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POETRY WITCH(ポエトリー・ウィッチ) -言の葉の代償(テノア)は琴音(こえ)で払え-  作者: ちとせ鶫
第1部 言の葉の重み

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第97話 五柱の至高神、その二

 残る三柱への声を、ノエルは静かに紡ぎ始めた。


 喉の渇きからくるその痛みは、もう軽いものではなくなっていた。

 けれど、それを気にしている余裕は今の彼女にはなかった。

 

 ガイアスとセレスがともに応えてくれた今、立ち止まることは、その応えを無駄にすることに等しい。ノエルはそう思っていた。

 体が芯から、少しずつ重くなっている感覚があった。

 指先の震えも、先ほどより強くなっていた。

 それでも、心のどこかは、驚くほど静かだった。

 恐れも、迷いも、そこにはなかった。

 ただ、届けるべき伝えるべき言葉が、まだ残っている、という確固たる意志だけが彼女の心を支配していた。


 グランド・アリアの第四層、第ⅩⅢ節。

 ノエルは膝が笑うのをこらえながら、ゆっくりと立ち上がり、手のひらを上に向けた状態で両腕を水平に持ち上げて、詠唱を再開した。


「ルミナスよ、光を司る御方よ

 闇を払い、道を照らし、生きるものすべてに恵みを与えし御方よ

 この国の民が、病と不安の闇に沈みかけている


 あなたの光で、病んだ命を照らしてください

 傷ついた者の体に、癒しの光を

 傷ついた者の心に、希望の光を


 夜を恐れる子どもたちにも

 先の見えぬ日々に疲れた大人たちにも

 あなたの光が、等しく降り注ぎますように」


 声を発した瞬間、東の空に、これまでとは違う明るさが差し込んだ。

 雲間から漏れる光ではない。もっと直接的な、意志を持った光だった。


 広場の外周には、王国に住まうさまざまな人々、商人や農夫など様々な職種の者、異国の衣をまとう者、男女、老人や子供、いろいろな年齢、性別の者たちが見物に集まっていた。

 それら民衆の見守るエリアから、驚きの声が上がった。

 子供を抱いた母親が、思わずその光の方向を指さした。


「ノクスよ、闇を司る御方よ

 昼と夜の境を保ち、休息と再生の時をもたらしし御方よ

 この国に広がる病の瘴気を、あなたの静けさで包んでください


 瘴気を、深い眠りへと誘い、封じてください

 二度と、この地の人々を苦しめないように


 闇は、恐れられるものだけではないと

 あなたは、いつも静かに教えてくれていました

 その優しい静けさで、この地を包んでください」


 ノクスへの節を唱えたとき、空気が一瞬、ひやりと沈みこんだ。

 恐ろしい沈黙ではない。

 むしろ、包み込むように守られているような、静かな重さだった。

 アルドの魔力感知にも、その質の違う気配が、はっきりと届いていた。

 冷たさの奥に、確かな慈しみが感じられる、不思議な気配だった。


「イグニスよ、火を司る御方よ

 浄化と再生の炎を宿し、穢れを焼き尽くす御方よ

 この国に巣食う病の根源を、あなたの炎で焼いてください


 優しさだけでは届かない場所に、断ち切る力を

 穢れの根を、完全に絶ってください


 燃やし尽くした後には

 新しい命が芽吹く土壌を

 どうか、この地に残してください」


 その瞬間、遠くの空が濃い赤、紅蓮の光に一瞬ぱっと染まったかと思うと、光の柱が一本、天空より射しこんでくる。

 トールの雷とは違う、もっと熱を帯びた、確かな力の気配だった。

 

 広場全体が、一瞬、わずかに温度を上げたような錯覚をアルドは覚えた。


     * * *


 アルドは、自身の魔力感知が限界に近づいているのを感じていた。


 これほどの規模の気配を、同時に、これほど長く感知し続けたことはなかった。

 頭の奥が、鈍く痛み始めている。

 だが、それを表に出すわけにはいかなかった。


 そこでアルドは、地面に両手を差し向け、精霊テラへ短い言の葉を説いた。

 ふらふらになりながらも、意思の力で踏みとどまり、長い時間に渡り詠唱を続ける弟子の身体を、倒れないよう支えること。この素晴らしい瞬間を守れるのは自分しかいない。

 

 ノエルの隣に立ち続けることだけが、今の自分にできる、唯一のことだった。

 声を持たない自分に、他にできることはない。

 だからこそ、この一つのことだけは、最後までやり遂げなければならないと、アルドは思っていた。


 ルミナス、ノクス、イグニス——三柱の気配が、天空から伸びる光の柱とともに、この広場の東端、ノエルの周りに、確かに集まってきていた。


 ガイアスとセレスの、深く静かな気配とは違う、もっと鋭く、もっと直接的な力を持った存在たちだった。それぞれの気配が重なり合うたびに、アルドの内側では、何かが軋むような感覚があった。痛みではない。ただ、限界に近い場所を、常に測り続けているような、緊張感だった。


 広場の空気が、目に見えて変わり始めていた。

 広場の中央で規定に沿った詠唱を行う魔術師たちの声にも、これまでとは違う緊張が混ざっている。何かが、確実に動き出している。

 誰もがそれを、肌で感じ取り始めていた。


 幾重にも天空から地面を貫く光の柱。その光景に圧倒され空を見上げる者、地面に手をつく者、それぞれが、この異変を、それぞれのやり方で受け止めていた。


 マルクの詠唱の声が、東端の方向を強く意識しているのが、遠目にも分かった。彼の規定の節に混ざる任意の言葉が、これまでよりも自然に、より頻繁になっている。


 中央にいながら、彼はすでに、東端で起きていることの一部になろうとしているようだった。あの日、廊下で交わした約束——「広場の端にも、精霊の声が届く」という言葉を、マルク自身が今、証明されつつあるのを見ているのかもしれなかった。


 フォルクの顔に、驚きと、確かな確信が同居していた。

 三十年前に一人で提案し、棄却された問い——「規定が神霊の意志を無視しているのではないか」という問いの答えが、今、目の前で証明されようとしている。


 ヴィナスも、書類をすでに手放し、ただ広場の東端を見つめ続けていた。十五年間、数字の裏側に感じ続けてきた違和感の答えが、今、彼女の目の前で、確かな形を取り始めていた。


 アルドは、ノエルの喉の掠れを、その声の微かな震えから聞き取っていた。

 もう意識が長くは持たないかもしれない。けれど、この詠唱を止めるという選択肢を、アルド自身も持っていなかった。ここで止めることは、ここまで積み上げてきたすべてを、無に帰すことになる。それに——今のノエルは、止まることを望んでいない。その意志を、アルドは誰よりも近くで感じ取っていた。


     * * *


 レイは、王都の空で、その光景を見つめ続けていた。


 (三柱、揃った)


 ルミナス、ノクス、イグニスの気配が、ガイアスとセレスの気配と合わさり、五柱すべてが、地上の少女の声に応えている。

 三百年前の「大地の慟哭」以来、これほどの規模の応答は、なかったはずだった。

 歴史の中でも、数えるほどしか起きたことのない現象が、今、目の前で起きている。


 (あの子の体力は、もう限界に近い)


 レイには、それが分かっていた。

 声の掠れだけではない。

 詠唱に込められる力そのものが、少女の生命力を、確実に削り取っている。

 指先の震え、視界の揺れ、呼吸の乱れ——それらすべてを、レイは遠くからでも、はっきりと見て取ることができた。


 けれども、ここで止めさせるべきかどうか、レイ自身、まだ判断がつかなかった。止めさせることは簡単だ。だが、それが本当に、あの子のためになるのかどうか。


 (プラチナ・ジークまで、あと五節)


 たぶん、次の階層が、今のノエルの限界。

 最後の階層になるだろう。

 そこまで到達すれば、三百年来最大規模でグランド・アリアは発動する。


 だが、そこまで、あの子の体が持つかどうか。

 三百年前、これを成し遂げた魔術師/詠唱士たちがどうなったのか、記録にはほとんど残っていない。それだけの代償を払った、ということかもしれなかった。


 しかもそれはあくまで集団での儀式詠唱の結果である。

 今回、この階層まで儀式の階層を引き上げているのは、あの小さく可愛らしい、顔にあどけなさの残る少女ひとりなのだ。


 (アルドは、まだ動かない。あの男も、覚悟を決めているのだろう)


 レイは、ノエルとアルドの二人を、静かに見守り続けた。

 忘却のレテ・ドロップは、まだ懐に残っている。使うべき瞬間が、もし来るのなら——それは、きっと、もうすぐだった。そう、もうすぐ。


 けれども、その瞬間の見極めを、誰かに委ねることはできない。

 この判断は、レイ自身が下さなければならないものだった。

 そうだ、あの子を守らなければ。


 (もう少し、見よう。もう少しだけ)


 王都の空の下、地上では、無数の視線が東端に集まり始めていた。

 何かが起きている——その予感が、広場全体を静かに包み込んでいた。


     * * *


 三柱への呼びかけを終えたノエルは、大きく息を吸おうとして、軽くむせた。


 声が、掠れを超えて、震え始めていた。

 だが、ノエルは動じなかった。目の前に、五柱すべての気配が、確かに集まっている。それを、肌で感じ取っていた。

 土の重み、水の潤い、風の軽やかさ、光の温もり、闇の静けさ、そして火の熱——それぞれ違う質感を持った力が、今、彼女の周りに集まっていた。


 天空からは光の帯が幾重にも差し込み、またノエルの体やの周囲には湯気が立ち込めるように光の粒が湧き出して、埋めていく。オーブがさらにその周りを舞っていた。


「……皆さん、ありがとうございます」


 口語に戻った声は、掠れながらも、確かな感謝を込めていた。


「あと少しです。もう少しだけ、力を貸してください」


 左右に伸ばした両腕、天に向けた手のひらが、震えていた。


 けれども、その震えは、恐れからではなく、これまで積み重ねてきた声のすべてが、今、一つに集約されようとしていることへの、静かな高揚だった。


 旅の中で出会ってきたすべての精霊たちの縁が、脳裏を過ぎった。

 井戸の村の老婦人、水路の子供たち、北の村の乾いた土——その一つ一つが、今、この大きな祈りの中に、確かに息づいていた。


 ノエルは、詩の調べへと、もう一度返る。


「ルミナスよ、ノクスよ、イグニスよ

 ガイアスよ、セレスよ

 五柱すべての御方よ、あなたたちの力を、今、確かに受け取りました


 この声を、さらに高みへ

 プラチナ・ジークの御許へ、届けるために

 最後の力を、貸してください」


 第XX節目が終わった。


 そのとき、ノエルの視界が、一瞬、揺れた。


 けれど、すぐに持ち直す。意識をつなぎとめた。

 まだ、続けられる。

 まだ、止まらない。

 膝の感覚が、少しずつ薄れ始めている。

 それでも、心の中心にある声だけは、まだはっきりとしていた。


 第四層、完了。


 残るは、第五層。

 プラチナ・ジークへの最後の五節。

 ノエルはそこまでが、今の限界だと感じていた。

 でも、そこまでの詠唱でなければ、この世界の救済は失敗に終わる。

 いまできることをするだけ、それだけのこと。


 名乗りと、発動。

 すべての祈りが、そこに集約される。

 アルドが隣にいる。それだけで、ノエルは、まだ前を向くことができた。


     * * *


「五柱すべてが、応えた。

 三百年ぶりの光景が、今、この広場で起きている。

 それでも、彼女は、まだ止まらなかった」

―― アルド、広場の東端の配置にて

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