5話 隣に立ちたい人ではないのですが。
「まさか……我が国に、こんなにも美しい施設があったとは!」
青空と緑の蔦の天井を見上げるアストロワ卿は、まるで子どものように目を輝かせていた。
「光栄ですわ……ねぇ、殿下」
一方、殿下は畑に視線を落としたままだ。
昨晩の言葉――『彼を協力者にするのはやめた方が良いかもしれません』――今も頭に残ったまま。それでも、“緑のサロン”に感動するアストロワ卿を見ていると、私にはまだその理由が分からない。
ルナティは、「私はまだ、あそこにいく勇気はありません」と家に残った。
そこが、私と殿下がもう一度立ち上がった場所だと、彼女も分かっているのだろう。
それでも今回ばかりは、アストロワ卿のためにも来てもらうべきだっただろうか――。
「おーい、アリウム様でねぇか!?」
トマト畑から駆けてくるのは、クレソン夫妻――自分たちの畑と一緒に、サロンの畑の面倒を見てくれている二人だった。
「皆さん……今日もご苦労様です」
「アリウム様がいらっしゃったぞ!」
他の領民たちもこちらに気づいて、次々と集まってくる。
「おやぁナナ様、ごきげんよう! それと……こっちの方は?」
「彼は……」
私が言いかけたところで、アストロワ卿が大きく一歩を踏み出した。
「初めまして、生産者の皆さん! ルーデンス・アストロワ……こちらの出資者となる予定の者です」
「しゅっししゃ……?」
首を傾げる子どもに対して、アストロワ卿は視線を合わせるように膝を折った。
「君たちの仕事に期待して、僕がお金を出すのさ」
「アストロワ卿……」
子どもに笑顔で接する彼を見ていると、ますます分からなくなる。
殿下が何を恐れているのか――。
ただ。
まだ何も決まっていないはずなのに、「予定」という言葉が出てきたことを含めて。
彼への小さな違和感は、確かに積み上がっていった。
「いやぁ、広大な畑を持つラグナム領だからこその耕地面積ですね! 何種類の野菜を育てていらっしゃるのです?」
畑を回る時、彼はいつも靴が汚れない場所で立っている。
「現在は、野菜や花以外にも綿花などを……あそこに見える黄色の花です」
「ほう、近くで見ても?」
草花に触れる時も、必ず布越しだ。
「サロンの正式な生産者は何名ほどです? 確か最初に出会った生産者夫妻がリーダーを務めているとか」
「……領民106名が、雇用契約を結んでおりますわ」
農民を名前ではなく、「生産者」と呼んでいる。
(やっぱり、何だか……)
畑をひと通り回った後の、夕焼けの畦道。
領民たちと話す以外、終始無言だった殿下。
彼を横目に、アストロワ卿へ、「なぜ畑に触れないのです?」と思い切って尋ねてみると。
立ち止まった彼は、夕日を映した瞳をまっすぐ私に向けた。
「人には、才能に応じた役割が決まっていますから」
自分は書類仕事や貴族との交渉で、自分の立場でしかできないことをしている。
彼は一点の曇りもない声で、そう言い切った。
「畑に触れれば、交渉のための衣服が汚れます。ここまで領主自身が手を伸ばしていては、時間効率が悪いでしょう?」
「それは……」
正直、嫌な考え方だ。
それでも完全には否定できない。
私ひとりで、すべてを管理することはできないのだから。
「確かに、領民のすることすべてに手を貸すことはできません。ですが……」
少しでも寄り添い、ともに手を動かすことも必要ではないか――。
私が10年間大切にしてきた、ラグナム領なりの領地経営。
それを間違いだったと思いたくなくて、静かに言い返すと。
「なるほど。貴女はご自身の才能の意味に気づいていらっしゃらないようだ」
「え……?」
彼の燃えるような瞳に、一瞬、胸を刺されたような気がした。
役割、才能。
彼が繰り返す言葉に、少しずつ、頭の中が乱されていく。
たぶん、彼は間違ったことを言っていない。
でも、私の心がそれを受け入れられない――。
「アリウム嬢」
「…………殿下?」
いつの間にか、殿下の手が腰に添えられていた。
私、倒れそうになっていたみたいだ――。
「早く屋敷に戻りましょう。一日中ヒールで歩き回って、お疲れでしょうから」
「あ……」
殿下に支えられたまま、アストロワ卿の横をすり抜ける間。
卿は笑みを消した顔で、瞬きもせずに私を見つめていた。
都に帰って、何日か経った頃の夜。
中庭の畑で、日中できなかった間引き作業をしていると。
「……あら?」
廊下側の柱の影に、小柄な女性の影が見えた気がした。
月明かりに反射したあれは、眼鏡だったのだろうか――。
「シュシュカ……?」
試しに呼んでみたけれど、返事はない。
そもそも、私と仕事以外の話をしない彼女が、こんなところに来るはずはない。
気のせいだったのだろう――と、泥を払って小屋に入った直後。
軽快なノックの音に、肩が跳ねた。
「えっ……?」
こんな遅くに訪ねてくるなんて、殿下しかいないはずだ。
でも昼間、「今夜は行けない」と言っていたのに。
「……殿下?」
おそるおそる、戸を開けると。
「夜分遅くに失礼します!」
夜闇の中でも輝く笑顔で立っていたのは、見上げるような大男――アストロワ卿だった。
「な……」
「驚かせて申し訳ありません。貴女に急ぎのお話が」
いったい、どうして私の住処が分かったのか。
急ぎの話とは何なのか。
聞きたいことはいくらでもある。
それに、こんな時間に殿下以外の人を自室に入れるのはいかがなものか――。
ここは王宮の中庭で、周囲には衛兵も巡回しているとはいえ。
「そんなに警戒せずとも、話をするだけですが」
「……」
ふと、殿下の言葉――「自分のベッドに男を上げてはいけません」が頭をよぎった。
でも、彼は交渉で不利になるようなことはしないだろう。
「……どうぞ、こちらへ」
念のため戸は少し開けたまま、外から見える椅子へ案内した。
まずは彼を椅子に座らせ、ミルク入りの花紅茶を淹れることにしよう――。
ちょうど先日、殿下が簡易的な湯沸かし台を増築してくれていたのだ。
「それで、お話というのは」
お茶を出したものの、彼は口をつけようとしない。
というより、彼のまっすぐな目は私しか見ていない。
その口から飛び出してくるのは、先日の“緑のサロン”への出資の件か、それとも――。
アストロワ卿の強い視線に耐えきれず、カップの湯気に視線を落とした、その時。
「単刀直入に申し上げます、僕の妻になっていただけませんか?」
妻。
突然降ってきた言葉に、頭が真っ白になった。
「は……」
残念なことに、冗談ではなさそうだ。
彼は珍しく落ち着かない様子で、かすかに肩を揺らしていた。
「ああ、失敬。こんな時くらいは緊張させてください」
なにせ初めてする提案で――と、彼は照れたように言っている。
(分からない……)
“緑のサロン”ではなく、私との婚姻。
しかも仲良くやり取りをしていたルナティではなく、なぜ私なのか――。
「……失礼、アストロワ卿。理由をお聞かせいただいても?」
「それはもちろん、アリウム嬢のお話を、ルナティ嬢からうかがったからですよ」
失脚した第二王子を拾い上げ、彼の名誉を回復させた。
しかも自領に、国内唯一無二の施設を作り上げた――その手腕を買っていると、彼は早口に語った。
「もちろん結婚後も、そのお力を存分に発揮できるよう計らいます」
「でも、私はナナラピス様を……」
「第二王子の求婚を保留になさったのでしょう?」
ハッキリとした声に、全身が固まった。
「どうして、あなたがそのことを……?」
「王宮どころか社交界でも大注目ですからね、あなた方の劇的なロマンスは」
「……っ」
嫌味のない声が、かえって棘のように胸へと突き刺さる。
「ここには貴女のことを正しく見ていない者が多い。こんなところにいたって、貴女が苦しいだけですよ」
別に、私に寄り添っているとは感じない。
それでも、事実をまっすぐ告げる彼の目に、一瞬視界が揺らいだ。
シュシュカの冷たい目。
廊下ですれ違う官僚たちの囁き。
ナナラピス殿下のお気に入り――そう呼ばれるたびに、私の10年が薄い紙のように扱われる気がした。
「貴女の理想はうかがっています。“緑のサロン”を国内に広げたいのであれば、国費に頼らずとも良いではありませんか」
「それは……」
「アストロワ領の商会網があれば、より早く効率的に、多くの食卓へ野菜を届けることが叶うでしょうね」
「……!」
その燃えるような瞳に、胸の中で氷り固まった不安を打ち砕かれた気がした。
(この方の言う通りなら……もっと多くの食卓に野菜を届けられるの?)
「“緑のサロン”の生みの親は貴女です。権利を買い取るのではなく、できれば貴女主体のもと広げていきたいのですが……考えていただけますか?」
この人は、すべて分かって交渉している。
愛や恋ではない。
私の願いのため、資金を差し出す。
その代わり、彼の商売を広げるため――結婚という形で手を組まないかと言っているのだ。
「……っ、私は……」
湯気のなくなったカップが歪む。
息がうまく吸えない。
私が大切なものは、“緑のサロン”だけではないのに――。
「今すぐにとは言いませんよ」
揺らぐ視界の中、分厚い書類――いや、カタログが差し出された。
「これは……」
金剛石の指輪、そのデザインを並べたカタログだ。
「僕とのことを真剣に考えていただけるのなら……まずは婚約指輪、お好きなものをお選びください!」
さっきまでの、隙のない口調から一転。
彼はふだんの明るく力強い調子で言った。
「そんな、私は……」
「次にお会いする時までに、考えておいてください」
「あ……」
アストロワ卿は、カップの中の紅茶を一息に飲み干し――短い挨拶と共に、小屋を去っていった。
嵐の後みたいに、部屋の中はしんとしている。
「カップを……片付けないと」
わざと声に出し言っても、椅子に腰掛けたまま立ち上がれない。
代わりに、かすかに震える自分の指へ視線を落とした。
「殿下……」
まだ何もはまっていない左手の薬指に、いつか光るはずの金剛石を思い浮かべた。
けれど――その隣では、カタログの中の金剛石が冷たく光っていた。




