第102話 ノエルなら、一人で
グランド・アリアの儀式詠唱の翌日。
王宮の一室では、緊急の検証会議が開かれていた。
昨日の儀式の記録を、各配置の責任者たちが持ち寄り、突き合わせている。
広場の中央で規定どおりの詠唱を行っていた魔術師たちの詳細な記録、その周辺に配置されていた予備配置の詠唱士、もちろん広場東端に配置されていたノエルたちを含む、主力の補助をする役目として予備配置していた者たちの簡易な記録——そのすべてが、一つの表に整理されていく過程を、アルドは静かに見守っていた。ノエルはまだ療養中で、この場にはいない。会議室には、これまでにない緊張と、どこか居心地の悪い沈黙が漂っていた。
文官の一人が、順番に記録を読み上げる。
そして、最後に予備配置になっていた広場東端の記録を読み上げた。
最初は、ほんとうに予備配置で第一層か第二層までが限界の詠唱士が配置される場所だったこともあり、ほとんどの結果が簡単に報告を終えた。
声は事務的だったが、最後にノエルの詠唱になった段で、内容の重さにわずかに震えているようにも聞こえた。
「予備配置、同じく王都中央広場東端。ノエル・ブライトガーデン、アルド教授(予備枠付き添い)。詠唱記録、通算二十五節。地域精霊、大精霊、中級神、五柱の至高神までの第四層までに止まらず、神獣プラチナ・ジーク召喚——全五階層への到達を確認しています」
ノエルは、王都からもかなり遠い田舎の平民の家系に生まれ、出身の村では、魔術の才など一度も語られたことのない少女だった。
そんなひとりの少女がこの規模の魔術効果を巻き起こしたのだ。
その報告に、会議室が静まり返った。
誰かが、思わず息を呑む音が聞こえた。
二十五節という数字、そして到達した階層の名前の羅列——それだけで、この詠唱がどれほど異例のものであったかが、この場にいる誰にも理解できた。
「中央の第一陣、第二陣を含む、規定詠唱による魔術師、詠唱士のべ百二十三名の合計詠唱効果は、局所的な緩和にとどまり、天災そのものの終息には、直接寄与していないと判断されます」
その一言に、何人かの魔術師が、目に見えて動揺した。
全力を尽くしたはずの自分たちの詠唱が、「直接寄与していない」と、公式の記録で断定されている。
中には、悔しさを隠しきれず、顔を伏せる者もいた。
文官は淡々と続けた。感情を交えない声だからこそ、その内容の重さが、いっそう際立って響いた。
「一方、東端の予備配置にいた詠唱士による詠唱一件のみが、天災の完全な終息、およびリトシステムの機能停止という、二つの結果を単独でもたらしたと考えられます」
「単独で」という言葉が、会議室に重く響いた。百二十三名の総力と、たった一人の声。
その対比が、この場にいる誰の頭の中にも、はっきりと刻み込まれていた。
* * *
この会議の場には、王家・貴族院側の代表として、第一王子エルフレート、宰相であるクラウス・フォン・スピツィウス公爵、クラリッサ上級魔術師の父であるヴァルト伯爵、それに王立魔術学院の頂点に立つテオパルド学院長の実家となるグラムベルク侯爵が列席していた。
その対面には学院上層部が列席しており、テオパルド学院長、ヴィナス副学院長、フォルク、そして数人の上級魔術師の中に、アルドがいた。
報告を受けて、第一王子へ先に発言することの許可をとり、宰相クラウスが発言した。
「とても、信じられん。あの浄化の光をたったひとりの、しかも駆け出しの詠唱士が行ったというのか?」
それに対して、ヴィナスが応じた。
「リトシステムの記録を解析した結果と、複数の観測、目撃情報からも、グランド・アリアの最終的な魔術発動のトリガーとなったのは、ノエル・ブライトガーデン詠唱士に間違いないと確認しております」
「そのように言われても、まだ納得ができるものではないな」
「ですが、すべての事象が、その事実が正しいと証明しています」
そう言われても、クラウスは唸るだけで、納得がいっていない様子であった。
一人の魔術詠唱士が、世界規模の事象改変である、万物浄化の叙事詩/グランド・アリアを、第五層までにおよぶ大規模詠唱で実現したことを、信じられない、いや認めたくないのだった。
そこで、はじめてエルフリートが言葉を発した。
エルフリートは、王家の中では珍しく、若干であるが魔術の覚えがある。
王立魔術学院への就学はしていないが、個人的に上級魔術師の指南を受けているとのうわさがあった。その実力はこの場の誰も知らない。
「ヴィナス、そなたも実際に見ていたのであろう?」
「はい、殿下。広場の南端で観測の任におりましたので」
「では、そなたの見たことを私も信じよう――クラウス、信じたくない気持ちもわからんではないが、昨日のあの浄化の光はそなたも見たであろう? その事象の発生は疑いようがないぞ」
「し、しかし殿下……」
「疑うことよりも、事実をまず認めよ、クラウス。それで、ヴィナスよ。件の詠唱士は、この場にはいないのは、なぜだ?」
「殿下、それにつきましては—―」と、ヴィナスは横に座っていたフォルクに視線を向ける。
「発言をお許しください、殿下」とフォルクが告げた。
「許す」とエルフリートが応える。
「詠唱士ノエル・ブライトガーデンは、現在意識がなく、治療のため休んでおります。この場に列席できない非礼をお許し願えればと存じます」
「そうであったか。よい。ノエル・ブライトガーデンと申す詠唱士には、最大限の治療の機会を与えよ」
「感謝申し上げます。殿下」
「クラウス、ヴィナス、それに……」と言って、先ほどから不機嫌な顔で鎮座していた学院長に視線を向けて、エルフリートは付け加えた。「テオパルド、よいな。その詠唱士のことは、厳に頼んだぞ」
告げられた三人は、頭を垂れて、その意向に同意を示す。
周囲の皆々も、慌ててその様子にあわせて頭を下げた。
ただし、テオパルドは下げた頭で、苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。
それを目撃した者は、この場にはひとりもいなかった。
「うむ、頼んだぞ」と、エルフリートは告げると、側近と警護の騎士を連れて、会議室を後にした。
顔をあげたテオパルド学院長は、隣にいるヴィナスには聞こえないよう、側仕えに言葉を漏らす。
「忌々しい小娘め。ちょっと懲らしめてやらねば……」
それを聞いた側使えは、その場を辞して向かいの貴族席に列席のグラムベルク侯の側近へ耳打ちした。そして側近は、グラムベルク侯爵へ何かを伝えていた。
その様子を向かいに座ってアルドは訝しそうに見つめていた。その瞳には警戒の色が滲んでいた。
* * *
会議の閉幕後、フォルクとアルドは、廊下で言葉を交わした。
窓から差し込む昼の光が、廊下を静かに照らしていた。
「配置を決めたのは、王家と学院の合議だった」
フォルクは、これまでにない苦い表情で言った。
窓の外を見つめる横顔に、後悔の色が濃く滲んでいた。
「実力ではなく、家柄と学院籍の年数が、判断基準の中心だった。だが、あの子は、最初から、隅に置かれるべき人材ではなかった」
その声には、自分自身もその合議の一部にいたことへの、静かな悔恨が滲んでいた。
アルドは、ゆっくりと口を開いた。
声を取り戻してから、まだ日は浅い。
けれど、その声には、これまでの筆談では出せなかった、確かな響きがあった。
ゆっくりとだが、一区切りずつ、大事に言葉を告げた。
「彼女は、隅にいたことを、気にしていませんでした」
その一言に、フォルクは小さく頷いた。
「知っている。だからこそ、この結果が、皮肉に思える」
配置を決めた者たちの評価基準そのものが、結果によって、遡って否定された。
もし儀式の中央に配置されていたら、もし規定通りの詠唱を求められていたら——ノエルの声は、今回のような形では、届かなかったかもしれない。
隅にいたことが、結果として、彼女にとって最も自由に動ける場所を与えていた。
フォルクは、その皮肉を、噛みしめるように、しばらく黙って立っていた。
* * *
数日後、療養を終えたノエルが、練習場に戻ってきた。
まだ本調子ではないが、顔色は良くなっている。
秋の日差しが、練習場の石畳を柔らかく照らしていた。
マルクが、その姿を見つけて近づいてきた。
「体は、もう大丈夫か?」
言葉の端から、気遣いが感じられた。ノエルは頷いた。
「もう、平気です」
「そうか」
マルクは、少し間を置いてから、続けた。
「検証会議の結果は、聞いたのか?」
「聞きました。なんか、ちょっと、びっくりしました」
ノエルは、正直にそう言った。
自分の詠唱が、単独で天災を終息させた——その事実の大きさを、まだ完全には飲み込めていない様子だった。
その表情に、まだ困惑の色が残っている。
実感が湧かない、というのが、彼女の今の本当の気持ちに近いようだった。
マルクは、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「お前は、最初から、規格外だったんだな」
その一言には、これまでのマルクからは想像もできない、
率直な敬意が込められていた。
かつて中庭で「精霊の声が聞こえたことが一度もない」と告白した男が、今、目の前の少女の力の大きさを、正面から認めていた。
「配置なんて、関係なかった。お前一人で、十分だったんだ」
ノエルは、少し照れたように笑った。
両手を後ろで組み、少し視線を逸らしながら言った。
「マルクさんの任意節も、ちゃんと風に届いてましたよ。私だけの力じゃないです」
その返答に、マルクは小さく頷いた。
優劣の話ではなく、それぞれが、それぞれの場所で、確かに何かを掴んだのだということを、二人とも、静かに理解しているようだった。
広場の中心で詠唱していたマルクの声も、広場の東端にいたノエルの声も、どちらも同じ空へ向かって伸びていた。
練習場の風が、二人の間を穏やかに吹き抜けていった。
かつて、この同じ練習場で、マルクが初めて任意節を試みたあの日から、まだそれほど時間は経っていない。それでも、今ここに立つ二人の距離は、あの頃とはまるで違うものになっていた。
アルドは、少し離れた場所から、その光景を見つめていた。
声を取り戻した今も、この場面には、あえて言葉を挟まなかった。
二人だけの時間に、割り込む必要はないと思った。
* * *
練習場からの帰り道。
王都の宿へ向かう道すがら、だんだんと周囲が暗くなってきた。
まだ本調子ではないノエルを気遣って、ゆっくりと歩みを進めていたが、足元が暗くなってきたので、いつもよりさらに時間がかかっていた。
「私、田舎の出なんです。魔術を使える家系でもなかったし……だから、まだ実感がなくて」
「しっ!」
指を口元に立てて、立ち止まるアルド。
本通りから外れて、路地に入ろうとしたときだった。
二人の上空で、優雅に羽ばたいていたレイが、すっと傍らに降りてきて、アルドに告げた。
「おい若造。気づいているか。ちょっと厄介な連中がいるぞ」
その言葉に応じて、周囲の状況に魔力を集中させた。
その刹那、強い殺意を感じ取って身構えた。
「ノエル、私の後ろに下がっていてください」
「どうしたんですか、師匠? そんな怖い顔で」
少し不安そうに、尋ねるノエル。
「いいから、黙って従ってください。今からちょっと騒がしくしますが、落ち着いて」
こくんと頷いて、ノエルはアルドの後方へ下がる。
その頭に、ふっと軽やかに、レイが舞い降りる。
「大丈夫だ。若造にまかせておけ」
そうレイが告げた刹那、路地の向こうから、複数の人影が踊りでてきた。
明らかに、友好的な物腰ではなかった。
それを証明するように、脇から剣を抜いて立ち塞がった。
刺客と対峙したアルドは、前脚の膝の力を一瞬で抜いた。
支点を失った体が、前方へ倒れ込むようにすっと滑り出す。
その動きは隙ではなく、彼が魔術だけでなく、格闘、剣術にも明るい証明だった。
これは、彼が研究の傍ら、古代詠唱魔術にある身体強化理論に基づく“間合いの奪取”であった。
狭い路地に、一陣の風が流れ、一瞬で片が付いた。
気づいたときには、三人の刺客は地面に伏していたのだ。
傍らには、細身の剣がへし折られて転がっている。
「……未熟者め」
「え……?」
「命令した者も、従った者もだ。こんな短絡的な行動に出るとは」
平民の娘なら、消えても誰も騒がない——そう考える者が貴族の中にいても、おかしくはなかった。数日前の会議場での不審な動きが思い出される。
「いや、今の……膝抜いて滑り込んで剣折るって……ほんと怖いわ……」とレイが割り込んだ。
「……手加減はした。息はある」
その瞬間——アルドの動作をなぞるように、精霊シルの気配がふわりと吹き抜けた。
風霊シルは、まるでアルドの動作を助けたと言わんばかりに、空気を揺らしていた。
「念のため、部屋か宿自体を変えましょう。ノエル、いいですか。」
「……はい。」
ノエルは、何が起きたのか把握できないまま、ただ震えていた。
* * *
「隅に置かれたことが、結果として、最も自由な場所を彼女に与えていた。
配置を決めた者たちの評価基準が、結果によって、静かに覆された」
―― アルド、王宮の廊下にて




