第99話 最後の宣告、リトシステムの崩壊
忘却の雫を口に含ませてから、しばらくして、ノエルの呼吸が、少しずつ落ち着き始めた。
アルドは、その小さな変化に、全身の力が抜けるのを感じた。
まだ意識は戻っていないから、予断は許さないが、呼吸は確かに、深くなっている。腕の中の重みが、先ほどよりも、ほんの少しだけ確かなものになっていた。
広場は、グラウンド・アリア発動直後で静まり返っていた。
空を覆っていた光は徐々に収まりつつあったが、その余韻は、まだ濃く漂っている。誰も、まだ言葉を発することができずにいた。中央の詠唱士たちも、民衆エリアの人々も、皆、何かの余韻に浸されたまま、動くことすらできずにいるようだった。
アルドはノエルを抱きかかえたまま、自身の首元に、これまでにない違和感を覚えていた。テノアが消えたことは、確かに感じ取っていた。だが、それだけではない何かが、まだ枷の内側で、静かに進行しているようだった。皮膚に触れた金属の感触が、いつもと違う温度を帯びているような気がした。
* * *
その時、広場全体を包み込むように、声が響いた。
人の声ではない。
もっと大きく、もっと遠い場所から届く、複数の意志が重なり合った声だった。
「聞け」
その一言だけで、広場中の者たちが、ただ立ち尽くした。
声は、あらゆる方向から同時に響いているようでもあり、それでいて、一人一人の胸の内側に直接語りかけているようでもあった。
「この地に住まう者たちよ。今日、一人の詠唱士が、我らの声を聞き、我らの求めに応えた」
声は、五柱の至高神の意志が重なり合ったもののようだった。
あるいは、それ以上の、もっと大きな何かの声かもしれなかった。
アルドには判別できなかった。
ただ、圧倒的な確信だけが、その声から伝わってきた。
「彼女の声は、規定という人間の作った枠を超えて、我らに届いた」
その言葉に、広場のあちこちで、詠唱士たちがざわめいた。
広場の中央にいたマルクが、拳を握りしめているのが、遠目にもわかった。
「リトシステムという制度は、三百年前、人間の都合のみで作られたものだった。我らの意志は、そこに一つも刻まれていない」
その一言に、フォルクが目を見開いた。
三十年前、彼が確認した古い議事録の内容と、寸分違わぬ言葉だった。
長年一人で抱えてきた疑念が、今、世界中の誰もが聞く場で、神々自身の口から肯定された瞬間だった。
ヴィナスも、同じように、身動き一つせずその声を聞いていた。
「今日、この地に降り注いだ浄化の光は、大地の傷だけでなく、その仕組みそのものをも、清めるだろう」
その瞬間、広場中の詠唱士たちが、自分たちの装備——枷、記録具、リトシステムに連動する術具——に目を落とした。それぞれの器具から、これまでにない輝きが放たれ始めていた。困惑した声、驚きの声、そして中には歓喜の声も混じっていた。
* * *
アルドの首元でも、同じことが起きていた。
リトの枷のルーンが、これまで見たことのない色で発光していた。
淡い金色に近い光が、皮膚に触れる部分から、内側へと染み込んでいくようだった。痛みはなかった。あえて言うならば、奇妙な浮遊感があった。
傍らのレイが、その光景を見つめながら、静かに呟いた。
「これは、まだ始まりだ」
その声には、驚きと、ある種の予感が混じっていた。
「システムが、内側から徐々に崩れていく。完全に壊れるまでは、もう少し、時間がかかるだろうけど」
広場の遠くで、別の詠唱士の枷が、金色の光を放ちながら、パラパラと小さな欠片となって崩れ落ちるのが見えた。その詠唱士は、驚いた顔で自分の首元を撫でていた。周りにいた仲間たちも、それぞれ自分の装備を見つめ、戸惑いと期待の入り混じった表情を浮かべていた。
「規定違反の記録を持つ者から、順に、影響が出ているみたいだね」
レイの言葉に、アルドは自分の枷に、もう一度目をやった。
まだ崩れてはいない。だが、確かに、何かが進行している。
三年以上の規定外の記録——旅の間に重ねてきた無数の逸脱——それが今、この崩壊の順番の中で、自分がどこに位置しているのかを、アルドは静かに考えていた。
* * *
天からの声は、最後にもう一言だけ告げた。
「この国に住まう者たちよ。今日のことを、決して忘れないでほしい」
その声が、静かに消えていく。
余韻が、まるで大気そのものに染み込んでいくように、ゆっくりと薄れていった。
広場に、深い静寂が戻った。
だが、それはこれまでの緊張した静寂ではなかった。
何か大きなものが終わり、何か新しいものが始まった、そういう種類の静けさだった。
アルドは腕の中のノエルを見た。
その呼吸は、確かに落ち着いていた。
だが、目を覚ます気配は、まだなかった。
フォルクが、こちらへと駆け寄ってくるのが見えた。
その顔には、涙の跡があった。
三十年間抱え続けてきた問いが、今日、これ以上ないほど明確な形で、答えを得た。その答えを、フォルクは今、全身で受け止めているようだった。走る足取りは、これまでのフォルクからは想像もできないほど、性急なものだった。
アルドは、ノエルを抱きかかえたまま、静かにその場に座り込んだ。
周りで何が起きているのか、まだ全部を理解できてはいなかった。
あの声が告げたこと、枷が崩れ始めていること、腕の中の少女がまだ目を覚まさないこと——それら全てが、一度に押し寄せてきていた。だが、一つだけ、確かなことがあった。
この腕の中にある小さな重みを、絶対に離してはいけない。
* * *
「制度が崩れる音は、静かだった。
誰かの叫びでも、爆発でもなく、ただ、金色の光と共に、パラパラと崩れていく。
それだけだった」
―― アルド、広場の東端の配置にて




