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9話 もう遅い? それはこちらのセリフです

 野の花の香が、薄暗かった寝室を満たしていく。


「いったい、これは……」

「アリウム様に、落成式へ、ぜひお越しいただきてぇんです!」

「もちろん、ナナ様にも!」


 落成式のテープは、妹ではなく姉が切るべきだ。

 庭を埋め尽くす領民たちは、口々に叫んでいる。


 固まる間にも、花束が窓の外から投げ込まれていた。


「どうして……」

「おはようございます、アリウム」


 いつの間にか、ドアの前に殿下がいた。

 目の下のクマが濃くなっている。


「すみません……貴女が起きるまでは、静かにしてほしいとお願いしたのですが」


 朝から大勢が詰めかけてしまったと、殿下は頭を押さえながら言った。


「貴女は多くの方に慕われていますからね」

「ですが、これはいったい……」


 旅装の者や、商人らしき姿まで混ざっている。


 どこで真実を知ったのか――以前から、領民の一部だけは分かってくれていたはずだけれど。


「私が町の酒場で言いふらしました」

「い……言いふらした!?」


『人の噂は強いもの』


 私が言ったことを、広く実行してみた。


 そう言って、殿下は窓の外を見下ろした。


「世論を動かすのならば、民の力を借りる他ないでしょう」


 妹が語った美談ではなく、実際にそれを成し遂げることが、いかに困難だったか。

 彼はそのことを、毎夜酒場で広めていったという。


 私が殿下に差し入れていた、野菜料理と薬酒とともに。


「殿下っ……」


 胸の中へ、じわりと温かい波が広がった。


 知らなかった――まさか殿下が、そのために毎夜外出していたなんて。


「人の噂が野菜とともに出回って、ここまでになったのです」

「でも、私が落成式に行ったところで……」


 国王はもちろん、国中の貴族が集まる大規模な式典だ。偽物の噂を信じている人も多いだろう。

 

 私はお呼びでないのでは――と、肩をすぼめると。


「いまさら何を弱気になっていらっしゃるのですか」


 しぼんだ肩に、そっと手が触れた。


「貴女と“真実の証人たち”が乗り込めば、真実を隠蔽したい連中はどうなると思います?」

「あ……」


 いつか星明かりの下で見たのと、同じ目。

 光を宿した瞳に、心の奥の「もう無理だ」が溶かされていく。


「父……国王は、国民の声を無視できません」


「勝ち筋はまだある」――殿下の手が、私の前へ差し出された。


「私……」


 すべて終わったと思っていた。

 “緑のサロン”は妹の功績になり、殿下の名誉は回復できなかったのだと。


 でも――。


(この人と一緒なら、闘える……)


 いつも私をまっすぐに見てくれる目を見つめ――そして、広い手をしっかりと握り返した。


「“緑のサロン”の落成式を、私たちの勝利の場へ変えてやりましょう!」


 その日から5日間、私たちは領民たちと打ち合わせを重ねた。

 誰が何を見たのか、どこで声を上げるのか。

 泣き声ではなく、証言で会場を満たすために。

 

 そうして、ルナティの婚礼式典――もとい“緑のサロン”落成式当日。


 私と殿下が腕を組んで現れた瞬間、華やかな音楽が止み、貴族たちのざわめきが会場に広がった。


「あれは……まさか、アリウム嬢?」

「妹の婚約者を略奪しておきながら、よくもまぁ……」


 わざとらしい囁きは、もはやどうでもいい。

 それよりも。

 私と殿下を見て焦り出す、一部の貴族に笑いが込み上げてしまう。


「な、なんだ……? アリウム嬢は招待していないはずでは」


 妹を担ぎ上げた男爵家を含め、焦っている者たちこそ、妹を利用してうまい汁を吸っていた貴族たちなのだろう。


 でも、私はもう止まらない――。


 私たちの登場で冷えていったガーデンパーティー会場を横目に、殿下とふたり、新郎新婦の席までの階段を登っていった。

 自分で縫い直した、春色のドレスの裾を引きずりながら。


「来たわよ、ルナティ」


 贅沢な花嫁衣装に身を包む妹。

 その横では、胸に勲章を並べた第一王子が眉をひそめている。


「……何をしに来た、ナナラピス」

「まぁアナタ! 本日のところは、よろしいではないですか。お姉様が来てくださったのですから」


 さも親しげな姉妹のように、妹は私の手を取った。

 いや。妹にとって、私は本当に“親しい姉”なのだろう。


 そして、彼女を守るようにこちらを睨む第一王子も――妹の涙に引き込まれ、“妹を助ける正義の王子”になっているのだ。


「ルナティ、その鋏は……」

「今から私がテープカットをするのよ」


 隣の殿下と視線を交わし、何も分かっていない妹に微笑んだ。


 そして――青空を縫うように伸びる、“緑のサロン”の蔓を見上げた。


 会場を覆う植物に、春の訪れを知らせる花の香り。木組みの建物の横には、緑の畑が広がっている。


「殿下……」

「……ええ、アリウム」


 触れ合う指をこっそり絡め、もう一度妹に向き直った。


 ここにあるものは全部、ルナティのものではない。

 私と殿下がラグナム領(うち)の領民たちと考え抜いた、“自然の城”だ。


「テープカットの権利、私に返してくれない?」

「……え?」


 笑みを歪ませるルナティの手から、鋏を取り上げた。


 見開かれた目に、少し胸が痛んだけれど――もう遠慮はしない。


「なぜこのようなことを……? 私がみんなのために願ったサロンですのに!」

「私が、ねぇ」


 いつものように、妹の「かわいそう物語」が始まる前に。

 すかさず微笑み、「じゃあ」と声を張り上げた。


「このサロンを建てるための初期見積もりがいくらになったか、教えてちょうだい」

「……え?」


 ルナティの顔から、歪んだ笑みすら消えた。


「ここの農地で、どれだけの人の食卓を支えられるの? ここで働く方たちの給料は、どうやって捻出するの?」

「……っ」


 いっそ、本物の“悪役”になっても構わない。


 殿下の指に触れていると、実感する――私はもう、決してひとりではないのだと。


「どうしたの? ()()()()()ならば……言えるわよね」


 額に汗をにじませるルナティは、助けを求めるように、第一王子や周囲の貴族を見回している。

 けれど、彼らは固まったままだった。


 やがて、ぎこちない笑い声をこぼしながら――妹はこちらに向き直った。


「そ、そんなの……私の仕事じゃないもの」


 やはり口だけだった。


 そんなこと、私たちは最初から分かっていたけれど――無音の会場で、話に聞き入っていた貴族たちは、首を傾げている。

「聞いていた噂と違うではないか」と。


「冗談ではありません!」


 ざわつく会場を一蹴したのは、例の男爵の声だった。


「妹への妬みから、意地の悪いことを言っているだけだ!」

「ルナティ様は、豊穣の魔法で土地を耕してくださったのだっ!」


 殿下がすべてを奪われた婚約式の日と同じ。

 妹を担ぎ上げた貴族たちが、彼女への擁護を次々飛ばしている。


 でも――私はもう、揺らがない。


 非難の嵐の中、耳を澄ませていると。


「冗談じゃねぇべ!」


 貴族たちの声をかき消したのは、畑での会話で鍛えられた声――そして、会場に入れてもらえなかった、領民たちの足音だった。


「ルナティ様は土に触ったことすらねぇだろ!」

「“緑のサロン”を……オラたちの農場を作ってくださったのは、アリウム様だ!」


 重なる声の圧に、貴族たちの声が消えていく。


 それに。

 私の中で萎んでしまっていた“私”が、彼らの声で大きくなっていく。


「これは……どういうことだ?」


「暴動か」と、王様がついに立ち上がった、その時――殿下がすぐに、王様の貴賓席へと向き直った。


「彼らが国民に言い返せないのは、なぜだと思いますか……父上」

「ナナラピス……」


 殿下も、以前までとは違う。


 妹に仕返された時からは想像もできないほどに胸を張り、すかさず書類を取り出した。


「これは今回の“緑のサロン”創設計画の裏で、中抜きしていた貴族の名簿です」

「なんだと……? そやつらが、何のためにそんなことを!」


 失脚したとはいえ、王様が殿下の政治手腕を信頼していたというのは本当らしい。

 彼らはもはや周りの雑音をもろともせず、二人だけで議論しているかのように視線を交わしていた。


 私の隣にいる人が、世界中の誰よりも頼もしく感じる――。


「『特別な力を持つ令嬢』を担ぐことで第二王子(わたし)を失脚させ、第一王子(あに)の派閥に権力を持たせようとした……」


 これは第三者――“国政事業省”も認めたものだと、殿下が名簿を差し出すと。

 王様はすぐにそれを手に取り、目を通しはじめた。


「これは……聞いていた話と違うではないか! ルナティ嬢は、お前が一方的に婚約破棄を言い渡したと言っていたが」

「それこそ一方的な話です」


 あの婚約式では、誰もが妹の涙に夢中だった。

 彼女の怠慢、国にもたらす不利益について、誰ひとり耳を傾けていなかった――。


 殿下の震える声に、王様は口を閉じてしまった。

 瞼を伏せ、何かを考えているみたいだ。


「殿下、今ですわ」

「……はい、そうですね」


 以前は見向きもされなかった、“妹の怠慢の証拠”。それを改めて、殿下が王様へ突きつけると。


「…………そうか」


 王様は額に指を当てたまま、再び沈黙してしまった。


 それでも。何となく、肌で感じる。

 この会場に雪崩れ込んだ領民の熱気、そして瞳の色が変わった殿下の想いが、私たちに風を呼んでいるのだと。


「アリウム、まだひとつ……よろしいですか?」

「えっ、殿下どちらへ?」


 殿下は、王様のひとつ下段の席の外相につま先を向けた。


「ひっ……」


 老齢の外相は、殿下から顔を背けている。


「ルナティ様の涙を利用して、条約交渉を他国に有利に進めようとした証拠も握っております」

「なっ……なんのことだ!?」


 せっかく成長したと思ったのに――やはり彼は彼だ。


 殿下のジャケットの裾を軽く引き、「いったん引きましょう」と囁いた。


「やりすぎると、前回と同じ結果になります」

「ですがっ……」

「殿下、今は裁判ではありません。ここで勝たせるべきは、書類ではなく民の声です」

「……ええ、はい、そうでしたね」


 一番大事なのは、民の声を王様に聞かせることだ。

 妹が泣くより早く。


 領民たちの最前列にいる、クレソン夫妻に視線を送ると。

 彼らは小さく頷き、「王様!」と声を上げた。


「どうか聞いてくだせぇ!」

「オラたちの農地を耕してくださったのは、アリウム様とナナ様なんでさぁ!」


 すると王様は、「ナナ様?」と、落ち窪んでいた目を輝かせた。


「あれ……そこですの?」


 思っていたのとは違う反応に、殿下と視線を交わし、目を瞬かせていると。


「不正や搾取の話は聞き飽きた。いや、この件は当然後で裁くが……今は、この事業が誰の手で生まれたのかを聞きたい」


 杯を持ち上げた王様は、領民たちに会場へ入るよう促した。


「殿下、これは……」

「……ええ、意外でした」


 政治のごたごたよりも、息子の話が聞きたいだなんて――。


「あの、恐れながら王様」

「うむ……アリウム嬢か。申してみよ」


 初めて直接言葉を交わす王様に、指先を震わせながらも――「殿下をそんなに愛しておられたのに、なぜ」と、問いかけた。


 婚約式の日。王様は殿下に加勢しなかっただけではなく、周りの信頼すべてを失った彼を、そのまま放置していた。

 王位継承権を剥奪するとまで言って。


「いやなに……息子がよそのお嬢さんを理不尽に泣かせたとあれば、灸を据えてやらねばと思ったのだが」


 どこか居心地の悪そうな王様が、殿下に「悪かった」と呟いた――その直後。


「待ってください王様!」


 もはや聞き慣れた涙声が、会場の沈黙を裂いた。


「こんなの……みんなが私を悪者にしようとしているだけですわ!」


 まただ。


 またこの子は、泣くだけで世界を味方にしようとしている。


 でも、今回は――。


 大粒の涙を浮かべたルナティに向かって、王様は静かに目を伏せた。


「すまない、ルナティ嬢……私は一方の話しか聞いていなかったようだ」


 王様の言葉に、ルナティの涙が止まった。


「……っ」


 王様から顔を逸らした妹は、今度はこちらに向き直った。

 第一王子の無骨な手を払い、私と殿下を潤んだ目で見上げている。


 いったい、何を言い出すのか――。


 震える桜色の唇を、じっと見つめていると。


「私、やっぱり殿下を許します」

「…………は?」


 殿下がこぼした声と、私の声が重なった。


 妹の顔と声色には、まったく悪気がない。

「殿下の方が完全に道を誤った」と断言するような態度で、ルナティは言い切った。


「お姉様も、もう怒らないで」

「え……」


 ルナティはそう言って、私の手から鋏を取り返そうとした。


「今ならまだ、みんなでやり直せるわ」


 だから婚約破棄は無かったことに――妹がすべて言い切ったところで。

 胸の奥から、深いため息が出ていった。

 それに、呆れを通り越した笑いがこぼれる。


「でもルナティ……あなた、殿下に『もう遅い』と申し上げたでしょう?」


 声を飲み込み、凍りついた妹。


 私の人生に“かわいそうなヒロイン”として君臨し続けた彼女に、にっこり微笑み――。


「それはこちらのセリフです」


 殿下の胸に手を添え、そっと頭を預けた。

 “本当に愛し合うふたり”に見えるように。


「なんで……どう、して……」


 目を開いて固まった妹に、堂々と“演出”を見せつけていると――。


 殿下の腕に、身体を強く引き寄せられた。


「あっ、ちょっと、なにを……?」


 羞恥と焦りで、心臓が破裂しそうだった。


 公衆の面前で、あの殿下がこんなことをするなんて――緊張の連続で、どうかしてしまったのだろうか。


「すみません。演出だと分かっていたのですが」

「では、なぜ……」

「あなたがまた、ひとりで悪役を引き受けようとしたので」

「……っ」


 確かな声を見上げると、より腕の力が強くなった。

 いつか、真冬の湖で抱きしめてくれた時と同じくらい――優しくて、温かい。


「殿下……いえ、ナナラピス様」


 ずっと離れようとしない腕に、私からも手を重ねた。


「アリウム……」


 静まり返っていた会場に、拍手の音が響きはじめた、直後。


「おい、あのナナ様(カタブツ)が人前でいちゃついてるぞ」

「いいぞー! もっとやれー!」


 領民たちの歓声に、殿下は無言で耳を染めていた。


「ふふっ、大人気ですわね」

「……酒場のノリを、持ち込まないでいただきたいのですが」


 早口の殿下に、顔をとろけさせていると。


「こんな……あんまりです!」


 目の前の妹が、ついに涙をこぼした。


 自分は悪くないのに、悪者にされた――と。


 でも。


 妹が泣いても、領民たちの拍手は止まない。

 歓声も絶えない。


 すべてを聞いていた貴族たち、もはや妹派の男爵たちでさえ、領民たちの熱に圧倒されていた。


「たしかにルナティ嬢は悪くないが……」と、声が上がったとしても。

 その先に声はない。


「どうして……? どうして、だれも味方してくれないの!?」

「……知りたい?」


 嘆く妹の肩に手を添え、そして――囁いた。


 貴女より先に、“私と殿下が物語を作ったから”――と。


「あ……」


 妹の手が、私の持つ鋏から落ちていく。


 涙を引っ込めた妹の横をすり抜け、殿下に向けて、鋏を持つ手を差し出した。


「ナナ様、ご一緒に」

「……はい!」


 そうして私たちは――念願の、“緑のサロン”のテープを切った。

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