第5話「境界」
仕事終わりの時間が、少しずつ重なっていく。
特別な約束はない。
でも気づけば、一緒に残っていることが増えていた。
「吉岡さん、これ一回見てもらっていいですか?」
「いいよ」
いつものやり取り。
「やっぱり吉岡さんに見てもらうと早いですね」
「そう?」
「はい。なんか、迷いなくなるというか」
環は小さく笑う。
「それは気のせいでしょ」
そう返しながら、少しだけ思う。
(でも、悪くないな)
その日の帰り。
エレベーターを待ちながら、隣に悠太が立つ。
「今日もありがとうございました」
「最近それよく言うね」
「ちゃんと思ってるんで」
軽く笑う。
「真面目だね」
「そうですか?」
少しの沈黙。
エレベーターがなかなか来ない。
「……あの」
珍しく、悠太の声が少しだけ低くなる。
「なに?」
少しだけ間が空く。
「吉岡さんって、誰にでもあんな感じなんですか?」
予想外の質問だった。
「あんな感じって?」
「距離感というか……優しいけど、踏み込ませない感じ」
言い方が、妙に正確で。
環は少しだけ笑う。
「どうだろ」
はぐらかすように返す。
「人によるかな」
それが一番近い答えだった。
「じゃあ」
悠太が続ける。
「俺はどっちですか」
一瞬だけ、言葉に詰まる。
(面倒なこと聞くな)
そう思いながらも、軽く返す。
「どっちだと思う?」
逃げの質問。
でも悠太は、逃げなかった。
「……特別だといいなって思ってます」
その言葉に、空気が少しだけ変わる。
冗談でも、軽口でもない。
まっすぐすぎる。
環は視線を逸らす。
「そういうの、軽く言わない方がいいよ」
少しだけ距離を戻す言葉。
でも悠太は引かない。
「軽く言ってないです」
間を置かずに返ってくる。
「俺、吉岡さんのこと好きなんで」
静かに、でもはっきりと。
エレベーターの到着音が鳴る。
ドアが開く。
でも、環はすぐに乗らなかった。
(ああ、来た)
どこかでわかっていた気もする。
でも、今この瞬間になると。
少しだけ、面倒で。
少しだけ、怖い。
「……そっか」
それだけ言って、エレベーターに乗る。
悠太も隣に入ってくる。
沈黙。
「返事、聞いてもいいですか」
逃がさない声。
環は少しだけ考えてから言う。
「別に、嫌いじゃないよ」
曖昧な言葉。
「でも」
続ける。
「そういうの、ちゃんと考えたことないから」
半分は本当で、半分は逃げ。
「すぐ答え出すの、苦手なんだよね」
悠太は少しだけ黙る。
「……じゃあ」
ゆっくりと口を開く。
「待ってもいいですか」
その言葉に、ほんの少しだけ迷う。
(待たせるつもりはない)
でも。
「どうだろ」
はっきりとは言わない。
「そういうの、あんまり約束できない」
境界線を引く。
でも、拒絶はしない。
「……わかりました」
悠太は小さく頷く。
それ以上は何も言わなかった。
エレベーターが一階に着く。
ドアが開く。
外に出て、少しだけ距離ができる。
「お疲れ様です」
いつもと同じ言葉。
「お疲れ」
同じように返す。
それだけのはずなのに。
少しだけ、何かが変わっていた。
(まあ、いいか)
環はそう思う。
でもその内側で。
(これ、どうなるんだろ)
ほんの少しだけ、先のことを考えていた。




