第101話 沈黙の解氷
ノエルの瞼が、震えた。
アルドは、その小さな命の瞬きを、腕の中で感じ取った。
まだ意識は朦朧としている。
けれど、確かに遠く意識の深淵から表層の世界へ戻ろうとしている。
周囲では、まだ余韻の中で人々がざわめいていた。
だが、アルドの意識は、腕の中のこの小さな命の重みだけに、完全に集中していた。
「……師匠」
掠れた、消え入りそうな声だった。
目は、まだ半分も開いていない。
それでも、ノエルはアルドの方を見ようとしていた。
アルドは頷いた。
声はまだ出せない。
しかし、頷くことはできる。
それだけで、伝わってほしいと思った。
ノエルは、体を起こそうとして、腕に、わずかに力を込める。
でも、その力はすぐに尽き、バランスを崩して体が大きく傾いだ。
アルドは咄嗟に、その体を支えた。
しっかりと、両腕で。
これまでの旅の間、何度も繰り返してきた仕草だった。
倒れそうになる彼女を、支える。
ただそれだけの、単純な動作。
しかしながら今、その単純さの中にはいつもと違い、これまでのすべての時間が、重く積み重なっているような気がした。
その瞬間だった。
ノエルの目に、涙が浮かんだ。
安堵か、疲労か、それとも別の何かか——理由は分からない。
ただ、一粒の涙が、頬を伝い、アルドの首元へと落ちた。
支える手が、震えた。
そして、その震えは腕を伝い、首元、喉のところにたどり着く。
これまでとは違う、明瞭な音が、そこから漏れた。
『……ノエル……完璧な……名乗りでした……』
不完全な、途切れ途切れの声だった。
今にも宙に霞んで溶けて消えてしまいそうな弱い声音。
プラチナ・ジークの御名のもとに、あの少女が確かに紡いだ、完璧な名乗り——首元のリトの枷は、壊れかけたシステムの残滓となり、すでにその本来の用途を全うできずにあった。だからアルドの喉からは呼吸音以外に、久々に声が漏れ出ていた。三年以上、アルドの首元で沈黙を強いてきたその装置が。最後のあがきをしているかのうように。
カラン。
直後、小さな、乾いた音が響く。
リトの枷が、砕け散り、石畳に落ちた音だった。
破片が、石畳の上に、静かに散らばっていく。
長いあいだ首元にあり、魔術的に発声を制限していたリトシステムの重みが、跡形もなく消えていた。
* * *
アルドは、自分の喉に、何かが戻ってくるのを感じた。
ここ三年以上、そこになかったもの。
声帯の震え。
空気の振動を音に変える、言葉を、音に変え伝えるための力。
それが、いまこの瞬間に、確かに戻っていた。
ノエルが、腕の中で、うっすらと目を開けた。
焦点の合わない目で、アルドを見上げている。
「……無茶をしてはいけませんよ、ほんとに」
今度は詰まらずに、自然と声が出た。
自分自身の久々に聞く声だった。
三年前、講義室で学生たちに語りかけていた、あの声。
低く、少し掠れていて、それでも確かに、自分自身のものだと分かる声。
いつかの夜、忘却の雫で得たあの一時的なつぶやきとは、まるで違った。
あの時は、二十分だけの、かりそめの声だったが、今は違う。
この声は、もう消えない。
ずっと、自分のものとして、ここにある。これからも。
ノエルの目が、大きく見開かれた。
「……師匠……?」
声が、聞こえたことに驚いているのか、あるいはまだ夢の中にいるのか、その表情からは判断がつかなかった。
ノエルの瞳には、戸惑いと、それとは対照的な喜びの表情が同居していた。
アルドは、ノエルを見つめながら、これまで胸の奥に、何年もかけて積み重ねてきた感情の名前を、初めて、声に出した。
「ああ、あなたが無事で本当に良かった……」
最初、これは師匠が弟子を気遣ってのことだと、当たり前なことだと思っていた。
でも。三年の間、声を失いながらも、その成長を間近で見守り、純粋な気持ちで世界と対話することを片時も諦めずに続けてきた愚直なノエル。
アルドの中には、師匠としてだけではなく、世界と向き合うノエルに対して、熱く燃えるような憧れがあったのは間違いない。初めて彼女の詠唱を目の当たりにしてからずっと。
それも、ただの羨望。その行く末を一番間近で見守ることで、満たされると思っていたのだ。でも、今回の「万象浄化の叙事詩」の詠唱は、ノエルの生命力を極限まで削り、間違いなく死の淵に手がかかっていた。
そのときはっきりと、アルドの中にあるひとつの感情が、霞掛かっていた曖昧なものから、明確な姿として沸き起こってしまったのだった。
ノエルを失いたくない。
もし、失ってしまえば、正気ではいられない。
ああ、間違いない。
私は、彼女を愛してしまったのだ。
許されるのならば、これからもずっとあなたの傍にいたいと。
「愛しています、ノエル」
短い一言だった。だが、その一言に、これまでのすべてが詰まっていた。ずっと前から「名前のわからない温かさ」として感じ続け、自身に芽生えていた四つ目の感情として何度も書きながら、ついに名付けられなかった感情。
師としての情なのか、それを超えるものなのか——アルド自身にも、まだ正確には分からない。だが、名前だけは、今、確かに見つかった。旅の間、幾度となく感じてきたあの温かさの正体が、ようやく、声という形を得た。
「あなたへの、私の気持ちです」
ノエルは、その言葉を、まだ半分夢の中にいるような表情で聞いていた。理解が追いついているのか、いないのか。だが、その頬に、もう一筋、涙が伝った。
「……師匠の声、聞けました」
小さな、掠れた声で、ノエルはそう言った。
それから、また目を閉じた。安堵したように、深く、静かな呼吸へと戻っていく。
アルドは、その体をしっかりと抱きかかえたまま、しばらく、何も言わずにいた。
声を取り戻したばかりの自分に、まだ、何を言えばいいのか分からなかった。
ただ、この温かさを、この重さを、失わずに済んだことだけが、今は何よりも大切だった。
* * *
翌朝、王都の宿の一室で、ノエルは目を覚ました。
体の重だるさは残っていたが、命に別状はなかった。医師の見立てでも、数日休めば問題ないという話だった。
窓の外からは、鳥のさえずりと、王都の穏やかな朝の喧騒が聞こえてくる。
ノエルはベッドの上で身を起こし、隣の椅子に座るアルドを見た。
「師匠、昨日、はっきり喋りませんでした!?」
興奮した様子で、身を乗り出しながら言った。
目には、まだ確信と期待が入り混じっていた。
アルドは、しれっと筆談ノートを開いた。
ペンを取り、静かに文字を連ねた。
『……夢でも見たのだろう』
ノエルは、その文字をじっと見つめた。
それから、疑わしげに目を細めた。
「絶対、聞こえたと思うんですけど」
アルドは、小さく肩をすくめた。それ以上、何も書かなかった。表情には、これまでと変わらない静けさが浮かんでいたが、その奥に、昨夜のあの一瞬を、確かに覚えている者だけが持つ、密やかな余韻があった。
ノエルは、まだ納得のいかない顔をしていたが、それ以上追及することはなかった。窓の外には、昨日とは打って変わって、穏やかな朝の光が差し込んでいる。
じれったい距離は、まだ、続いていた。
* * *
「声が戻った日、私は初めて、その名前を口にした。
だが、朝が来ると、また元の沈黙に戻った。
それでいいと、今は思う」
―― アルド、王都の宿にて




