第100話 広場の反応
グランド・アリアの発動後、世界はまだ落ち着きを取り戻せてはいなかった。
王都の中央広場は、これまで見たことのない光景に包まれていた。
あちこちで、魔術師や詠唱士たちが自分の首元や腕を撫でている。
リトの枷や記録具が崩れ落ちた者、まだ半分ほど形を保っている者、状況は様々だったが、リトシステムとその仕組みに何か破壊的なダメージがあったことはまちがいなかった。
誰もが動揺してはいても、それと同じくらいに、安堵していた。
互いに顔を見合わせ、確認するように言葉を交わす姿が、広場のあちこちで見受けられた。
空を覆っていた重い雲は、跡形もなく消えていた。幾重に差し込む光の柱も。
今は地平線の彼方まで、澄んだ青空が広がっている。
地震の気配も、疫病の重苦しさも、嘘のように消え失せていた。
石畳に走っていたひび割れすらも、すでにどこにも見当たらなかった。
* * *
広場中央の配置にいたマルクは、自分の腕を見つめていた。
ガイアスへの単独詠唱で負った、あの古い傷。
何年も残り続けていたその痕が、光の中で完全に癒えたことは、すでに確認していた。
だが、彼が今、見つめているのはそこではなかった。
彼の首元にあったリトの枷、リトシステムの記録を司り、テノアに応じて声を封じる魔術具は、他の誰よりも早く、崩れ落ち無くなっていた。
規定外の詠唱を、これまで幾度となく試みてきた記録が、そこには積み重なっていたのだろう。皮肉なことに、彼が破ってきた規定違反の量そのものが、この崩壊の速さとして、今、目に見える形で証明されていた。
広場の東端の方角に、視線を向けた。
あの少女は、まだ目を覚まさないまま、アルドに抱きかかえられている。
儀式詠唱では、中央で最も重要な配置を与えられ、最大限の力を注いで臨んだのだが、自分の詠唱は結局、天災そのものを止めるには至らなかった。
それを成し遂げたのは、広場の隅、期待もされていなかった場所に立っていた、あの少女だった。
「予備配置、広場の東端」と告げられたあの日の彼女の表情を、マルクは思い出していた。あの時、「広場の端にも、精霊の声が届く」と言っていた。
その言葉が、これほどまでの形で証明されるとは、正直、思っていなかった。
マルクは、静かに息を吐いた。
悔しさはほとんどなかった。
あるのは深い納得感だった。
* * *
フォルクとヴィナスは、儀式運営の本部から、事態の収拾に追われていた。
各地の魔術師、詠唱士から、次々と報告が届いていた。
「リトの枷が消えた」「記録の魔術具が壊れた」「規定違反の履歴が、跡形もなく消えている」——それらの報告に、フォルクは、これまでにない忙しさで応対していた。文官たちが慌ただしく行き交う中、フォルクの指示だけが、驚くほど的確に飛んでいた。
けれど、その表情には、疲労よりも、何か晴れやかなものが見え隠れしていた。
「三十年、待った甲斐が、あったな」
誰に言うでもなく、フォルクはそう呟いた。
低いその声には、これまでの人生の重みが、静かに滲んでいた。
方やヴィナスは、書類を整理する手を止め、窓の外の青空を見上げていた。
しばらくの沈黙の後、静かに口を開いた。
「リトシステムの規定は、もう機能していません」
その声には、これまでの平坦さに加えて、確かな解放感があった。
「私たちの仕事は、今日で、大きく変わることになりそうです」
「変わるべきだったんだ、ずっと前から」
フォルクの返答は短かったが、その奥には、三十年分の重みが込められていた。
二人は、しばらくの間、それ以上何も言わず、ただ窓の外の青空を並んで見つめていた。
* * *
時間が開いて、次第に落ち着きを取り戻した広場や王都以外の国内各所からも、報告が集まり始めていた。
北の村の土地が、すでに息を吹き返しているという知らせ。
東部の霧の町の疫病が、完全に収まったという知らせ。
王都近郊の作物も、みるみる回復しているという知らせ。
それぞれの報告が届くたびに、広場のどこかで、小さな歓声が上がった。
天災は、本当に、終わり、収束していた。
世界はふたたび、輝きを取り戻そうとしていた。
民衆の間から、歓声が上がり始めた。
最初は小さく、それが波のように広がっていく。
誰もが、空を見上げ、隣にいる者と抱き合い、涙を流していた。
子供たちが空に向かって手を振り、老人たちは膝をついて祈りを捧げていた。
長く続いた不安と恐怖が、一斉に解き放たれる瞬間だった。
その歓声の中心には、未だに意識のない、ひとりの少女がいた。
広場の東端のさらに片隅で、まだ目を覚まさないまま、アルドに体を抱きかかえられながら、静かに横たわっている少女。
誰も、まだ彼女の名前を、知らなかった。
* * *
アルドは、ノエルを抱きかかえたまま、その歓声を、少し離れた場所で聞いていた。
声を取り戻したばかりの喉は、まだ何かを語る準備ができていなかった。
ただ、腕の中の重みと、周囲の喜びの声が、静かに交差していくのを感じていた。
歓声はどんどん大きくなっていくのに、この東端の一角だけは、不思議なほど静かだった。
この歓声が、いつか、この少女の名前とともに語られる日が来るのだろうか。
それとも、この功績は、誰にも知られないまま、静かに歴史の隅に留まるのだろうか。広場の誰も、まだ気づいていない。自分たちの喜びの源が、この腕の中に、静かに眠っていることを。
どちらでもいい、とアルドは思った。
今はただ、この重みが、確かに息をしていることだけが、大切だった。
声を失っていた三年ほどの年月の中で、これほど強く「大切だ」と感じたことは、なかったかもしれない。
* * *
「広場に歓声が満ちる中、その理由となった者は、
誰にも見られない場所で眠っていた。
それでいいと、私は思った」
―― アルド、広場の東端の配置にて




