エンディング:それでは、私の物語を始めます。
ただでさえ、ボロ屋敷からの引っ越しは大変だというのに。
“最後にお姉様の花紅茶が飲みたい”という妹のお願いで、納屋に片付けていたガーデンテーブルを引っ張り出してくる羽目になった。
「……ふぅ。お姉様のお茶、やっぱり美味しいわ」
「そう……」
やはり妹の言葉そのものに、悪意があるわけではない。
だからこそ、私は長い間、傷ついてきたのかもしれない。
「……どうしても、出て行ってしまうのですか?」
「ええ。どうしてもよ」
婚礼式典の後。
「やっぱり私、嫁ぎませんわ」と勝手なことを言って、ラグナム家の屋敷へ戻ってきたルナティ。
私が縫い直した平服を着て、私が淹れたお茶を飲む彼女を見ていると――胸の奥が重くなる。
それだけは、どうしても変えられない。
「お姉様、私にもお茶の淹れ方を教えてくださらない?」
「あら、どういう風の吹き回し?」
「……分かったのです。お妃様って、ただ笑っているだけではダメだったんだって」
家族が裕福になると思い、王子と結婚しようとした。
けれど、自分には向いていなかった。
そう言ってティーカップを置いた彼女は、私をまっすぐに見つめた。
「むしろ、お姉様の方が……」
ああ、またこの子は泣くのだろうか――。
潤む瞳から目を逸らそうとした、その時。
「……っ」
眉間を押さえ、涙を堪えたルナティに、思わず目が開いた。
「ごめんなさい……これがいけないって、お姉様を苦しめてきたんだって、分かっているのに」
「……ええ」
もはや遠慮はない。
正直に、「その通りよ」と頷くと――ルナティは立ち上がり、私の隣へ膝をついた。
白く柔らかそうな手を宙に浮かせながら、彼女は私の手を見つめている。
「お姉様の手、小さな傷だらけだわ」
「……それがどうしたの?」
胸の奥が、かすかに軋んだ。
でも。
妹はすぐに、「違うのです」と声を震わせた。
「結局、私はお母様と同じだったんだと。お父様が亡くなった後、私何もしなかったから……」
ならばせめて、自分の手足を使って、少しでも私の役に立とうと思えばよかった。
必死に涙を堪えるルナティの頭が、私の膝の前で震えている――。
「……っ」
私と同じ、銀の髪が揺れている。
それでも――妹の頭に伸ばしかけた手を、ゆっくりと引っ込めた。
「……そうね、あなたはこうやって、周りの心を動かしてきたのよね」
妹の涙を見た周囲の反応に、これまでずっと傷ついてきた。
でも彼女は、自分の涙で姉が傷ついていたと、ようやく気づいてくれたのだ。
「……お姉様、本当に行ってしまうの?」
少しも愛していなかったのか。
ただ、妹が憎らしかったのか。
縋るように両手を差し伸べる妹に、息が震えた。
まったく愛していないわけではない。
憎んでもいない。
ただ、ひとつだけ分かることがある。
きっとこの子といたら、お互い幸せにはなれない――と。
汗で冷えた妹の両手を握り、顔を上げさせた。
子どものように涙を我慢する顔を見ると、彼女の幼い頃を思い出してしまう。
5つも年下で、何もできなくて、周りに愛された――私の妹。
そんな彼女へ、最後の贈り物をしなければ。
「この家の家督と残りの財産は、すべてあなたのものよ」
その代わり、これまで私がやってきた“ふつうの生活”を自分で回してみなさい――そう言い残し、妹の手を解いた。
(このくらい、許されるでしょう……)
閉じかけていた旅行鞄に錠をかけ、腰の高さまであるそれを引きずり――最後に、27年間過ごした家を振り返った。
「それじゃあ、元気でね……ルナティ」
「お姉様!」
こちらに駆け出したいのに、必死に足を留め、手を震わせている妹を見た瞬間。
「……っ」
旅行鞄を投げ出し、彼女の身体を抱きしめていた。
これで最後だ。
だから、せめて――。
「……あとは、自分のために生きなさい」
声の震えを抑え、囁くと。
涙をこぼすまいと唇を噛んだ妹は、「はい……」と深く頷いた。
もう、本当に行かなければ。
「……さて」
別れの言葉は互いに残さないまま、私はラグナム家の門を出た。
「この後、どこに行こう……」
ラグナム家の当主という肩書きを置いて、郊外で花屋でも開こうか。
かつては妹の足元にも及ばないと卑下していた魔法で、ささやかに花でも育てながら――。
まだ見ぬ新天地を思い浮かべ、旅行鞄を畦道まで引きずっていくと。
「あ……」
「引越し準備で忙しい」と言ったのにもかかわらず、このところ何度もボロ屋敷を訪れていた男――殿下が、畑にいる領民たちと笑い合っていた。
簡素な平服でも、立ち姿とにじみ出る気品から、高貴な身分の男だと一目でわかる。
ただ、以前より自然になった笑顔が、領民たちとの談笑の合間に綻んでいた。
「……本日は何のご用で?」
こちらをチラチラと横目で見る殿下に耐えきれず、自分から声をかけてみると。
「あ……アリウム」
殿下はすぐに、見慣れた堅い顔に戻ってしまった。
なぜか領民たちまで、私にお辞儀をして、さっさと農作業へ戻っていく。
「何のお話を?」
「貴女の……いえ、何でも」
まただ。
いつも何か言おうとしては、目を逸らしてしまう。
いま彼は王宮に戻り、元通り“国政事業省”の仕事をしているわけだが――。
ほんの少し前まで、ひと月もの間、私と同居していたとは思えない態度だ。
「ナナ……殿下は、何か私に言いたいことがあるのでは?」
「はい、言いたいこと……えっ」
やはり。
正面から問いかけると、前髪の奥にある目を逸らし、唇を結んでしまう。
最初は、ただ私に会いにきてくれているのではと期待したが――あの式典以来、彼はまったく触れてこない。
「……殿下」
あの腕が、うたた寝する私をベッドまで運んでくれたこと。
あの手が、冷たい湖の中で私を支えてくれたこと。
そして、式典会場で強く抱きしめられたこと――まだ、彼の熱を忘れられないけれど。
すべては特殊な状況下で起きたことだ。
(胸の奥に、しまわないと……)
「以前からお話ししていた通り、本日家を発ちますので」
震えを抑え、「さようなら」――と、彼の横をすり抜けようとすると。
「待ってください!」
旅行鞄を引く腕が、彼の手に掴まれた。
「……っ」
久々に感じる手の温度――だめだ、泣きそうになる。
「…………なんですか?」
「前回の事業の件で、やり残しが」
事業。
あまりに淡々と、いつも通りの調子で出てきた言葉に、灯りかけた胸の火が消えていった。
「……王宮には、優秀な官僚の方々がおられるでしょう。なぜ私に?」
落胆した顔を見られる前に、早くこの場から去ってしまわなければ。
腕を掴む手を振り払おうとしたが、殿下の手の力は少しも緩まなかった。
「離してください……!」
何も言ってくれないくせに、余計な期待をさせないでほしい――。
なりふり構わず腕を引き抜こうとした、その時。
「こっ、こちらをご覧ください!」
目の前に差し出されたのは、陽射しを受けてきらめく金剛石――その指輪だった。
「……これは、我が国の稀少な特産品?」
「あっ……あぁ、間違えました!」
「間違えた……?」
わけが分からないまま、焦る殿下が次に差し出したのは――王室の押印がなされた書だった。
「“国政事業省”官職任命証……」
「その……まずは、うちで働きませんか?」
やっと息を吸い、手を震わせる殿下を見上げると。
彼は耳を染めるどころか、目を潤ませ、縋るようにこちらを見つめていた。
馬車寄せで初めて言葉を交わした、あの時。
暗く沈んだ瞳で私を睨みつけた彼の目が――今は、熱を帯びた目で私を捉えている。
「殿下……」
ここ最近、本当は不安だった。
彼が会いに来てくれるのは、なぜなのか――目も合わせようとしないのに、と。
でも、この目を見てやっと分かった。
『貴女の泣く場所になる』
あの言葉は、一時の甘い言葉ではなかったのだと。
「あの、返事は……?」
「……私に官職ですか? ただの伯爵令嬢ですが」
殿下の熱い視線に、つい惑わされてしまったが。
政治や自領外のことなど、ほとんど知らない田舎娘だ。
「なにをご謙遜を。実際に貴女の働きぶりは、優秀な官僚と遜色のないもので……」
殿下は「嘘はない」と言いたげな目で、瞬きもせずに私を見つめている。
いつまでも任命証を引っ込めようとしない。
この人は、いつもそうだ――私を信じて、寄り添ってくれる。
「はぁ……では」
小声で書を受け取ると。
殿下は分かりやすく、ほっと胸を撫で下ろした。
こういうところが、ちょっと可愛く見えてしまう――。
「部屋は貴女好みの納屋をご用意いたしますし、自由にしていただける庭も――」
「ふっ……あはははっ!」
やはり、彼のこういうところは変わらない。
真面目な顔に耐えきれなくて、素で笑ってしまった。
「特別待遇は結構ですが、あなたとならまた楽しく仕事ができそうですわ」
「では……!」
返事の代わりに、旅行鞄を殿下の胸へ預けた。
「ほら、参りますよ。私たちの職場へ」
これまで封じられていたことが、解禁されたかのように――私の手を握ったまま、じっと見つめてくる殿下に、今度はこちらが目を逸らしてしまう。
それでも、辻馬車乗り場までの道を話しながら並んで歩いていると、殿下とふたりで過ごしたボロ屋敷での日々が蘇ってくる。
「おや、ナナ様! 成功したのかい?」
トマト畑から声をかけてきたのは、クレソン夫妻だった。
成功とは――いったい何のことだろうか。
「ふたりで手なんか繋いじまって……って、指輪は?」
「……ん?」
そういえば。
書簡の前に出した、あの指輪はなんだったのか。
「先ほどの指輪ですが……」
「先ほど……あ、ああっ!」
隣を歩く彼にも、クレソン夫妻の声がはっきり聞こえていたはずだ。
観念してください、と、迫ったところ。
殿下は足を止め、畦道の真ん中で膝を折った。
また、泣きそうな顔をしているが――晴天を映した瞳は、まっすぐに私を見つめている。
「習い事も仕事も、すべて決められてきた半生でしたが……伴侶は自分で選びたくて」
「……え?」
伴侶。
ふだん触れない言葉に、頭が真っ白になった。
でも――。
(それはつまり、そういうことなのだろうか……)
私も同じ気持ちだと言うべきか。
いや、彼の伴侶になることが、いま私のしたいことなのだろうか。
その前に、今この瞬間、どんな顔をしていれば良いのか――熱っぽい頬を押さえていると。
「ですが」と言いながら、殿下は立ち上がった。
「王宮で働きながら、ゆっくり考えていただいてからでも、遅くはないと思うので……」
「あ……」
返事は今でなくても良いと、殿下は再び歩き出した。
私の手を握ったまま。
きっと、私がいま一番何を望んでいるのか、彼なりに考えた結果――指輪の代わりに任命証だったのだろう。
「何です? 人の顔を見ながら笑って……」
「ふふっ、何でもありませんわ」
仕事だけでなく、人生もこの人と一緒なら、私はいつも笑って過ごせそうだ。
でも、今は――「また今度」と、隣の彼に聞こえないよう囁いた。
《第一部 END》
アリウムとナナラピスの物語をここまでお読みいただき、ありがとうございました。
妹の涙で奪われてきた物語を、ふたりが“緑のサロン”を通して取り戻す。
そんな第一部としてお届けしました。
第二部では、物語は王都へ移ります。
アリウムは国政事業省で働きながら、“緑のサロン”をさらに広げていくことに。
共犯者として始まったふたりの関係が、仕事の相棒として、そして恋として、どんな形に育っていくのか……ゆっくり描いていけたらと思っています。
現在執筆中の第二部公開については、今後の状況を見ながら検討する予定です。
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また、別作品として、
『壁殴り聖女は世界地図を描く』
という冒険ファンタジーの連載も予定しています。
恋愛要素は控えめですが、追放聖女が拳ひとつで閉ざされた世界を広げていく物語です。
どちらの物語も、あなたの時間を少しでも楽しくできたら幸いです。
また次のページでお会いできますように。




