6話 真・豊穣の女神の軌跡
朝露を浴びたトマトのきらめきほど、目を覚まさせるものはないのだけれど――。
「はぁ……」
ジョウロで水を撒く間、溜め息が止まらなかった。
『僕の妻になっていただけませんか?』
昨晩の、アストロワ卿の言葉が頭から離れない。
花紅茶を冷ましながら、彼がご丁寧に教えてくれたのは――彼が“私”ではなく、“私の才能”を愛しているという話だった。
正直、胸は少しもときめかなかった。
彼が欲しいのは、私ではない。
私の着実な魔法と、“緑のサロン”を広げる仕組み。
創設者の私を伴侶とすることで、事業ごと買い取るつもりかもしれない。
「……でも」
彼の“交渉材料”には惹かれそうになった。
国中の食卓へ、この野菜のきらめきを早く届けるためには、彼の言う「効率」が必要なのだろう。
ただ――本当にそれで良いのだろうか。
(私の幸せは……?)
ぼうっとしていたら、水をやり過ぎていた。
そろそろ小屋に戻って朝食を作らなければ。
休日とはいえ、目を通しておくべき書類は山ほどある。
「……あら?」
あのブロンドのおさげ髪――廊下の柱からこちらを覗いているのは、見覚えのある眼鏡の女性だった。
「シュシュカ……?」
ここは普段、誰も通らないような場所だ。
まさか迷い込んだ――いや、シュシュカに限ってそれはない。
ただ、彼女は畑に実るトマトをじっと見つめていた。
昨晩、柱の後ろに見えた人影は、彼女だったのだろうか。
それでも決して話しかけてくる様子のない彼女に、「おはよう」と声をかけてみると。
一歩、二歩と、彼女はぎこちない足取りで近づいてきた。
「……興味があるようでしたら、召し上がります?」
「ひぇっ……」
それは初めて聞く、ひっくり返った声だった。
彼女はいつも私を見ずに、低く淡々と仕事の話をするだけだったから――。
でも、いつまで経っても返事はない。
私から顔を逸らしたシュシュカは、無言で立ち去ろうとしたけれど。
「いいのですか?」
足を止めた彼女は、消えそうな声で呟いた。
「構わないわ。ちょうど朝食にするところだったの」
「……では」
彼女が、どういうつもりで私を訪ねてきたのかは分からない。
ただ、私に対する拒絶の雰囲気を、今日は感じられない。
「どうぞ、中へ」
室内に案内し、洗ったトマトを切り分けて出したところ。
シュシュカはトマトの断面を眺めたまま、固まってしまった。
「……本当に、いいのですか?」
「もちろん、どうぞ」
おそるおそる果実をフォークに通した彼女が、やっと一口を含んだ瞬間。
「甘いわ……」
いつも張り詰めている頬が、ふわりと緩んだ。
会うたび私を警戒していた瞳が、今は柔らかく感じる。
「この中庭に、日がたっぷり差し込むおかげね」
彼女のこと、“分かりあわなくて良い同僚”と割り切っていたつもりだったのに――こうして私の作ったものを嬉しそうに食べているところを見ると、こちらまで頬が緩む。
「……初めてです」
「え……?」
「トマトなんて、平民どころか貴族ですら滅多に食べられません」
国内産の野菜なんてほとんどない。
輸入野菜は手が届かないほど高い。
庶民はふだん、畜産物と雑味のある草をソテーして暮らしていると、シュシュカはこぼした。
「ですがアリウム様の治める領は、これを当たり前に農民が食していると聞きました」
「……ええ。みんなが毎日畑を育ててくれているおかげよ」
他領の食卓が静かで寂しいものだということは、もちろん知っていたつもりだ。
それでも、実情をこうして聞くと――早く“緑のサロン”を広げなければと焦りが生まれる。
「私たちの“緑のサロン”事業は、この食卓をあなたたちの当たり前にもできるかもしれないの」
いや、「かもしれない」ではなく、いずれ必ずそうしたい。
食べる手が止まらない彼女に、そう宣言すると――皿の端に、滴が落ちた。
「えっ……どうしたの!?」
シュシュカの頬を伝い、次々と涙がこぼれている。
「具合でも悪いのか」と、立ち上がりかけたところで。
「今まで、すみませんでした」
手で涙を拭ったシュシュカが、頭を下げた。
「みんな、アリウム様の悪い噂なんてもう信じていません」
「え……?」
これまで私を一瞬も映さなかった瞳が、まっすぐに私を捉えていた。
「知っているんです。アリウム様の畑が眩しいほど綺麗で、その中で汗を流す貴女が……本当の女神みたいだって」
「シュシュカ……」
以前は彼女を前にすると、胸の奥が小さく疼いた。
それでも仕方ないと思っていた。
ただ、今の彼女は、震えながらも気持ちを伝えようとしてくれたのだ――。
「……女神っていうのは大袈裟だわ」
「いいえ、事実です」
眼鏡を取って涙を拭い切った彼女は、なんだか少し幼く見える。
そんな彼女が少し無邪気に、「女神が育てた果実を食べたなんて、他の人には言えない」――なんて言うものだから、こちらまでつられて泣きそうになった。
私が作ったものを「美味しい」と言ってもらえるのは、何度経験しても嬉しいことだ。
「でも、女神なんて言葉……どこで聞いたの?」
するとシュシュカが取り出したのは、見覚えのある茶色の羊皮紙――殿下が手掛けていた、国政通信だった。
「え……これって」
紙面に打ち出された、“豊穣の女神アリウム・ラグナムの軌跡”の文字に胸が鳴った。
「アリウム様が、“緑のサロン”を全国へ広げるためにしてきたこと……新聞連載のように、毎日各地で紹介されているんですよ」
これで、私の実績が少しずつ全国で認知されていくはずだ――シュシュカの言葉に、思わず目が開いた。
「やはり、ご存知なかったのですね」
「ええ……だって、殿下は一言も……!」
驚きを抑えられない私に、シュシュカはため息交じりに微笑んだ。
「私がアリウム様に謝罪したいと申し上げた時、殿下、おっしゃっていました。『アリウム嬢は、わざわざ自分の功績を話さない方なので』と」
「そんな、それは……」
殿下だって同じではないか。
“私の物語”が書かれた国政通信に手を添え、瞼を閉じた。
殿下は私のしたことが歪まないように、こうして外へ届けてくれている――最初に“緑のサロン”を二人で作り上げた時と、同じように。
「ああ、私……」
どうして一瞬でも、アストロワ卿の誘いに揺れてしまったのだろうか。
今すぐ、すべてが上手くいかなくても。
一緒に考え、一緒に歩んでくれる人がもう隣にいるのに――。
それから私たちは、サラダを食べながら話をした。
“緑のサロン”を作り上げるまでの話。
平民の間での、ナナラピス殿下の人気。
シュシュカが意外にも流行に敏感だということ。
これまでできなかった話を、友人のように――相変わらず、シュシュカの調子は堅かったけれど。
最後に「家族へどうぞ」と、シュシュカにこっそりトマトの袋を持たせて帰した後。
片付け終えたテーブルの上には、指輪のカタログだけが残っていた。
「まずい、出しっぱなしだったわ……」
シュシュカが見ていないと良いのだけれど――捨てるにしても、紙は稀少だ。
あとで油汚れを拭くのに使おう。
「でも、もし殿下に見られたら……」
それこそ、冗談では済まなくなるかもしれない。
すぐに引き出しへ隠そうと、文机に向かったところで。
「私に見られるとまずいものとは?」
「きゃあっ!」
背後からの声に、思わず飛び跳ねてしまった。
「なっ、ナナ様……?」
音もなく部屋に入ってくるなんて卑怯だ――。
そう言いたくても、今は声が出ない。
沈んだ青の瞳を見つめる間にも、殿下にカタログを奪われた。
「これは……」
イタズラがバレた子どものような気持で、その場に固まっていると。
頭のてっぺんに、「やはり」と深いため息が降ってきた。
「それで、これはまだ必要なものですか?」
「え……? い、いえ……」
「要らない」と言い切るより早く、殿下は熱を帯びた手で、分厚い紙の束をくしゃりと握り潰してしまった。
「……」
いつもは心地良い殿下の無言が、今は怖い。
かける言葉が見つからず、沈黙していると。
「……座って話しましょうか」
ぎこちない動きながらも、言われた通り腰掛けると、殿下も私の正面に腰を落とした。
部屋が静かすぎて、自分の心臓の音が聞こえてきそうだ。
「それで? 貴女はどうなさるのですか?」
殿下の口調は、少し早いけれど落ち着いていた。
でも、暗い瞳が瞬きもせずに私を捉えている。
「求婚されたのでしょう。おそらく、“こんなところでは貴女の才能がもったいない”などと言われて」
「なぜそれを……!」
「先ほど、シュシュカとすれ違った時に聞きました」
なんと彼女は、昨晩の帰りにここを訪れようとしていたらしい。ただ、勇気が出ずに隠れていたら、アストロワ卿が訪ねてくるところを見た。
そして今朝謝罪に行ったら、テーブルに指輪のカタログが置いてあるのを見た――そんなことを教えてもらったという。
「あの子ったら……」
やはり抜け目ない。
「それで、貴女のお心は?」
「え……私の、心?」
油断していた胸が、ドクンと鳴った。
「まだ婚約すらしていない。指輪も渡せていない……貴女を縛る権利は、私にありません」
「ナナ様……」
彼の、平静を装いながらも少し震えた声に、胸が強く締めつけられた。
私がアストロワ卿の言葉に揺れたと知れば、いくら殿下でも幻滅するだろうか。
それでも、私は――。
「ごめんなさい……」
あのことを隠したまま、誠実にはなれない。
「……っ」
「え……?」
なぜか青く染まっていく殿下の顔を見て、ハッとした。
「待って、違うのです!」
とっさに立ち上がり、殿下の隣に膝をついた。
「……違う?」
「はい。その、ごめんなさいというのは……一瞬でもあちらの提案に“良いかも”と思ってしまってという意味で」
誓って、殿下から心が離れたわけではない。
胸に手を当て、ゆっくり、少しずつ伝えた。
「……では、求婚は受けないと?」
「もちろんです」
前髪の隙間からのぞく、暗い瞳を見つめたまま言い切ると。
「はぁ……」
殿下は、倒れるようにテーブルへ伏せてしまった。
「……終わったかと思った」
「え……?」
いったい、何が“終わった”と思ったのか。
訊き返しても、「何でもない」と力の抜けた声が返ってくるだけだ。
「それより……」
顔を上げた殿下は、少しだけ口角が上がっていた。
久しぶりに見る、彼の笑顔。
私の不義理を許してくれたのかと思ったけれど――。
「貴女から抱きしめてください」
「……はい?」
謝罪はいらない。
代わりに抱きしめてと、殿下は腕を広げた。
「えっ……私から、ですか?」
殿下は見たこともないほど穏やかな表情で、私が動くのをじっと待っている。
ハグは家族なら当たり前。
殿下とも、もう数えきれないほどしてきた行為だ。
それなのに――足がまったく動かない。
「……焦らしますね」
「違います! 足が痺れてしまって」
さらりと嘘をついてしまったが、実際に身体が動かなかった。
でも、やらなければ。
これはいわば、私の殿下への贖罪。
大袈裟かもしれないけれど――殿下への気持ちを貫き通せなかったのは事実だ。
「……ふぅ……参ります」
「……どうぞ」
自分から近づくと、今まで意識しなかったことが気になってしまう。
香水とは違う香りに、目眩がしそうだとか。
今さらながら、顔立ちが整っていて緊張するだとか。
そんなことをひとつひとつ感じていたら、永遠に自分から抱きしめられそうになかった。
「あの、やっぱり数日検討する時間を……わっ」
広げかけた腕を、そっと引かれた。
殿下の匂いと熱に、頭の中が溶けていく――贖罪とか、緊張とか、そんなものがどうでも良くなるくらいに。
「すみません、我慢できませんでした」
恥ずかしがる様子を見られただけで、十分だ。
殿下の言葉に、頬がカッと熱くなった。
「仕事中や領民たちの前に立つ貴女は、とても凛々しいので」
「ええと……」
「それはお互い様だ」と返したくても、喉が震えて、うまく声が出なかった。
「ああ……やはりアリウムは温かい」
「……ナナ様こそ」
殿下の心臓が、以前よりも穏やかに、でも力強く脈打っている。
この音を聞いているだけで、私は――また明日も頑張れそうだ。
「アリウム、また眠くなった?」
最初は息が苦しいくらい緊張するくせに、いつの間にか気が抜けてしまう。
そのことは、ボロ屋敷で同居していた時から大分バレていた。
「ナナ様、私……」
どれだけ遠回りをしてもいい。
自分が納得できないやり方ではなく、殿下と一緒に少しずつ――私たちの“緑のサロン”を広げていきたい。
でも、今は決意の言葉は胸にしまった。
殿下の熱だけを感じていたかったから。




