第98話 神獣プラチナ・ジーク召喚、そして発動
全四層第XX節の詠唱を終えたノエルの体は、限界の淵にあった。
視界が、何度も揺れる。
喉は、もう掠れを通り越して、声を出すたびに鈍い痛みが走った。
それでも、ノエルは石畳の上で、両腕を水平に、そして両手のひらを天に向け動かなかった。
膝の感覚は、もうほとんどなかったが、心の中心にある芯、その世界を変えたい、救いたいと願う、その想いだけは、まだ確かにそこにあった。
アルドは、隣に形座をついて、そのすべてを見ていた。
両手は依然として、石畳へ向けられ、ノエルが倒れないように支える支援魔術を続けて発動していた。
声を持たない自分に、今できることはほかには何もない。
ただ、隣に立ち続けることだけだった。
けれども、その「ほかには何もない」という言葉が、今この瞬間ほど重く感じられたことはなかった。
ノエルは、最後の息を、静かに整えた。
目の前に、これまで積み重ねてきたすべての気配が、集約されようとしていた。
地域精霊、大精霊、中級神、五柱の至高神——その全てが、最後の一段の先にある存在へと、道を繋いでいる。
万物浄化の叙事詩、第五層の詠唱が、はじまる。
ノエルの瞳には、まだ強い意志の光が消えずに揺れていた。
* * *
「プラチナ・ジークよ
万物の浄化を司り、天と地の境に座す御方よ
我が声は、五柱の御方の力を借り、ここまで届いた
だが、まだ足りない
この国の隅々にまで、あなたの力を届けるために
あなたの御手を、今、借りに参る」
声は掠れ、震えていた。
しかし、その言葉の一つ一つに、これまでのすべての祈りが凝縮されていた。
「あなたの翼が、この国の空を覆う時
穢れは、浄化の光の中に消えるという
その伝説を、我は今、信じている」
空の様子が、変わった。
これまでのどの変化とも違う、圧倒的な気配が、王都の上空に満ちていく。
雲が、ゆっくりと形を変え始めた。広場中の人々が、空を見上げた。
いままでよりさらに、光の柱が天空を貫き、地面へ向けて射しこまれる。
「あなたの力で、この国のすべての傷を
癒し、清め、蘇らせてください
人々の体を、大地の土を、水の流れを、風の道を
地域の精霊たちも、大精霊たちも
中級の神々も、五柱の至高神たちも
皆、あなたの力を待っています」
第五層三節目、第XXⅢ節の詠唱が終わった瞬間、ノエルの体が、ぐらりと揺れた。アルドは咄嗟に片手を彼女の背中に伸ばす。
ノエルは、なんとか倒れずに持ち直した。
「もう少しです」
声にならない声で、ノエルが呟いた。
アルドにだけ聞こえる、小さな囁きだった。
「まだ、続けます」
第5層四節目、第XXⅣ節。
声は、もうほとんど掠れの中に消えかけていた。
それでも、言葉の形は崩れなかった。
「この地に集う、すべての命よ
傷ついたものよ、癒されよ
乱れたものよ、正されよ
閉ざされたものよ、開かれよ
プラチナ・ジークの慈悲のもと
この国のすべてが、再び息を吹き返しますように」
空全体が、白く輝き始めていた。
太陽の光とは違う、もっと柔らかく、もっと大きな光だった。
そして、最後の一節。
ノエルは、石畳に額がつくほど身をかがめながら、声を振り絞った。
「プラチナ・ジークの御名のもとに
我、ノエル・ブライトガーデンが命ず
この国のすべての傷を癒し
すべての穢れを浄化し
命の巡りを、この地に、取り戻さんと願う
万物浄化の叙事詩、
言の葉の力で世界を書き換え、
神霊の力による癒しの輝きでこの世界を救いたまえ!」
その瞬間だった。
王都の空に、光の奔流が走った。
* * *
広場中の詠唱士が、声を失った。
空を覆う光は、雲を割り、大地に向かって降り注いだ。
地震で走った石畳のひび割れが、光に触れた瞬間、跡形もなく消えていった。
広場の中央にいた魔術師たちの詠唱は、もはや続けられる状態ではなかった。
誰もが、空を見上げたまま、動きを止めていた。
民衆の集まる広場の外周部エリアからは、驚きと歓喜の入り混じった声が、波のように広がっていった。
マルクは、光の中に立ち尽くしていた。
彼の腕にあった小さな古い傷——ガイアスへの単独詠唱の代償として残っていたもの——が、光に触れて、静かに癒えていくのが見えた。彼はその光景を、言葉もなく見つめ続けていた。
フォルクは、涙を拭うこともせず、広場の東端の方角を見つめていた。
三十年間、抱え続けてきた問いが、今、確かに答えを得た瞬間だった。
その表情には、これまでのどんな場面でも見せたことのない、静かな解放の色があった。
ヴィナスは、書類を胸に抱いたまま、ただその光を見上げていた。
十五年間、数字の裏側に感じ続けてきた違和感が、今、目に見える形で、確かに証明されていた。
アルドは、自身の魔力感知の全てを使って、その光の奔流を受け止めていた。
地域精霊たちの安堵、大精霊たちの解放、中級神たちの喜び、五柱の至高神たちの承認——それら全てが、一つの巨大な意志となって、王都の空を満たしていた。
そうだ、この光景が見たかったのだ。
そして、光の中心に、巨大な影が浮かび上がった。
翼を持つ、竜のような輪郭。それが、プラチナ・ジークの姿だった。
姿は一瞬だけ見え、すぐに光の中に溶けていった。
だが、確かにそこにいた。
三百年ぶりに、その姿を現した存在が、確かにそこにいた。
その光が、アルドの首元を、一瞬だけ強く照らした。
リトの枷が、これまで聞いたことのない音を立てた。
リトシステムの判定音でも、テノア加算を告げる音でもない。
何かの内側が、静かに崩れていくような、そんな音だった。
そして——十年以上、体の奥に積み重なり続けていたはずの重みが、消えた。
アルドは、その感覚に、思わず息を止めた。
テノア。積み重なった年月。声を失ってから今日まで、ずっと自分の内側に沈んでいたはずのその重みが、一瞬にして、跡形もなく消えていた。
何かの間違いではないかと、アルドは自分の内側を何度も確かめた。
それは確かに、消えていた。
この浄化の光は、大地の傷や人々の病だけでなく、リトシステムという仕組みそのものをも、浄化の対象として巻き込んでいる——アルドは、その事実に、遅れて気づいた。人間の都合だけで作られた制度は、神霊由来のこの光の前では、穢れや歪みと、大差ない扱いを受けているのかもしれなかった。
だが、それを深く考える余裕は、目の前のことに、すぐに奪われた。
* * *
光が収まり始めたとき、ノエルは、石畳の上に、力なく崩れ落ちた。
アルドは、咄嗟に彼女の体を抱きとめて支えた。
声にならない叫びが、喉の奥から出かかった。
ノエルの体は、驚くほど軽く、驚くほど冷たかった。
呼吸は浅く、頬から血の気が引いている。
ついさっきまで、あれほどの祈りを紡いでいた少女とは思えないほどの、儚さだった。
傍らに、ふわりとレイの気配が立った。表情は見えないが、その気配には、強い焦りがあった。これまでのどんな場面でも見せなかった種類の緊張だった。
「テノアじゃない」
レイの声が、これまでにない速さで告げた。
アルドの戸惑いを読み取ったように、先回りして続ける。
「あの子自身の力が、限界を超えている。二十五節、五階層召喚——規定も代償も関係ない、純粋な生命力の消耗だ」
アルドの腕の中で、ノエルの呼吸が、浅くなっていた。
額に触れた手のひらに、これまで感じたことのない冷たさが伝わってくる。
「今すぐ、飲ませろ」
レイが、懐から忘却の雫の瓶を取り出し、アルドの手に押し付けた。
瓶は、これまで見てきたものよりも、明らかに小さかった。
「テノアを相殺する薬だが、今のあの子には、命を繋ぐための力にもなる。少しでも、命を繋ぐ助けになれば」
アルドは、震える手で瓶の栓を開け、ノエルの口元に近づけた。
周囲では、まだ光の余韻の中で人々が呆然と立ち尽くしている。
誰も、この広場の一角で起きていることに、気づいていなかった。
* * *
「光が、国中に降り注いだ。同時に、私の中の重みが、一瞬で消えた。
それでも、彼女は、代償を払っていた。誰も見ていない場所で、静かに」
―― アルド、広場の東端の配置にて




