1話 姉の新たな物語~甘くて辛い王宮生活~
王宮の、石造りの内門をくぐった瞬間。
祝福より先に、視線が刺さった。
「あの方でしょう? ナナラピス殿下がルナティ様から乗り換えたっていう姉」
メイドや騎士、出入りの商人たちが、私を横目に囁き合っている。
ここも社交界と同じ。人はどこでも、他人の恋と噂を勝手な物語にしたがるらしい。
「はぁ……やっぱり」
あの落成式で民の噂は塗り替えられたけれど、王宮の内側では噂がしぶとく残っている。
それでも――私はもう、ひとりではない。
旅行鞄の取っ手を握り直し、背筋を伸ばした。
新しい仕事。新しい暮らし。
そして、“緑のサロン”をうちの領以外にも広げられる可能性を秘めた場所。
期待に胸が震える中、ひとりだけ私を見つめる彼の元へ、まっすぐ歩いていった。
「アリウム……お待ちしておりました」
硬い黒髪に、氷の表情の第二王子――ナナラピス殿下。
それでも、私を見る青の瞳だけは少しも揺れていない。
「殿下……」
瞳の奥に揺れる光を見ると、やはりほっとする。
ここには彼がいるのだと。
「貴女のお部屋へご案内します」
殿下は私の旅行鞄をさり気なく取り、腕を差し出した。
「あまり特別待遇はされない方が……」
「貴女を将来の妃として迎えるつもりだと、王を含め皆に話しています」
「え……?」
一点の曇りもない声に、肩が震えた。
金剛石の指輪を見せられた時から、分かってはいたけれど――殿下は本気で考えてくれているらしい。
「返事を急かすつもりはありませんが、王宮で貴女を侮らせないために、私の意思だけは明らかにしておきました……参りましょうか」
「……はい」
殿下の腕に手を添えると、まとわりつくような視線が剥がれていく気がした。
胸を張る彼に、私も背筋を伸ばしてついていく。
殿下が隠さないのなら、私も隠れるわけにはいかない――。
「こちらです、アリウム」
「あ……」
王宮の隅にある、人の気配がない小さな中庭。
光射す畑と蔦の這う小屋が、青空の天井と石壁に囲まれていた。
「殿下、これは……」
「はい、先ほど申し上げた通りの納屋です」
まさか、本当に納屋へ案内されるとは思ってもいなかったが――小屋の中は質素ながらも、清潔で使いやすい家具が並べられていた。
外観は年季が入っていたが、中は新しい木の香りがする。
「僭越ながら、私が改装いたしました」
「え……殿下がおひとりで?」
まさか彼が王宮に戻ったひと月の間で、これをやったというのか。
床は土で汚れても拭きやすそうだ。玄関口には、種や道具を置きやすそうな棚とエプロンを掛けられそうな金具がついている。
「窓は南向きにも増やし、そちらの文机には引き出しもつけてあります。素人の仕事で恐縮ですが」
「いえ、そんな……!」
公務や国政事業省の仕事だけでも、日々激務だろうに。
「気に入っていただけると良いのですが……」
豪華な天蓋付きベッドより、泥を落とせる水場が用意されていることに、目が熱くなった。
「アリウム、どうしましたか?」
「すみません……嬉しくて」
洗い場に感動するなんて、自分でもどうかしていると思うけれど――。
ここにあるもの全てから、私の生活を考えて作ってくれたことが伝わってくる。
「貴女が王宮に合わせるのではなく、王宮の中に、貴女が息をつける場所を作りたくて……」
胸を張るのではなく、さり気なく話す殿下に、やはり不器用な人なのだと思う。
(これから私は、ここで寝食をしながら仕事をするんだ……)
玄関口の棚を、さっそく持ち込んだ種でいっぱいにしたい。
私にとって“王宮いち特別な部屋”を見回すうちに、身体が疼きはじめた。
「先ほどの庭と畑も、自由にしていただいて構いません」
「良いのですか!?」
そこまで許してもらえるなんて、思いもしなかった。
ラグナム領にいる時と同じ――とまでは言わなくとも、ほとんど変わらない環境で過ごせそうだ。
「殿下、さっそく昼食にいたしませんか?」
「それならば、シェフに食事の用意を……」
「何をおっしゃっているのです! 私たちが作るのですよ」
殿下が運び込んでくれた旅行鞄を解き、トマトの種袋を取り出した。
それを小脇に抱えたまま、唖然とする殿下の腕を引いて、庭へ向かう。
「まさか、もう畑仕事をはじめるおつもりですか?」
「初日なのに?」と目を丸くする殿下に、「当然」と返した。
初日だからこそ、土地も人間関係も、早めに耕しておくに限る。
「ですが貴女の魔法でも、トマトを実らせるには一晩かかるのでは……」
「殿下、もう春ですよ。あなたの魔法で温度を保っていただければ、きっとすぐに実がなります」
初めて殿下とトマトを育てた、空風の季節とは違う。
高鳴る鼓動を感じながら、殿下を見上げると。
「……では、やってみましょうか」
袖を捲った彼は、私の背後から片腕を出し、静かに息を吸い込んだ。
「『凍える地に春の息吹を』」
「わっ……」
初めて聞く殿下の詠唱に、胸が跳ねた直後。髪をなびかせるほどの温風が、庭を吹き抜けていった。
「一緒に昼食作りを」と、軽くお願いしただけなのに。
殿下は本気で魔法を使ってくれている。
だったら、私も――。
「『咲き誇る花を見せて』」
畑の土に触れ、唱えると。
あちこちで緑の芽が土を持ち上げ、瞬く間に茎が伸びていった。
灰色の石壁の中に、緑が広がっていく。
「殿下、やりましたね!」
緑の小さな実が膨らみ、赤く色づいていく過程を見るのは初めてだった。
私だけの力では、ほんのわずかな時間でここまで成長させることはできない。
「旬の野菜はさらに美味しいですよ。ここに私専用の厨房があれば、すぐにでも殿下やシローヌさんたちにトマトパスタを作って差し上げたのですが……」
見上げた顔は、どこか泣きそうに震えていた。
「殿下?」
私の魔法は、もはや見慣れているはずだ。
今さら感動することはないと思うけれど――。
彼の白い頬に、そっと手を伸ばしかけた、その時。
「えっ……」
伸ばした手を掴まれ、納屋に引き込まれた。
鍵まで閉めて、一体何をするのかと思いきや。
「貴女はどこにいても変わらなくて、安心しました」
殿下の囁きが、そっと耳元をくすぐった。
いつの間にか、彼の腕の中に包まれている。
「あの……いったい、これは……?」
久しぶりに感じる殿下の温度と匂いに、頭の中がとろけそうになる。
相変わらず、彼の心臓は激しい音を立てていた。
「その……アリウムが王宮に来たら、変わってしまうのではないかと思っていました」
これまでとは違う生活、心無い噂、妃候補という立場。
そういうものに囲まれて、私が無理をするのではないか――殿下はそれが怖かったと、少しずつ口にしてくれた。
「でも貴女は、来て早々種を植えはじめ、トマトパスタの話をしました。だから安心して……つい、こうしたくなって」
「殿下……」
本当に不器用で、可愛らしい人――こうして触れていると、私の中の緊張も解けていく。
彼が先ほど挙げた重圧への心配は、まったく無かったわけではない。
それでも、彼がこうして私のために居場所を作って、彼自身が拠りどころとなってくれる。
それだけで、私はここでやっていけると、自分を信じることができる。
「殿下、私……」
「二人の時はナナと呼んでください」
「え……?」
そういうことは恥ずかしげもなく言うのだから、不思議なものだ。
期待するような眼差しに応え、「ナナ様」と呟くと。
「はい……アリウム」
彼は満足そうに微笑み、私の身体を抱きしめなおした。
「ここは三代前の王妃――私の曽祖母が愛した旧庭で、滅多に人は来ません。だから、その……」
時々、個人的に訪ねても良いだろうか。
殿下のお願いに、視線を逸らしながらも頷いた。
「むしろ、来ていただかないと困ります」
「アリウム……」
殿下以外に知り合いもいないのだから、という意味で言ったつもりが――こちらを見つめる瞳が熱に揺れ、少しずつ近づいてきた。
「え……?」
頬に息がかかる。
少しでも動いたら、唇が触れそうになる距離。
(これは、もしかして……)
土のついた手をぎゅっと握り、震えそうになる瞼を閉じた。
けれど――いつまで経っても、何も起こらない。
「……っ、すみません」
「え……?」
潤んだ瞳が離れていった。
ポカンとする間にも、殿下の手が私の指を探っている。
「ここに金剛石が光るまでは、耐えますから……」
彼の震える指先が、私の左の薬指をなぞった。
「それは……」
心臓どころか、頭の中まで脈打つ中。
殿下は深々と頭を下げ、逃げるように小屋から出ていった。
「あっ……」
小さな熱が、まだ左の薬指に灯っている。
熱いほどの手で胸を押さえ、ベッドに座り込んだ。
「しっかりしなさい、アリウム・ラグナム……ここへは仕事をしに来たのだから」
そう自分に言い聞かせなければ、頭が働かなくなる。
でも、顔が熱くて――荷解きはなかなか進まなかった。
新生活開始の翌日。
「おはようございます、アリウムさん」
「……おはようございます、殿下」
さすがは殿下だ。
仕事となると、昨日とは顔つきが変わっている。
そんな殿下に連れられ、新たな職場となる共通執務室へ向かうと――。
「まぁ、アリウム嬢! お久しぶりですね」
以前ラグナム家の晩餐会に来てくれたシローヌをはじめ、“国政事業省”の官僚たちは、私を拍手で迎え入れてくれた。
「皆さま……ありがとうございます」
王宮で働く、他の人たちの視線は冷たかった。
でも、ここで普段から殿下と仕事をしている彼らは、温かく迎えてくれたのだ。
ただ――ひとりだけ、私よりも若そうな女性官僚だけは、澄ました表情で目を背けていた。
「アリウム嬢、彼女はシュシュカ。この春、官僚登用試験に合格した新人さんよ」
それでも私より、ひと月早く仕事を開始しているという。
ここではどんな仕事が行われているのか、“通常業務の説明”を彼女から受けてほしいと、シローヌは微笑んだ。
「アリウム・ラグナムです。よろしくお願いいたしますわ」
窓際の席から動かないシュシュカに近づき、お辞儀をすると。
「シュシュカ・グランです。はぁ……」
彼女は溜め息を吐きながら、ひょいっと頭を下げた。
いつまで経っても、眼鏡の奥の瞳は私を見ない。
「あの、国政事業省の通常業務について……」
「ああ、はい。主に国有施設の管理と会計業務です。まだ何か?」
質問には答えてくれる。
それでも、声色に棘がある。
(この子は、『略奪愛』の噂を信じてるのかも……)
「あの、シュシュカ」
一緒に仕事をしていく上で、こんな空気が続くのは、お互いにとってやりづらいはずだ。
あの噂を、シュシュカは信じているのか――問いかけると。
「……別に。噂は噂ですから。ただ」
「ただ?」
“王子の寵愛枠”として、この国政事業省に入ったのではないか。
シュシュカの言葉に、胸が軋んだ。
「私の父は、都で花屋を営むただの平民です。私みたいな娘は、努力で入省するしか道はないんですよ」
「それは……」
たしかに私は、登用試験を受けずに入省した。
殿下の推薦枠だということに対して、反論はできない。
「そこに、業務についてまとめた資料があります。不明点は遠慮なく聞いてください……殿下にでも」
シローヌと何やら話し合う殿下に、シュシュカはチラッと視線を向けた。
「でも……」
私はシュシュカに尋ねるよう、シローヌから言われたのだが――。
彼女が私を、「殿下のお気に入りだから入省できたご令嬢」だと思っているうちは、そっとしておいた方が良いかもしれない。
「アリウム嬢……いいえ、アリウムさん、資料は受け取れたかしら?」
「あ……はい!」
いつの間にか目の前にいたシローヌは、「今度は私からね」と、新しい資料をこちらへ差し出した。
「これは……」
表紙には、“緑のサロン事業計画”と記されている。
「貴女には、貴女にしかできないお仕事をしてほしいの」
引き続き、私と殿下が立ち上げた“緑のサロン”の運営に力を尽くしてほしい。
シローヌの言葉に、曇りかけていた視界が晴れた。
「私にしかできない仕事……」
「ええ! この事業を、貴女が最初におっしゃった通り……全国に広げてみないかしら?」




