2話 王子の新たな物語~共犯者からパートナーへ~
夢のような言葉ほど、現実の書類は分厚い。
でも――私には、願ったり叶ったりの重さだ。
「“緑のサロン”を、全国に広げる……ですか?」
シローヌから差し出された、山のような事業計画書を前に、しばらく息を忘れていた。
ラグナム領だけで終わらせたくない。いつかこの国中の食卓に、緑を届けたい。
そう願ったことはある。
けれど、それが本当に王宮の仕事として動き出すなんて――。
「やります……やらせてください」
答える声が、少し震えた。
けれど次の瞬間、隣から冷たい紙の音がした。
「では、事務補佐は私が担当します」
シュシュカが、表情ひとつ変えずに資料を揃えている。
「え……良いのですか?」
彼女は推薦枠入省の私に対して、思うところがあったはずだ。
それでも、私の前に手を差し出し、「その書類、貸してください」と眼鏡を引き上げている。
「必要な帳簿、予算表、各領への照会文書は後ほどお渡しします。不備があれば、こちらで差し戻しますので」
「差し戻し……」
「国政事業ですから」
彼女の口調は淡々としていて、私への温度は一切感じられない。
でも、「仕事は仕事」――そう言いたげな彼女の働きぶりに、「うまくやっていけるだろうか」という不安は少し晴れた。
(できれば仲良く仕事したいなんて、わがままか……)
「アリウム」
低い声を振り返ると、殿下が対外用の顔でこちらを見ていた。
ただ、青い瞳だけは困ったように揺れている。
「少し、私の仕事を見ていただけますか」
「……はい、お供いたしますわ」
何やら言いたげに見えたけれど、彼は「こちらへ」と呟き、すぐに背を向けてしまった。
早足の殿下に通されたのは、壁が本棚に埋め尽くされた書斎――そこは、殿下専用の執務室だという。
「少しの間、お待ちいただけますか?」
小さく頷き、壁に視線を移した。
棚にさりげなく飾られた写真には、王と王妃、第一王子、そして幼い殿下が笑顔で並んでいる。
「……素敵」
ふと、今の殿下を振り返ると。
眉間にシワの寄った顔には、わずかながら幼い頃の面影があった。
出会った頃は、笑わない男だと思っていたのに――今となっては、稀に見る彼の笑顔をはっきりと思い出せる。
それにしても、見てほしい仕事とは何だったのか。
殿下は文机前の椅子に浅く腰かけ、左手に握ったペンで何やら書いていた。
文字ではなく、絵に見えるが――。
壁に沿うようにして、殿下の後ろに回り込むと。
茶色の羊皮紙に細い羽ペンで描かれているのは、見覚えがある木組みの建物――蔦で覆われた、“緑のサロン”の外観図だった。
その隣の畑で働く、農民たちの小さな挿絵が可愛らしい。
「……」
どうやら、見られていることに気づいていないみたいだ。
殿下は息をするのも忘れたかのように、施設の用途説明や運営費、収穫量など、細かく書き込んでいる。
そして最後に綴ったのは、『発案者:ラグナム領領主 アリウム・ラグナム』という注釈――。
「えっ、私の名前?」
「……っ!」
殿下の肩が跳ねた、瞬間。
振り返った彼の瞳が、視界いっぱいに広がった。
「あ……」
頬にかかる息に、鼓動が跳ねる。
痺れるような熱が、指先まで突き抜ける。
(また、触れそうな距離……)
目を逸らすこともできず、固まっていると。
「……これは、私が長らく担当している仕事のひとつで」
顔を逸らした殿下の低い声に、浮ついた熱がすっと引いていった。
殿下が真面目に仕事しているというのに、私は――。
自分の頬を叩きたい衝動に耐え、笑みを繕った。
「……なぜ、私の名前が?」
「こちらは国内の各所に飛んでいく、“国政通信”です」
「えっ……?」
そういえば、この茶色の羊皮紙――自領の掲示板に、毎月貼られているものだ。
そこには国費で行われた国内の事業建設の施設名、用途、外観の写真風イラストが細かく載っていた。
まさか一国の王子様が、国中の掲示板職人をしていたなんて――。
「10代の頃に与えられた簡単な仕事……“王宮報”作りの規模が、国内まで広がっただけです」
控えめな声に、「もっと誇って良いことだ」と返した。
どんな身分の国民にも、平等に国政情報を発信しているなんて。さすが、ラグナム領の農民たちに大人気の殿下だ。
「ですが殿下、これは私だけの力で作ったサロンではありませんので……」
それこそ殿下、そして何より領民たちの力あってこそだ。
「だからこそ、貴女の名前を載せる必要があります」
「え……?」
誰が作ったか分からない事業は、また簡単に奪われてしまう。
殿下は真剣な口調で言った。
「ルナティ嬢の“涙の物語”で、貴女も私も奪われたでしょう?」
だから、成果は正しく記録しなければ――。
殿下の言葉に、頬が熱くなった。
私は何も考えずに謙遜してしまったが、殿下はそこまで考えてくれていたのだ。
「美談は簡単に持ち主を変えます。だからこそ、正しく残さなければ」
「……そんな意図がおありでしたのね」
恥ずかしい。
もはや殿下の方が、私よりもずっと現実的に“緑のサロン”を守ろうとしてくれているのではないか。
熱い頬を押さえながら、そうこぼすと。
殿下は身体ごとこちらを振り返り、そっと手を取ってくれた。
「あの……?」
暖かくて優しい指が、私の手のひらをなぞっている。細かい傷を確かめ、労わるように。
「私は、貴女のように畑を作ることはできません……ですが、貴女が作ったものをなかったことには決してさせない」
これで少しずつ、私たちの“緑のサロン”事業を発信していくつもりだ。
殿下のまっすぐな声と視線が、胸の中に溶けていく。
「貴女は、自分の功績を人に話さない方ですから」
「殿下……」
最初はただ、妹の“かわいそう物語”を終わらせるための共犯者だった彼。
それが今、“緑のサロン”を育てるために欠かせない存在になっている。
涙をこぼさないように、頼もしいパートナーへ微笑んだ瞬間。
「……っ」
殿下は手の甲で口元を隠し、視線を逸らした。
「どうかしましたか?」
「危ないので、これ以上笑わないで」
「……危ない?」
涙を堪えた顔が、そんなに見苦しいものになっていたのか――。
とっさに手で顔を覆った、直後。
手首に熱いほどの手が触れた。
「その……そんなに可愛い顔で笑われると、触れたくなるので」
「え……?」
今朝、廊下で挨拶した時は平然としていたのに。
私ばかりが息を乱されていると思っていた。
(それに今……可愛いって言った?)
とても、彼の顔をまっすぐ見られない。
答えられないまま、唇を引き結んでいると。
「本日はもう、納屋に帰りましょうか」
殿下は私の手首を掴んでいた手をそっと離し、代わりに腕を差し出した。
「今日こそ、貴女のトマトパスタをご馳走になりたいです」
「それは嬉しいのですが……よろしいのですか?」
伯爵令嬢とはいえ、ここでの私はいち官僚だ。
「まだ婚約もしていないのに、昼間からあ……逢引していたら、よく思われないのでは?」
いくら殿下が、私を「将来の妃」として周知してくれていたとしても。
震える声を抑え、そう言うと。
「でしたら、秘密の逢い引きということで」
バレてしまったら、もう諦めて婚約してほしい。
殿下は開き直ったように笑った。
「もう……」
滅多に笑わないくせに。
そんな顔を見せられたら、嫌だとは言えない。
「今すぐにでも正式に婚約したいところですが……貴女は望まないですよね」
「……ええ、まぁ」
私は、恋をしに王宮へ来たわけではない。
自分の新たな物語を始めるために来たのだ。
でも、殿下にはいつか伝えておかないと――もう彼を、ただの共犯者として見ていないことを。
「心配ですか?」
「え……?」
ふと顔を上げると、殿下は迷いのない目で、「待ちます」と言い切った。
「おそらく貴女も……俺のこと、嫌いじゃないと思っているので」
「ナナ様……」
耳を染める殿下の手に、そっと自分の手を重ねた。
この熱が当たり前になるまで、私たちはこのまま、そばに居られるのだろうか――。
翌朝。
職場の執務室に向かう、長い廊下を進んでいると――。
「……おはようございます、アリウムさん」
朝日を浴びる殿下が、少し眠そうに立っていた。
「……おはようございます、殿下」
ぎこちない朝の挨拶を終えると、彼は当たり前のように私の隣に並んで歩き出した。
無言で、緊張したよう肩を張って。
「そういえば、シュシュカのことですが」
いくら私が殿下の推薦とはいえ、彼女の昨日の態度には疑問が残った。
殿下の言葉に、思わず目を開いた。
あの時の彼は、シローヌと話をしていたと思ったのに。
(私たちのやり取りを、ちゃんと見てくれていたのか……)
「私から話をしておきましょうか?」
シュシュカは今年入ったばかりの新人だが、仕事は信頼できる子。
ただ、これから一緒に仕事をする上で、あの態度は見過ごせない。
そんな殿下の申し出は、ありがたいけれど――。
「実力で見返すだけですわ」
目を丸くする殿下に、強気で微笑んでみせると。
「やはり貴女は強い人だ」
「ふふっ、そう思っていただけるのならば、成功ですね」
私への態度は別として。
彼女の仕事への態度は、きっと誠実なのだろうと思う。
だから、きっと上手くやれる――そう胸の中で唱え、執務室に入ると。
「おお、ナナラピス殿下! お仕事中に失礼いたします」
耳がキンとするような声量で私たちを迎えたのは、初めて見る大男だった。
豪華な宝玉の装飾と刺繍のローブから、貴族にしか見えないけれど――妙に活気のある人だ。
蜜蝋で整えられた赤髪は、火のように鮮やかで、瞳には力がこもっている。
「銀の髪に夕日色の瞳の淑女……もしや貴女が!?」
「えっ……?」
彼は私を捉えた瞬間、大股で迫ってきた。
こうして近くに寄ると、胸板しか見えないほどに大きい――。
「ラグナム伯爵家当主、アリウム嬢ですね?」
「失礼、どこかでお会いしました……?」
「いえ。ですが、僕は貴女の立ち上げた“緑のサロン”に大変感銘を受けまして!」
私の事業を知っているらしい。
でも、時々参加する社交界パーティーでは、こんな大男見たことがない。
「ああ失礼、ルーデンス・アストロワと申します」
「ぜひ、創設までの武勇伝をお聞きしたい!」と、彼は私の手をとってキスを落とした。
この自然な所作は、舞踏会慣れした貴族の挨拶そのもの――けれど、彼の熱気に満ちた雰囲気は貴族らしくない。
いったい何者なのか。
考える間にも、隣の空気が冷えていった。
「……っ」
殿下が、あの氷の表情で彼を見据えている。
「ええと……光栄ですわ、アストロワ卿」
とにかく、落ち着いて話ができる場所に案内した方が良さそうだ。
遠巻きにこちらを眺める同僚たちを横目に、奥の談話席へご案内しようとすると。
「ご機嫌よう、お姉様」
甘く響く声に、全身が凍りついた。
「…………え?」
アストロワ卿の後ろから現れたのは――私とよく似た顔。
ここにいるはずのない、彼女。
「ルナティ……どうして」




