えたぎっていた。
「平等なんてもの、この世界ではあり得ない。まずは上から潤っていかなければ、権威をもつ者は納得しない」
「でも、食事は誰にとっても平等で……」
「そんなの綺麗ごとだ!」
息が止まりそうになった。
いつかルナティに対して思ったことを、今度は私が言われたのだ――。
「きれい……ごと?」
彼が正しいことを言っているのか。
私が言っていることは、本当に綺麗ごとなのか。
頭がぐちゃぐちゃで、分からなくなる――。
「アリウム!」
凍りついた頭に響いたのは、温かい声だった。
開かれた扉の前に立っているのは、肩で息をする殿下――。
「……ナナ様?」
揺れる青の瞳が、私を見つけた瞬間――見たこともないほど鋭くなった。
どうしてここにいるのか。
尋ねる間もなく、彼は早足でこちらに近づいて来た。
そして。
「ナナラピス殿下、落ち着いて……」
「彼女を離せ」
殿下のかすかな光を宿す手が、彼の手を振り払った瞬間――。
「熱っ……!」
私の肩を掴む手が、ようやく離れていった。
「殿下……」
彼の顔を見上げた直後、やっと息を吸うことができた。
「私の魔法は、戦場を焼く炎ではありません……ですが、貴女に触れようとする手を止めるくらいならできる」
肩に触れた殿下の手が、冷たい温度を塗り替えていく。
どういう訳か、分からないけれど――今はただ、殿下の胸にそっと身体を預けた。
「大袈裟ですよ、殿下! 僕はただ、“緑のサロン”の創設者と商談を進めていただけです」
唖然としていたアストロワ卿は、すぐにいつもの笑みを取り戻していた。
けれど殿下は、アストロワ卿を鋭く睨みつけている。
「でしたら、私がこの場に呼ばれていないのはなぜですか?」
自分も創設者のひとりだ――そう言い切った殿下に、アストロワ卿の笑みが薄れた。
「貴女もだ。ひとりで向かうなんて」
「殿下……」
そうだ。殿下は最初から、“緑のサロン”事業を自分ごととして考えてくれていたのに。
ただ――いま私がすべきことは、殿下への謝罪じゃない。
殿下の手を握ったまま、視線を下げるアストロワ卿に向き直った。
「国民の食卓を守る施設は、農民主体での運営を貫きます」
「……何だと?」
改めて息を吸い、吐き出した。
これで彼との交渉は、完全に決裂する。
それでも――。
「“緑のサロン”は……民たちによる、民たちのためのものです!」
ラグナム領で毎日畑を耕す、領民たちの笑顔を思い浮かべながら、言い放つと。
「…………」
アストロワ卿の拳が、ピクリと動いた。
それを握りしめ、かすかに歯を鳴らしている。
彼が何をするつもりなのか――震えを抑えられないでいると、殿下の手の力がより強くなった。
やがて――。
「……分かりました。貴女がそのつもりならば、こちらも手段は問いません」
「え……?」
「“緑のサロン”は、国を潤す重要な事業だ。僕はこの国の貴族として、商人として……諦めるつもりはない」
静かに燃える眼光に、身体が震えた。
「後悔しても、もう遅いですよ」
こちらに近づいたアストロワ卿は――私たちの横をすり抜け、書斎を出ていった。
「ルーデンス様……!」
扉の外から聞こえた声は、ルナティのものだ。
まさか、全部聞いていたのだろうか――あの状態のアストロワ卿を追いかけていったのは、少し心配だけれど。
今は、全身が痺れたように動かなかった。
「このまま、私の馬車まで参りましょう」
「はい……」
殿下に支えられていても、足はまだ震えていた。
たぶんそれは、アストロワ卿への恐怖だけではない。
彼に言われた「綺麗ごと」という言葉が、まだ頭の奥で冷たく鳴っていた。




