4話 結局、ボロ屋敷ですか?
「当分は戻らない」と決意して去った実家に、たったの1週間で戻ることになるなんて――。
「おかえりなさいませ、お姉様!」
妙に明るいルナティは、姉の帰りを温かく迎える妹そのものだ。
そしてアストロワ卿まで、「いらっしゃいませ」と、妹の調子に乗っている。
「ルーデンス様、近くの宿からここに毎日通ってくださっていましたの」
「毎日……?」
私の横で暗い気配を放つ殿下と、思わず顔を見合わせた。
もしやルナティ――第一王子の次は、彼と縁を結ぶつもりなのか。
もう彼女の人生は「彼女のもの」だとしても。
彼女の姉として22年間生きてきたせいか、つい心配になる。
そんな私の心境を知るわけもなく、ルナティは私の手を引いて中庭へ向かった。
「ご覧になって! お姉様が育てていた植物に、夏の花を増やしたのよ」
誇らしげに胸を張る妹の後ろには、鮮やかな花畑が広がっていた。
黄色や紫の花が、緑の葉の中にお行儀よく並んでいる。
「いやはや、ルナティ嬢の魔法は素晴らしいですね。もちろん、この奇跡の庭を育て上げたアリウム嬢も!」
「はぁ……」
この男の笑顔、ちょっとムカつくほどにヒマワリが似合う。
それに――実際、植物は豊穣魔法で育った形跡があった。
たった1週間の不在の間に、トマトの実りも増えている。
「……ここまで良くやったわね」
「うふふっ、お姉様に褒めていただけるなんて久しぶりだわ!」
ただ、魔法の効果を上げるために水をやり過ぎているのか、土壌が黒く粘ついているみたいだった。
一時的な実りは増えるものの、おそらくこれでは――。
「実っているけれど、枯れるものも多いでしょう?」
「それは……」
笑顔を崩しかけたルナティが、いつものように目を潤ませた、その時。
畑の前で膝をついていた殿下が、手袋を外して土に触れた。
「失礼」
畑から、少しずつ蒸気が立ち昇る。
彼が触れたところから、土の色が薄くなっていく。
「……相変わらず、お見事ですわ」
殿下の熱魔法は、本当に繊細だ。
植物を枯らすことなく、土壌の湿度を調整できるほどに。
「ありがとうございます、殿下」
「いえ……ここは私の大切な庭でもありますから」
ずっと冷たかった青い瞳が、少しだけ細くなった。
殿下とふたり、ここで畑を育て、笑いあった日々を思い出す。
「ほう……」
静かな声を上げたのは、アストロワ卿だった。
「……何か?」
「いえ、どんな魔法にも使い道があるものだなと」
せっかく緩んでいた殿下の目元が、また鋭くなった。
一方アストロワ卿は、爽やかな笑顔を浮かべている。
(やっぱりこの二人、何かあるな……)
とにかく今は、空気を入れ替えたほうが良いかもしれない。
「お客様もいらっしゃることだし、そろそろ中に入らない?」
花紅茶を淹れると言えば、なぜかルナティは視線を逸らした。
どうしたのだろうか――いつもならば、「お姉様の花紅茶大好き!」とか言いそうなものだが。
「ええと、実は……」
肩を小さく丸める妹に続き、古屋敷の玄関の扉を開けると。
「なっ……」
昼間なのに、あちこち薄暗い。
正面の螺旋階段や廊下には、薄っすらほこりが積もっていた。
たった一週間で、私の家がこんなにもボロボロになってしまったとは――。
「……こんなところに、お客様をお招きしていたの?」
「ええと。ルーデンス様とは、ガーデンテーブルでお話をしていて」
日々食べて、服を清潔に保つのに精一杯。
住居に回る時間とお金がないのだと、ようやく分かった。
そう言って、ルナティは瞼を伏せた。
「お姉様がやっていたことって、ひとつひとつは地味に見えたのに……なくなると、こんなにも家が崩れるのですね」
「そうよ。分かってくれた?」
しおらしく頷く妹に、それ以上言葉をかける気力がなくなった。
「お母様は、私が帰ってもこちらにはお越しにならないですし……」
「……あの人のことは、今はいいわ。それよりも」
こんなに家の中が荒れているのならば、領の経営はいったいどうなっているのか――。
さすがに、素人に丸投げするわけにはいかず、事前にマニュアルと連絡先をまとめてから出て行ったはずだ。
「あっ、そちらはご安心ください!」
ルナティが見せてくれた書類に、ひとまず胸をなで下ろした。
彼女は身の回りのことだけでなく、一応やるべきことはやっていたらしい。
「実は、彼が……」
「彼?」
気まずそうにルナティが視線を送った先は、私たちの後ろで屋敷を見回すアストロワ卿だった。
「いやぁ、中がまさかお化け屋敷になっているとは思いもしませんでしたが……おっと失敬!」
呆れた。
まさか、よその次期領主に手助けしてもらっていたなんて――。
「すみませんでした、アストロワ卿……こんなこと、お願いして良いことではないのに」
「なに、お話を聞きながら片手間にさせていただいただけですよ」
領地経営を片手間。
それも、ちょっと書類を見ただけで、他領の業務を円滑に回すなんて。
(この人、やっぱり只者じゃない……)
何でもないことのように笑う彼を眺めていると、肩にそっと手が触れた。
「……殿下?」
「そろそろ日が暮れます。今夜はアストロワ卿も私も、こちらにお世話になるでしょうから」
今からでも掃除をしよう。
殿下の提案に、深く頷いた。
「はい、流石にこんな環境でお泊めできませんわ」
「でしたら僕も手伝いましょう!」
アストロワ卿の申し出に、思わず「え?」と声が漏れた。
屋根の修理や掃除までできる王子様は例外として。仮にも貴族の嫡子である彼は、さすがに箒を持つわけがないと思っていたのだけれど――。
「では、僕が泊めていただけるというゲストルームを掃除して参ります」
「すみません……お客様にこんなことをお願いして」
「いえ構いません! それでは」
弾むように階段を登っていく後ろ姿を見ても、まだ信じられない気持ちだ。
ただ――今は、食堂を掃除する二人に気を配った方が良いかもしれない。
私が壁やランプのほこりを落とす間、二人は背を向け合ったままそれぞれ手を動かしていた。
「……そちらの棚、動かしますか?」
「あっ……お願いしても、よろしいのですか?」
殿下を前にすると、さすがのルナティも声が静かになるらしい。
あの“緑のサロン”落成式以来、できれば会わせないように配慮したかったけれど。
殿下は彼女がいることも承知で、ラグナム領視察へ同行すると申し出たのだ。
凍りつきそうな空気の中。
私が間に入るべきか、かすかに肩を揺らしていると――。
「殿下は、私を恨んでいないのですか?」
ルナティが呟いた。
「お姉様の夫になる方ならば、どんな方でも家族としてお慕い申し上げるつもりでした。でも、殿下は……」
妹の顔、それに殿下の顔も見られなかった。
ただテーブルを拭く手をゆるゆると動かし、殿下の返事を待っていると。
「恨んでいない、と言えば嘘になります」
殿下は平坦な声で、ぽつりと返した。
当然だ――婚約破棄されるのを見越して、婚約破棄し返した相手だ。
そのせいで、殿下はすべてを失ったのだから。
「ですが、貴女はアリウムの妹です」
「……え?」
「彼女が、貴女との関係を今後も持ち続けると決めたのであれば……私も礼を欠くつもりはありません」
いまは二人を、まっすぐに見られない。
それでも殿下の言葉に、妹が息を震わせた音が聞こえた。
「……殿下。私、あなたに許してもらえる言葉も方法も、今は持っていないの」
だから、謝ることも、泣くことも許されない。
ルナティの言葉に、胸が軋んだ。
「……っ」
やはり妹は変わった。
少しずつ、変わりつつある。
それでも、私が傷ついた過去や殿下とのことを、無かったことにするつもりはない。
だから、私は――。
「ルナティ。おしゃべりもいいけれど、今は手を動かしてちょうだい」
「……はい、お姉様」
これから家族として一緒に暮らすことはない。
でも、完全に縁を切って他人にはならない。
今は仕事でここに来ているだけ――そう思いながら、彼女に接するだけだ。
「アリウム……」
ボロ布を持つ手を止めた殿下は、ただ私を見つめている。
今、なにか声をかけるべきだろうか――。
考える間にも、食堂の扉が勢いよく開いた。
「アリウム嬢! 部屋は快眠間違いなしの環境になりましたよ。ついでに棚の建て付けも直しておきました」
「次は何をすれば?」と、アストロワ卿はトンカチを手に近づいてきた。
「え……もう終わったのですか?」
本当に、貴族とは思えないほど身体がよく動く男だ。
それに、国でも有数の大商人が、棚の直し方を知っているなんて。
「ははは! 資産が潤沢とはいえ、直せるモノは直して使うべきでしょう」
予算の削減になると、アストロワ卿は大口を開けて笑いはじめた。
ただ――今こうして彼と話している間にも、氷のような視線を感じる。
「……殿下」
実家で過ごす夜。
ゲストルームに向かうアストロワ卿に挨拶をし、殿下をいつかのように、亡き父の部屋へ案内した。
「明日は実際に“緑のサロン”へ向かいます。楽しみですね」
「ええ……クレソン夫妻にも、ご挨拶をしなければ」
殿下の声が、いつもより低い。
それに目が合わない。
「……おやすみなさい、ナナ様」
「おやすみなさい、アリウム……」
ベッドの方を振り返りつつも、扉を閉じた後。
「やっぱり、彼のこと……?」
少しほこりっぽい自室に戻った後、ひとり月を見上げる間も、浮かぶのは殿下の暗い横顔だった。
それと同時に、アストロワ卿の輝く笑顔も浮かぶ。
彼は私の目から見ると、ちょっと変。
けれど、周りを動かす行動力と頭脳がある。
それを今日だけでも十分に感じた。
(殿下が話したくないことって、何なんだろう……)
ひとりで考えていても仕方ない。
明日も早いのだからと、ベッドに横たわったところで。
部屋に響くノックに、胸が小さく跳ねた。
「はい……?」
こんな時間に訪ねてくるなんて、たぶん彼だけ――そう思って扉を開くと。
月明かりに照らされた顔が、眩しそうに私を見つめた。
「ナナ様……」
彼は少し血色の悪い唇を開いたが、何も言わない。
ベッドに座るよう促すも、殿下はその場から動かず、鍵だけをそっと締めた。
「おやすみの挨拶をしたばかりだというのに……どうなさったの?」
すると、彼は私から顔を背けたまま――静かに息を吸った。
「やはり、彼を協力者にするのはやめた方が良いかもしれません」
「え……?」
どうして今、そんなことを言い出すのだろうか――。
「理由を教えていただけませんか?」
すると殿下は深い溜め息を吐き、その場に座り込んだ。
夏とはいえ、夜は冷える。
シーツを剥がし、殿下の元へ近づいていくと――。
突然伸びてきた手に引き寄せられ、彼の胸の中に倒れてしまった。
「あの、私は真面目にお話を……!」
「真面目にお話をしたい淑女は、自分のベッドに男を上げてはいけません」
少し怒ったような瞳を見上げて、ハッとした。
いつかこの家で、殿下から言われた言葉――すっかり忘れていた。
「ええと……ナナ様以外の方にはしませんよ?」
殿下相手だと、いつも油断してしまう。
素直に言えば、彼のため息が深くなった。
私を抱く腕の力も。
「とにかく、貴女は隙が多い。アストロワ卿にいきなり手を握らせていたことも心配ですし……」
「殿下も、ほぼ初対面で私の手を握られましたが?」
つい言い返せば、殿下は言葉を呑み込んだ。
それでも、彼の喉はまだ、何か言いたげに震えている。
「……それに、あのことも」
「あのこと?」
「……すみません。今だけ、こうしていたい」
「あ……」
殿下の身体は、いつも通り温かい。
でも、背中に回る手が少し震えている。
そんな彼に、「とにかく明日」と囁いた。
「実際に“緑のサロン”を目にした彼が、小切手の代わりにどんな要求をするつもりなのか……出方を伺いましょう」
「……はい」
殿下とアストロワ卿の間に何があったのか。
あの男の何を、そんなに恐れているのか。
私にはまだ分からないけれど――彼の震える手に、自分の手を重ねた。
明日、畑で分かる。
彼が本当に私の理想とする領主なのか。
それとも――私とはまったく違うものを見ている人なのか。




